基本情報
御名(諱) | 嘉仁 |
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代数 | 第123代(位:大正元年(1912年)~大正15年(1926)) |
称号 | 明宮 |
誕生 | 明治12年(1879)8月31日 |
崩御 | 大正15年(1926)12月25日 |
践祚 | 大正元年(1912年)7月30日 |
即位礼 | 大正4年(1915年)11月10日 |
大嘗祭 | 大正4年(1915年)11月14日・15日 |
大喪礼 | 昭和2年(1927年)2月8日 |
出身 | 東京府東京市麹町区宮城(現・東京都千代田区千代田) |
宮殿 | 宮城明治宮殿 |
父親 | 明治天皇 |
母親 | 柳原愛子(側室) |
皇后 | 貞明皇后(九条節子) |
皇子皇女 | 昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王 |
生涯
明治12年8月31日、東京青山御所にて降誕、明宮と称される。
明治天皇第三皇子であり、御母は昭憲皇太后、実母は典侍柳原愛子(柳原前光娘)。
ご幼年の頃は中山忠能が御教育係となり、同邸内に明宮御殿を造って、7歳まで御起臥なされた。
明治18年に青山御所に移られ、土方久元、佐々木高行等が相次いで御教育係となる。
明治20年8月、儲君に治定。明治22年2月、赤坂離宮内の花御殿に移転。明治22年11月3日、皇太子。
明治27年に学習院を退学され、赤坂離宮内に御学問所が設けられて教養を修められた。
明治33年、九条道孝娘節子(貞明皇后)と御結婚。
明治45年7月30日に明治天皇崩御、ただちに践祚され大正と改元。
大正4年11月10日、京都にて即位大礼。
明治天皇の御心を基として万機を総覧されたが、大正11年、久しきにわたる御疾患により、皇太子裕仁親王が摂政の任に就かれた。
大正15年12月25日、神奈川県葉山御用邸にて崩御。宝算48。
昭和2年2月7日、大葬。
元号として建定されまた崩御後に称号とされた「大正」は、『易経」臨、「大いに亨りて以て正しきは、天の道なり」から採用されたもので、「和悦の心と従順な行いとがあり、また剛が中位を得ているのであって、正しさをもってすべて順調にゆく、これが、天が定めてあまねくこの世に行われるべきものとして布いている、実在する道である」という意味の大号である。
天皇はご幼少より繊弱であられ、皇太子時代は父帝である明治天皇に代わる形で外交にもお励みになったが、即位後は再び体調を崩されるようになり皇太子裕仁親王に実務を任さざるを得られない場面も多くなられた。
その後、欧州外遊より帰国された親王が摂政にお就きになることで公務からは身を退かれている。一時期はご体調が改善の傾向に向かったこともあり、側近に対して公務にお戻りになりたい旨を仰せになっていたいう。
摂政の任期に対して現行法における規定は無いが、この事例により「摂政に一度就任されると離任はない」という暗黙の了解が広がっていたこともあり、現代まで続く課題になったともいえる。
激務であるという事を知ってか知らずか、裕仁親王が摂政へと就任した際には執務に使用する印判を引き渡すのを一度は抵抗したとされている。しかしその頃には既に意思の疎通も取る事が出来なくなるほど病状は悪化していたとされる。
長らく父帝の皇后である昭憲皇太后を「実母」としてお育ちになったが、晩年御病に侵され崩御直前になって生母・柳原愛子(二位局)と再会。天皇が崩御されるその時まで、愛子は大正天皇の手を握りしめていたとされる。
業績
在位14年6ヶ月。
数々の御政務の内、普通選挙法の制定をなされたが、これは明治天皇が「五箇条の御誓文」の中に万機公論に決すべしと仰せられた御主旨を拡充されたもので、大正14年3月30日に議会を通過、5月5日に公布された。
一方、大正天皇の御代には日本の国際上の地位は向上した。大正3年、第一次世界大戦に参加して8月23日にはドイツに宣戦、大正6年6月には地中海にて日独海戦がなされた。大正7年11月には休戦条約が成立し、かくて世界五大強国に列し、国際政治上重大な諸会議に参与、東洋平和の維持に重要な位置を占めるに至った。
