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1. かつて存在した日本官職。本項目で説明。
2. 小豆アズキ)の品種名。

官職としての大納言

訓読みは「おほいものまうすのつかさ(おおいものもうすのつかさ)」。
祭儀を司る神祇官に対し、政務を補佐する太政官に置かれた官職の一つで長官(カミ)に当たる右大臣内大臣に次ぐ次官(スケ)である。大臣(丞相)に次ぐものという意味から「亜相」とも呼んだ。
官位相当は正三位、後に正・従二位の者が多く就いた。侍従兼任の場合もある。

大臣らと共に政務に関して話し合い、天皇の仰せられる事から否なるを替(しりぞ)け、可なるをば薦める。また宣下(天皇の言葉を民衆に伝え)と奏上(民衆の意見を天皇に申し上げる)を行う。ここから中国の古典を引いて「天下喉舌の官」と呼んだ。
大臣らが摂政関白を兼ねた場合や病気怪我、休暇などの欠席時に、その代行を務める。
他の官職と違い人数が多いため、平大納言というように苗字を着けて呼ぶ。あるいは在地を取って駿府大納言などといった。また「一の大納言」という場合は、大納言の筆頭を指し、「かずより外(ほか)の大納言」と呼ばれる場合は、定員外を意味する。
さらに「新大納言」という場合、新任の者を指した。
(普通、公家社会では官職で呼び合うが、ネットも新聞もない時代であり新任の場合などにはこうしたこともあった。)

天智・天武天皇の時代に設けられた「納言」という官職があるが、この職が発展したものなのかどうかは分かってない。
正式には大宝律令によって定員は4名と定められたが705年、政治上の重要なポストであり相応しい人間に限るとして宇多天皇により2名に減じ、代わりに権大納言を1名置いて三名となった。
しかしこれが有名無実化の切っ掛けとなり、時代が下ると権官が増え続けた。
藤原氏による摂関政治以降、8人が大納言を名乗ったが後白河院の時代には、遂に10人に達した。そこから再び摂政・九条兼実によって六名に定められたものの後鳥羽上皇が院政を開くとまた再び10名が定員となった。
明治維新後、一時復活したが、1871年(明治4年)に最終的に廃止された。

なお、江戸時代にはいずれも親藩である紀伊、尾張の両藩主が大納言に任じられている一方、水戸徳川は紀伊・尾張よりランクが一段低く中納言に任じられている(ただし、水戸藩だけは江戸から領地に帰らなくてもいいという特権を与えられていた)。

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