概要
平安時代末期以降、それまでの摂関家政治に代わって天皇を退位した上皇(出家していれば法皇)が天下を治めるいわゆる院政が行われた。しかし例えば承久の乱の当時、仲恭天皇に対して上皇は後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇、と何人も存在し、誰が天下を治めていたのか分かりにくい。その中で院宣を出して朝廷ひいては全国に号令していた上皇は通常ただ一人であり、これを「治天の君」と呼んでいる(上横手雅敬「中世前期の政治構造――はじめに」『院政と平氏、鎌倉政権』)。例えば先述の三上皇のなかでは、後鳥羽上皇が土御門・順徳両上皇の父帝であり、執権・北条義時追討の院宣も出していることから、後鳥羽上皇が治天の君であったと考えられている。
歴史
治天の君の初代と考えられているのは一般に白河法皇である。しかし、その萌芽となった白河院の父・後三条天皇の存在を忘れるべきではないだろう。後三条天皇の父は第69代・後朱雀天皇、母は67代・三条天皇の皇女・禎子内親王であり、摂関家とは血のつながりが薄い。天皇は父帝が兄・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位したのを機に12歳で立太子し、皇太子とされたが、35歳の即位まで20年以上も東宮として過ごしている。これには母が藤原氏の出身でなかったことが大きく関係していた。関白・藤原頼通は宇多天皇以来の慣例である東宮への宝剣の伝授を見送るなど皇太子の即位に消極的であった。
だが、治暦4年(1068年)4月、後冷泉天皇の崩御に伴い皇太子は即位した。後三条天皇は関白が頼通から教通へと移行したのを機に自ら親政を行う姿勢を鮮明にし、教通の政治への関与を牽制しつつ、大江匡房や源師房などを重用するなど人材登用に努めた。また、「延久の荘園整理令」を発布し荘園の所有権に関する公献を直接朝廷の審査にかけるよう定め、荘園の所有をめぐる裁定を行うために「記録荘園券契所」を設置するなど多くの事績を残すに至った。
天皇はわずか5年で譲位したが、その理由としては早く院政を開始しようとしたとか、病気が引き金であったなど、さまざまな説が提起されている(笠原英彦『歴代天皇総覧』)。
後三条天皇の第一皇子が貞仁親王、後の白河天皇である。親王の母は藤原公成の娘・茂子であり、父帝同様、摂関家とは血のつながりが薄い。親王は関白・藤原頼通の異母弟であり茂子の養父である藤原能信の下で育てられ、延久元年(1069年)、父・後三条天皇の即位とともに皇太子となり、延久4年(1072年)、父帝の譲位により即位した。
後三条天皇の親政の頃から摂関家は斜陽となり、頼通は関白を教通から師実へと着実に継承することに心を配ることとなった。応徳3年(1086年)11月、白河天皇はわずか8歳の善仁親王に譲位した。堀河天皇である(笠原英彦『歴代天皇総覧』)。「この(白河法皇の)時より、かく太上天皇にて世を知食(しろしめ)す事久しき也(『愚管抄』)」という。ただし、白河法皇が最初から院政を意図して行ったとは考えられていない。白河上皇が堀河天皇に位を譲った時は、新帝と関白・藤原師通による政治がいったんは始まっていた。しかし、堀河天皇と師通は相次いで早世してしまう。新帝・鳥羽天皇の外戚・藤原公実は摂政就任を要求し、師通嫡流のまだ若い藤原忠実とのどちらが摂政となるかが問題になった。この時、法皇の判断で忠実が摂政に任ぜられたため、摂関の任命権自体が藤原氏から法皇に移り、完全に法皇が摂関家から実権を奪うことになったという(福島正樹『院政と武士の登場』)。
その後、鳥羽上皇、後白河法皇と院政が続き、後白河法皇の代に鎌倉幕府が成立する。しかし、実は院政はなお続き、後鳥羽上皇が次代の治天の君として将軍・源実朝や執権・北条義時と渡りあっている。だが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」に敗北したことで、日本の国主としての実権は失われた。この敗北以降、鎌倉幕府は京の都に六波羅探題を置き、朝廷との折衝、監視にあたっている。以後、弱体化はしているが継続して治天の君が朝廷の統治者となり、幕府の干渉を受けながらも天皇の指名権を維持していた。いつまで続いたのであろうか。形式的には江戸時代の光格上皇まで院政が行われているが、院の家政を行っていたのみである。