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概要編集

戦国時代安土桃山時代の第106代天皇


経歴編集

即位編集

1517年6月18日(永正14年5月29日)に後奈良天皇と万里小路栄子の皇太子として生まれた。諱は方仁(みちひと)

弘治3年(1557年)に後奈良帝の崩御に伴って践祚した。だが、当時の朝廷天皇貴族も戦国乱世の混乱で困窮状態で、父と同様に正親町帝も中国地方の武将・毛利元就から献上金が来るまで、即位の礼を挙げられぬほど財政は逼迫していた。

本願寺顕如から莫大な献金を受けたことで正親町帝は顕如に門跡の称号を与え、これをきっかけに本願寺は権勢を強め、永禄8年(1565年)にはキリスト教宣教師の京都追放を命じた。


織田政権時編集

朝廷も天皇も権威は落ちぶれていたが、状況を変える需要人物が現れる。永禄11年(1568年)、中部地方で勢力を拡大していた織田信長足利義昭将軍に擁して上洛。中央政界に乗り込んだ信長は天皇を保護するという大義名分により、京都を制圧した。

信長は様々な政策や援助で財政難の朝廷と皇室の権威を回復させた。言わば、経済力のある信長は正親町帝にとってスポンサーのような存在となった。一方で信長は天皇の権威を最大限に利用した。元亀元年(1570年)の朝倉義景浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いなど、敵対勢力との和睦に勅命で実現させた。


信長が義昭を追放にして室町幕府を終わらせると天皇と朝廷は信長を「天下人」と認めるようになった。天正5年(1577年)に正親町帝は信長の生前の極官となる右大臣を宣下したが、それ以上の官職には就かずにいた。天正9年(1581年)に京都で織田家と家臣団による御馬揃えが開催され、正親町帝も観覧した。そして天正10年(1582年)、正親町帝・朝廷と信長の間で関白太政大臣・征夷大将軍のいずれかに信長が任官されるかについての「三職推任」が交わされた。また、信長は拠点とした安土城に行幸のための御殿「御幸の間」を建造していた。


豊臣政権時編集

その信長も本能寺の変で落命し、羽柴秀吉が信長の統一事業を受け継いで天下人へと歩んだ。秀吉は天皇を後ろ盾とすべく御料地や黄金を献上。天正13年(1585年)、四国攻めの最中に秀吉は近衛前久の猶子となって関白の宣下を受け、天正14年(1586年)には正親町帝から「豊臣」姓を賜り、太政大臣に就任。中央政界で政権体制を構築する秀吉にとって、公武双方の上に立つためには天皇の存在は必要不可欠となった。

天正13年(1585年)に秀吉は正親町帝に禁中献茶を行い、この時に千利休も奉仕し、宮中参内するため居士号「利休」を勅賜された。翌年には黄金の茶室も天皇に披露された。


天正14年(1586年)、皇子である。誠仁親王が早世し、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。享年77。


正親町帝と信長編集

正親町帝と信長の関係は対立的だったか、融和的・協調的だったかについては議論が続いている。そしてこれは本能寺の変黒幕説にまで関わる。


対立説編集

対立説では信長は正親町帝の関係が次第に悪化。古い既存の秩序体制や価値観を破壊していく信長にとって天皇はその最たる存在であり、正親町帝にとって信長が従来の秩序を蔑ろにしていく脅威的存在になり、互いに疎むようになったとされる。

信長は言いなりとなっていた誠仁親王に即位させようとして、正親町帝に譲位を迫っていた。そのために軍事パレードであった御馬揃えで威圧しようとした。三職推任では関係を模索する朝廷側を信長は翻弄、あるいは信長からこの三職を要求していた。

さらに飛躍した説では、信長は皇位簒奪や皇室廃止、天皇を超える新たな権威の構想、天皇の支配下、自身の神格化までも企て、本能寺滞在の時に本当は朝廷制圧・譲位強行を計画していたという。そこで正親町帝は勤皇的でもあった明智光秀に働きかけて本能寺の変を起こさせた、というもの。


融和説編集

一方の融和説では両者は互いを必要とする存在同士であったため、敵対的になることはなかったとしている。

信長は天皇の権威を最大限に独占的に利用して天下人として天下統一を目指し、正親町帝は信長を経済的スポンサーであり天下の秩序を治める最高実力的権力者として欠かせなかった。三職推任も無官の信長を朝廷につなぎとめるための正親町帝からの打診であった。御馬揃えは軍事パレードというより沈滞した京都の雰囲気を払うためのお祭りの様相だったという。

正親町帝が譲位するかについては高齢の天皇自身からの希望であったが、上皇となった時の御所の選定やそのための費用が困難だったため、信長は譲位に同意できなかったとされる。


信長の死によって具体的展望・構想が何であったかは不明のままとなったが。現在では後者の融和説が主流で、信長は中央政界で「公武結合王権」を目指していたとされ、正親町帝はその王権に不可欠な存在になっていた。


皇統編集

・永高女王

・皇女

誠仁親王陽光院

・皇女

・春齢女王

・永尊女王

・皇女


関連項目編集

朝廷 天皇 皇室 織田信長 豊臣秀吉

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