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姉小路頼綱

あねがこうじよりつな

戦国時代・安土桃山時代の武将・国司・公家・公卿。飛騨姉小路(三木姉小路)家の当主。三木自綱と言われることもある。正室は斎藤道三の娘で濃姫の妹。織田信長は道三を通じた相婿かつ義兄。斎藤利治は義弟。
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プロフィール編集

生没年:1540年(天文9年)~1587年(天正15年4月25日)

幼名:岩鶴丸

姓:三木(みつき)氏→姉小路氏

諱:光頼→自綱(よりつな、あきつな、これつな)→頼綱

号:久安(久庵)

法名:寒厳道松大龍院


官位(正式):従五位下、左衛門佐、侍従

役職:飛騨国司

官位(自称):大納言など


概要編集

飛騨国司姉小路家とは編集

「戦国三国司」御三家の一つ。あとの二つは九条家出身の一条実経を祖とし戦国時代に土佐へ下向した土佐一条家北畠親房の直系子孫である伊勢国の北畠家である。

姉小路家はいずれも藤原北家の流れを汲む閑院流・小一条流・勧修寺流という三つの流派があるが、飛騨国司家は小一条流である。ちなみに、幕末における「朔平門外の変」で田中新兵衛らに暗殺された姉小路公知は閑院流である。

小一条流姉小路氏は小一条流藤原氏の祖である藤原師尹(忠平の五男)の子で京の姉小路に屋敷を構えた済時を初代とする。鎌倉時代鎌倉幕府北条氏に近かったため、後醍醐天皇には冷遇された。このため北朝足利尊氏に近い立場だったが、家綱の時代に観応の擾乱足利直義・直冬方の中心人物として活躍した越中桃井直常との関係から南朝方に付き当時の長慶天皇から飛騨国司に任じられたと思われる。これ以降、代々飛騨国司家と呼ばれたが一族は小島家(宗家)・古川家・向家(向小島家)に三分裂し、やがて対立した。1411年、室町幕府4代将軍・足利義持の命で派遣された守護京極氏に当時の姉小路宗家当主・姉小路尹綱が討たれている(飛騨の乱)。乱後、古川家が小島家を圧倒して宗家の地位を奪うが、同家は混乱状態となり戦国時代になり三木氏の下克上を許すことになる。


戦国大名・姉小路氏の誕生編集

頼綱の実家・三木氏は藤原秀郷または宇多源氏佐々木氏の庶流とされるが前者が有力視されている。元は飛騨守護・京極氏の被官で近江甲賀郡三木を本貫地とし三木を称した。飛騨の乱の際に京極氏に従い近江から飛騨に移った。頼綱の祖父・三木直頼は守護・京極氏や国司・姉小路家が衰退したことに乗じて飛騨の南半分を征服し三木氏発展の礎を築いた。祖父の死後、三木家を継いだ父・良頼は古川家を滅ぼし、小島家と同盟を結んだ。

1558年、良頼が将軍・足利義輝や関白・近衛前嗣に接近して工作した結果、朝廷から従五位下・飛騨守に叙任され飛騨国司となった。

また良頼は自綱(当時)に古川流姉小路家を事実上家名継承させた。紛糾したものの自綱の母である良頼の継室が近衛家出身だったこともあってか朝廷すなわち正親町天皇も認めた。良頼・自綱父子は姉小路姓を称し、ここに戦国大名・姉小路氏が誕生した。

1562年、良頼が前嗣の偏諱を貰い嗣頼と改名した際、自綱も頼綱と改めている。また箔付けのためか嗣頼は中納言、頼綱は大納言などを自称した。

なお、嗣頼の極官は従三位・参議(このため「飛騨宰相」とあだ名された)、頼綱は従五位下・侍従である。


姉小路家の動向編集

頼綱が世に出た頃の姉小路(三木)家は桜洞城(下呂市)を拠点に周辺の有力豪族を圧倒し飛騨北部の高原諏訪城主・江馬時盛や白川郷の帰雲城主・内ヶ島氏理と共に飛騨を事実上三分していた。とは言え周辺の強国である斎藤義龍武田信玄上杉謙信との関係に対し、いずれの勢力も腐心していた。姉小路家も1564年に信玄の命を受けた飯富(山県)昌景木曾義昌に攻められた時には武田家へ従属を余儀なくされた。江馬氏に至っては武田方の時盛と息子で上杉方の輝盛が対立してしまう。

その後、義龍の子・斎藤龍興を滅ぼし足利義昭を擁立して上洛した織田信長が元亀元年(1570年)に、嗣頼に対して上洛命令を出した時、頼綱は父の命で上洛し信長と誼を通じた。