また皇室諸法規の完成を遂げられ、数百年来の疑問であった長慶天皇の御在位を確認されて、これを歴代に加えられ、皇統にかかる疑問を一掃された。
先代の明治天皇は近代において一大事業に着手されたが、大正天皇はその偉業を守る重要な役割を巧みに果たされただけでなく、それをまた新しく有益な方向へと運んでいかれたのであって、大正時代は異彩を放った、史上没却できない貴重な時代であったといえる。
本格的な産業化の中で、大正天皇は重要な地位を占めておられたが、日本の産業は数倍の発展を見て、海運事業は驚嘆すべき躍進を遂げ、大戦を経て全世界を股にかける大企業となった。
経済も明治時代とかけ離れた画期的発展を遂げ、貿易は5倍、銀行預金や銀行会社の払込資本はいずれも6、7倍となり、大正9年の財界反動期や大正12年の関東大震災後においても経済的数字に大きな萎縮の跡を示さなかった。
世界との交流に関しても大正時代はまた格別な年代であった。大正天皇は韓国をも訪問され、王世子李垠をたいそうお気に召して朝鮮語の勉強を始められた。皇太子裕仁親王をイギリスへお渡らせになり、その御弟秩父宮も海を渡ってイギリスの大学教育までお受けになった。大正天皇は君主として国際交流の大きな波を乗り切られ、第一次世界大戦後の時期に日本は世界平和に貢献して、その治世下において日本は初めて世界強国と対等に交際することができた。
また大正天皇は一夫一婦制を導入され、貞明皇后との御夫婦仲睦まじく、宮中の様子は一変してよく治まり、裕仁親王、雍仁親王、宣仁親王、崇仁親王の皇子お四人すくすくとお育ちになって、大正天皇は御慈父ぶりを発揮されたが、ここにおいても大正時代は画期的な年代であった。
とはいえ同じく日光で避暑中の鍋島伊都子(後の梨本宮守正王妃となる)を頻繁に訪問して貞明皇后の顰蹙を買うなど、夫婦仲はあまり良好ではなかったようだ。しかしながら、皇子四人に恵まれたこともあり結果として側室を持つことなく生涯を終えることとなる。
一方、大変な子煩悩であったことは多く知られているところであり、裕仁親王のちに昭和天皇本人を始めとして様々な人物が逸話を披露されている。しばし、兄弟内の鬼ごっこにも加わることがあったという。
帝王の文藻
大正天皇ははなはだ文藻に富まれ、和歌に漢詩に多数の御製が伝わり、ことに漢詩に至っては、御歴代中最も多くの御作を拝せられ、この道にすぐれられていた。
さらに、その気宇壮大な書は、かねて専門家の斉しく鑽仰するところである。一方で元来の病弱さから完成度としてはいささか低くならざるを得なくなり、専門家の中からもその点においてひどく惜しまれる評論をする者も見られる。
短歌においてもその才は際立っており、「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」と評価する者も多い。
かきくらし雨降り出でぬ人心くだち行く世をなげくゆふべに(大正9年の御製)
逸話
- 乗馬が大変得意で、馬の鑑識眼に優れており、原敬を驚かせた程だった。9頭の愛馬がおり、愛馬に跨る写真も残っている。
- 少年時代はサッカー好きであったり、第一子誕生を期に、毎年クリスマスを休暇にして貰えるよう父帝や宮内省を説得したりと、西洋文化も楽しむ一面も有った。崩御あらせられた日は12月25日となっている。大正天皇に関する祝日(明治天皇生誕日が文化の日、昭和天皇生誕日が昭和の日となっている)が無い一方、大日本帝国憲法内の日本では先帝祭が祝日となっていた関係で、日本にクリスマスの習慣が広く普及・定着したとされている。
- 気軽で奔放な性格であったことが伝えられており、元来病弱である一方で気さくに誰にでも話しかける親しみやすい性格であったと言われている。このことについて「終戦後、占領政策の要請とかで、わざわざ“人間天皇”の御宣言があったが、私たちからいわせると、不思議でもあれば不可解でもある。大正天皇のごときは、もっとも人間的な、しかも温情あふるる親切な天皇であられた」と評論もされており、このような一面は国民に寄り添う天皇陛下として昭和天皇や上皇明仁、今上天皇にも受け継がれているのかもしれない。
皇統
・裕仁親王(第124代・昭和天皇)
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