治承2年11月12日(1178年12月22日)~寿永4年3月24日(1185年4月25日)。
在位1180年~1185年。
生涯
第80代・高倉天皇と建礼門院(平徳子)の子で、平清盛の孫にあたる。
生後間もなく皇太子になり、治承4年(1180年)にわずか2歳で即位。当時、院政をしいていた後白河法皇率いる朝廷と清盛率いる平家一門の対立を清盛の嫡男・重盛が抑えていたが、治承3年(1179年)、その重盛が死去すると対立が一気に顕在化、法皇が重盛の所領を没収したことに清盛が激怒、「治承三年の政変」を起こして法皇を幽閉することにより清盛は朝廷の実権を握った。そんな中での即位となり、高倉上皇が治天の君として院政を布き、実権を握る祖父・清盛が福原(現在の神戸)に遷都を強行した。この遷都は守旧派公家だけでなく一門の反対などもあって半年足らずで京に戻ることになったが、この失敗は平家と源氏、朝廷を巻き込んだ動乱の幕開けとなった。
治承4年(1180年)に安徳帝の叔父に当たる以仁王と清盛と友好関係にあった源頼政が反平家の兵を起こした。乱はすぐに鎮圧されたが、以仁王が発した令旨を受けて信濃の源義仲(木曽義仲)や鎌倉の源頼朝など源氏も東国で次々に挙兵。各地に広がる反乱に源氏の勢いは平家軍を圧倒、治承5年(1181年)、平家を率いてきた清盛が熱病により没すると、越前から義仲の軍勢が上洛、清盛の三男・宗盛は一門と安徳帝、三種の神器を携えて都から西国へと落ち延びていくこととなった。
その後も安徳帝を奉じる平家一門は、鎌倉から上洛した源範頼・義経兄弟率いる討伐軍に各地で敗れ瀬戸内海を彷徨い続ける。寿永4年(1185年)追い詰められた平家軍は壇ノ浦で討伐軍を迎え撃つが敗れ、滅亡の時を迎えることとなった。覚悟を決めた清盛の妻・二位尼は安徳帝と神器を抱き上げた。「私をどこへ連れて行くのか」と安徳帝が聞くと、二位尼は「これから極楽浄土へ行く」と答え、「浪の下にも都があります」と慰めると、二人は海中へ身を投じた。
数え年8歳(満6歳)という歴代最年少の天皇として安徳帝は崩御した。
現在、安徳帝の御陵は山口県の赤間神宮にあり、天皇の慰霊祭が毎年行われている。もともとこの社は源頼朝の命で安徳帝の怨霊鎮撫のために建てられた阿弥陀寺であった。
福岡県の久留米市に総本社がある水天宮は安徳帝を祭神として祀り、水や子供にまつわる守護の神として全国で厚く信仰されている。
様々な作品に登場する安徳帝の髪型は、残されている肖像画から禿頭(おかっぱ)で描かれていることが多かったが、時代考証が進んだことから角髪で描かれるようになっている。
伝説
- 『平家物語』では、船に乗る際の衣装と、入水する際の御召し物が違うため、安徳帝は平家の落人とともに生き延びたとする伝説が生まれ、各地に「安徳帝生存伝説」を分布させた。また昭和の頃に安徳帝の皇胤だと名乗る者もいた。安徳帝の陵墓であると伝わる遺跡は西日本各地にあり、特に以下の5ヶ所は安徳天皇御陵墓参考地として宮内庁管轄地になっている。
- 入水した時に神器の一つ・天叢雲剣は永遠に失われたと言われ、『源平盛衰記』によれば安徳帝はヤマタノオロチの生まれ変わりで、もともと大蛇は龍宮の竜王の弟だという。兄と喧嘩して剣と共に家出し、出雲でスサノオに剣を奪われ、それ以来剣の奪い返しを続け、天皇として生まれ変わって、天下に騒乱を起こし、ついに剣は龍宮に還えったのだとしている。
- 『平家物語』には安徳帝ご出生の折「男の沽券にかかわるようなケアレスミス」があったと語られるため実は女帝、すなわち女子だったのではないかとされ、物語や演劇では度々その点を題材にした作品がある。
- 福岡県久留米市には「安徳天皇が久留米まで落ち延びた」とする伝説が有り、久留米市に有る水天宮総本社の祭神の一柱は安徳天皇である。また、水天宮は安徳天皇の母である高倉平中宮に仕えていた按察使局が創建したとされる。
その他
- 漫画『最後のレストラン』の登場人物。
- 漫画『うらたろう』の登場人物。
- 祥興帝。南宋の皇帝で、崩御した際の様子が「8歳の幼帝が入水し、忠義な部下に抱かれて散る」など類似点が多い。そのため、我が国でも人口に膾炙しており、様々な文学の題材になることも多い。