1572年、父の逝去により姉小路家の家督を継ぐ。

のち長篠の戦い御館の乱武田家上杉家が衰退したこともあって、織田家と親族同盟を結ぶ。信長と正室濃姫が認めた美濃斎藤家後継者である斎藤利治は、濃飛の国境である加治田城を本拠としており、利治と頼綱も義兄弟で、深い信頼関係があった。

その利治を総大将とした織田軍が越中へ進出し、上杉家の河田長親と戦った月岡野の戦いにおいては頼綱自ら援軍に出向いて勝利した。

1579年、本拠地を桜洞城から飛騨松倉城(高山市)に移している。

1582年、武田勝頼を滅ぼした甲州征伐においても飛騨国より支援を行った。


本能寺の変後編集

1582年6月、明智光秀の謀反により信長は本能寺にて自害、信忠と利治は二条新御所で討死してしまう。すると(1578年に父・時盛を殺害し江馬氏当主になっていた)江馬輝盛を中心とした反姉小路派が息を吹き返した。同年10月、姉小路勢は1,000、江馬勢は300を動員し「飛騨の関ヶ原」ともいわれる「八日町の戦い」にて雌雄を決し、輝盛を討死させた。


八日町の戦いの三ヶ月後、日頃から折り合いの悪かった嫡男・信綱と弟の鍋山顕綱(信綱の後見人でもあった)夫妻を羽柴秀吉(または上杉景勝)に通じていたとして刺客を放ち暗殺し、次男・秀綱を嫡子とした。さらに鍋山氏に近い広瀬宗域や牛丸親綱をも追放したことで頼綱は飛騨統一を果たした。姉小路小島氏宗家・小島時光には頼綱の五男・基頼を養子に迎えて臣従させていたが、牛丸氏に追われ常陸国の佐竹義宣に仕えていた姉小路向氏・向宣政にも娘を嫁がせ、姉小路氏御三家親族同盟を結んだ。また、内ケ島氏に対しても自治を認める同盟を結んでいる。飛騨統一後、頼綱は次男の秀綱に家督と松倉城を譲り、自身は高堂城に入った。


飛騨征伐で飛騨国追放編集

その頃、旧織田家では勢力を伸ばす羽柴秀吉と信忠の遺児・三法師の後見人となった織田信孝との対立が激しくなる。信孝方には秀吉に反感を持つ柴田勝家佐々成政らが加わり頼綱も斎藤利堯(利治の兄、のち秀吉方に転じる)と共に同調し、この頃から徳川家康とも友好を結ぶ。一方、秀吉方には信孝に反感を持つ織田信雄池田恒興らが同調するなど双方の対立が激化する。


のち勝家は賤ヶ岳の戦いを経て秀吉に滅ぼされ、信孝も秀吉と信雄に尾張国野間で切腹に追い込まれてしまうが、その後も頼綱は成政と反秀吉で連携し続けた。小牧・長久手の戦いの戦い後、秀吉は成政討伐のため自ら兵を率い越中へ出陣(富山の役)。

同時に金森長近に対し頼綱討伐を命じ金森勢は飛騨へ出陣する。この時、姉小路氏に飛騨を追われた江馬氏・広瀬氏・牛丸氏・鍋山氏も先導役として金森軍に加わっている。


金森軍は長近率いる本隊と可重(長近の養子)率いる別動隊に分かれ南北から飛騨に侵攻し、姉小路軍は次々に各個撃破されてしまう。

頼綱は隠居城である高堂城を包囲されたが、長近の降伏勧告を拒否し籠城する。金森軍を迎え撃ち、金森軍は攻めあぐね苦戦する最中、朝廷より降伏の命があり、頼綱は朝命に従い降伏した。一方で姉小路小島家の小島時光・基頼は朝命が間に合わず金森軍に滅ぼされ小一条流姉小路家は名実ともに滅亡した。また、内ヶ島氏理は自ら富山へ成政救援に赴いたものの金森勢に留守居の家臣を調略され帰雲城を失ったため降伏し、成政も信雄の仲介で秀吉に降伏している。


頼綱降伏後も、秀綱は弟の季綱と共に本拠である松倉城にて抵抗を続けたが秀綱兄弟は木曾を目指して落ち延びる途中、落武者狩りに遭い落命し首は秀吉の命で獄門に掛けられたとされる。義弟の一宮三澤(三木国綱)は隠棲後に「三澤の乱」と呼ばれる一揆を起こすが可重に討たれた。


晩年編集

頼綱自身は信長や濃姫の親族であることや朝廷に仕える公卿だったため助命され、京まで厳重に護送され幽閉されたが、親族の近衛前久・遠藤盛隆・向宣政らの援助を受けて暮らした。

