在位:嘉承2年~保安4年(1107年~1123年)。御名宗仁。
堀河天皇の第1皇子で、在位中は祖父の白河法皇が院政を執っていた。
譲位後の1127年に白河法皇が崩じると院政を開き、1156年に崩御するまで自らの子である3代(崇徳・近衛・後白河)の天皇の上に立ち政治の実権を握った。1142年に出家、法皇となる。
祖父・白河法皇との関係が噂された藤原璋子(待賢門院)所生の第1皇子・顕仁親王(→崇徳天皇・崇徳上皇)を疎んじ、寵愛する藤原得子(美福門院)所生の体仁親王(→近衛天皇)に譲位させたが、近衛天皇が夭折したため璋子所生ながら皇子の守仁親王(→二条天皇)が得子の養子となっていた第4皇子・雅仁親王を後白河天皇として即位させた。
上記の行動が崇徳上皇派と後白河天皇派の対立を激化させ、法皇崩御直後に保元の乱が発生する原因となる。