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正親町天皇

おおぎまちてんのう

正親町天皇とは安土桃山時代の天皇。
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重要

後奈良天皇の第一皇子。生母は万里小路栄子。諱は方仁(みちひと)

経歴

即位

弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。

さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。永禄8年(1565年)には、キリスト教宣教師の京都追放を命じた。

織田政権の頃

朝廷の財政は逼迫し。権威が落ちかけていたが、織田信長が天皇を保護し、京都を制圧した。この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を用い、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。元亀元年(1570年)の朝倉義景浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正2年(1574年)には、信長に蘭奢待の切り取りを許可し、天正5年(1577年)には信長の生前の極官となる右大臣を宣下した。

豊臣政権の頃

信長の死後、豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。当時、秀吉は中国朝鮮や東南アジアへの進出という壮大な野望を抱いていた(文禄の役)。明を征服した暁には「叡慮」を明に移し、その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる。この計画は朝鮮出兵での失敗によって頓挫したものの、その後も皇室と織豊政権の相互関係は続き、結果的に皇室の権威は高まった。

天正14年(1586年)、皇子である。誠仁親王が早世し、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。享年77。

関連項目

朝廷 天皇 皇室 織田信長 豊臣秀吉

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