幽閉から解放された後、頼綱は公家として朝廷に仕えた。姉小路(三木)氏の存続などを得ることに成功した。

その後、剃髪し休安と名乗り隠棲。1587年に逝去、享年48。京都にて手厚く葬られた。


血縁編集

  • 祖父:三木直頼
  • 父:三木良頼(姉小路嗣頼)
  • 母:近衛前嗣の娘で元姉小路高綱室
  • 正室:斎藤道三の娘(濃姫の同母妹で斎藤利治の同母姉)

  • 長男:姉小路信綱…暗殺されたのは1579年とも。
  • 次男:姉小路秀綱…姉小路氏最後の当主。
  • 三男:姉小路季綱…顕綱死後、鍋山氏を継承。名は鍋山元綱とも。
  • 四男:森直綱…尾張藩徳川義直(家康の九男)に出仕。
  • 五男:小島基頼…小島時光の養子。
  • 六男:三木近綱…三木に復姓。徳川家に出仕。名は元頼とも。

  • 弟:鍋山顕綱…鍋山安室の養子。
  • 義弟:三木国綱…妹婿。元は飛騨一ノ宮の神官で三木姓を許された。別名は一宮三澤。
  • 義弟:斎藤信利…妹婿。越中斎藤氏。上杉・織田・佐々・徳川に仕え最終的には江戸幕府旗本となる。

人物編集

  • 妻は正室のみで側室はいない。妻を娶った時期は祖父・三木直頼と舅・斎藤道三が共に存命していた1554年以前と考えられている。子宝に恵まれ、夫婦仲も悪くなく、頼綱が武将を廃業し公家になってからも最後まで京都にて共に過ごしているので絆は大きい。
  • 先述の通り母が近衛家関係であるので、朝廷より正式に姉小路氏の飛騨国司の地位を認められた。頼綱は戦国乱世においても朝廷を飛騨国より国司として支援し、援助を行い行事にも参加しており、朝廷からも頼られた。
  • 小島時光とは相性が良く最後まで好関係だったが、時光もまた頼綱の腹心としての立場を弁えて仕えた。
  • 織田信長の命で上洛した際には公家衆の一員として扱われた。
  • 徳川家康との関係は良好であり、このためか生き残った直綱や近綱及び他の親族たちの出仕を徳川家に認められている。
  • 豊臣秀吉が上杉景勝に宛てた飛騨征伐についての書簡では頼綱や秀綱を旧姓の「三木」で記している。
  • 本拠地とした高山が現在でも「飛騨の小京都」と呼ばれているのは姉小路(三木)氏や金森氏の文化力の高さのおかげと言えるかもしれない。
  • 松倉城に本拠地を移転してからは夏は松倉城に居し、冬は旧本拠地の桜洞城に居していた。なお、隠居後は隠居先の高堂城で過ごした。
  • 岐阜県飛騨地域の弾昌寺において頼綱肖像画や位牌を拝観できる。

創作物での扱い編集

戦国BASARAシリーズ編集

緑

姉小路頼綱(戦国BASARA)


信長の野望シリーズ編集

『全国版』から近作『創造』までシリーズ全作に登場。名前や顔画像がない初代『信長の野望』でも「姉小路」姓の大名が登場している。シリーズを通して大体絶望的な大名の象徴。


史実通り、信長包囲網の時期までは父・良頼(嗣頼)の配下で登場する。作品やシナリオによっては旧名の三木自綱名義で登場。頼綱が当主になってからは武田・上杉さらに織田に囲まれ場合によっては本願寺までも来襲することがある。

後述のように頼綱自身の能力は悪くないのだが、かなり厳しい立地の上に弟の顕綱に義弟・国綱たちの配下もピリッとしないため超上級者向けの大名として愛されている。


特に古い作品だと自らのターンが回ってくる前に上杉や武田に攻められて終了とかいう事すらある。


必然的に配下としてプレイすることが多くなるが、そこそこ使える。能力値も平均からそれ以上(60台前半~70代半ば)であり(作品にもよるが)朝廷との外交数値も高い。史実通り寿命がやや短めなので少しでも長く使いたいなら延命アイテムは必須。


頼綱を当主や家臣の中心として扱えば、歴代最強である『戦国群雄伝』シナリオ2における政治84、戦闘67をも越える能力値に革新的に成長する。下手したら、100以上になる。


一応、立ち回り次第で何とかなるようにはなっているが、やはり上級者向けであることには違いない。


『天下創世』以降の作品では、やたらいい笑顔の画像となっているがそれ以前でもわりとイケメンである。ゲームをやり苦戦しながらなんとか絶体絶命から苦戦しながらクリアしたらと何かしら達成感に浸り、自らも嬉しくなり笑顔となり、自然と感動と朝廷と天下を治めた涙に浸り、頼綱の笑顔の意味がよーく解る。


関連タグ編集

戦国武将 中部勢 公家 公卿 姉小路氏

斎藤道三 織田信長 金森長近 高山市

信長の野望 二階堂盛義 顔芸 斎藤利治

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