国政を動かしていたのは室町時代の後小松上皇までである(上横手雅敬、前掲書)。実際、後小松上皇は4代足利義持死後の幕府混乱期に、次代の足利義教が実権を持つまでの数年に渡って、朝廷と幕府双方を差配していた。まさに最後の治天の君といっても良かろう。上横手は、南北朝時代の北朝では院政が継続しているがそもそも室町幕府の強大化に伴って朝廷の権限自体が弱く、南朝の後醍醐天皇が親政を開始して以降院政は廃止されたとみるべきだとしている。もっとも南朝でも長慶上皇の院政が行われ、光格上皇に至るまで明確な廃止時期もなく自然に消滅したという見方もある(福島正樹、前掲書)。
武士にとっての治天の君
その南北朝時代、光厳上皇が治天の君として北朝を率いていた時に、事件が起こった。その頃、土岐頼遠という美濃国守護がおり、これは青野原の戦いにて南朝の名将北畠顕家と戦って大功があった猛将であった。しかし頼遠には権威を軽んじるバサラなところがあったらしい。笠懸の帰りに酒に酔って光厳上皇の行列に行き当たり、当然の礼儀として下馬を求められた。ところが頼遠は、「なに院と言うたか。おお、犬と言うたのか。犬ならば射てやろう」と、畏れ多くも上皇の牛車に矢を当ててしまった。大騒ぎとなり、酔いが醒めて逃げ出した頼遠は、いったんは美濃で反乱を考えるも出頭して投降した。幕府は評定の末、この頼遠を斬首の刑に処した。全盛期に比べれば衰えたとはいえ、幕府にとっても治天の君の権威は幕府の権力を保障する存在としてそれだけ重要であったということになる。
もっともこの一件、後日談があったらしい。京都を揺るがしたこの事件の後、とあるガラの悪そうな武士の一党が都で貧乏公家の牛車を見かけて「こ、これが噂に聞く“いん”とかいう恐ろしいモノか。武勇名高き頼遠殿すら殺されたという。拙者等如きではひとたまりもなかろう、やれ下馬せよ」と、慌てて全員で下馬をして傘も脱いで土下座したとか。公家は公家で、「まさか土岐の一党か。まろ如きではどんな酷い目に遭わされるかもしれぬ」と慌てて車から飛び降り、立烏帽子を落としたのにも構わず、従者が差し出した笏だけは何とか取り直して土下座する武士たちの前に跪き「これは、これは」と返礼したとのこと(『太平記』巻二十三)。幕府のような武家上層部ならともかく、地方武士にとっての治天の君とはそんなものであったのかもしれない。
政治の仕組み
何故、治天の君が摂関家に代わって実権を掌握できたのだろうか。院政期の時代には官職による国家運営は形骸化し(摂関家すら権限の源泉は摂関ではなく天皇の外戚という血縁)、王家・近衛家・九条家・平家といった有力貴族の族長たちの談合によって国政が運営されていた。すなわち、治天の君はただの上皇ではなく、王家の族長にして天皇の父または祖父といった直系尊属であるゆえに国政を執ったのである(上横手雅敬、前掲書)。
ちなみに院政と治天の君を歴史学者が語る際に頻繁に登場するこの「王家」という概念であるが、元は黒田俊雄が権門体制論を発表する時に武家と寺家を統べる公家の代表者として用いている(黒田俊雄『現実のなかの歴史学』)。黒田は「皇室」「天皇家」は近代国家での呼称であり当時の呼称は王家であったとしたが、史料では皇家の使用頻度が王家の使用頻度に劣らず、あくまで多くの研究者が用いているに過ぎない用語と考えるべきという見方もある(岡野友彦『院政とは何だったか: 「権門体制論」を見直す』)。
治天の君が天皇を動かして政治を行った仕組みとしては、院近臣に注目する見方もある(福島正樹、前掲書)。院近臣には先述の藤原忠実の摂政就任について白河法皇に助言した源俊明のような代々公卿となっている上級貴族もいる。しかし、せいぜい四位・五位程度の受領あるいは実務官僚の抜擢も多かった。福島によれば、受領の出身には白河法皇の乳母子・藤原顕季、鳥羽上皇第一の側近と呼ばれた藤原家成や平治の乱の首謀者・藤原信頼等が挙げられ、受領として稼いだ資金によって院に所領や寺の造営等の寄進を行ったという。実務官僚の代表は『今鏡』にて「夜の関白」と呼ばれた藤原顕隆らである。顕隆は昼間行われた関白らの奏上を夜間に院御所に参内して取り下げさせていたという。このような院に仕えた実務官僚たちが太政官の公文書発行を司る弁官と天皇の秘書たる蔵人、さらには摂関家の家司も兼ね、治天の君の意向によって政治を動かしたという(福島正樹、前掲書)。