生涯
保安元年(1120年)5月~保元元年7月14日(1156年8月1日)
藤原忠実の次男。幼名は菖蒲若(あやわか)。大治5年(1130年)に先祖の藤原道長や頼通にあやかって「頼長」と命名された。
少年時代に父親の言葉を聞かなかったため落馬し、この頃から学業に励むようになったという。その後、「日本一の大学生、和漢の才に富む」と言われるほどその学識の高さを賞賛された。頼長の日記『台記』は当代随一の学識者による同時代の記録であり、院政期の歴史を研究するうえでの貴重な基礎資料となっている。ただし、文学には疎く、和歌や漢詩も得意ではなかった。また、大人しくなったとはいえ、元々は貴族なのに馬で山を駆け巡るような人のため、意外にも剣術にも(武士ほどではないが)通じていたとも伝わっている。
自他共に厳しく苛烈な性格で、「悪左府」と呼ばれた。そして、この時代にはよくあることだが、「男色家」でもあった。私的嗜好として楽しんでいただけでなく、この人脈を生かして、政治的勢力を築いていた(後述)。一方で愛妻家でもあったようだ。
出世を重ねて要職を歴任し、保延2年(1136年)には内大臣、久安5年(1149年)には左大臣に進んだ。天治2年(1125年)に頼長は息子たちが相次いで早逝し後継者に恵まれなかった兄・忠通の養子となった。しかし、康治2年(1143年)に四男で嫡男となる近衛基実が生まれたのを皮切りに松殿基房・九条兼実・慈円と一転して男子に恵まれた忠通と頼長及び忠実は対立した。さらに近衛天皇の皇后をめぐって頼長と忠通は各々の養女を擁して対立し、忠実の介入で頼長の娘に決まったが対立は続いた。慈円の記すところによると、頼長は子供の頃に養子として忠通に可愛がられた恩を忘れられず、宮中で丁重に会釈する等礼を尽くすことで関係修復を試みたが、頑なな父と兄の態度の前に為す術もなかった。
仁平元年(1151年)に忠実が源氏の棟梁・源為義に命じて忠通から一家の後継を意味する宝物・朱器台盤を奪取させて頼長に与え、これにより頼長は氏長者(藤原一門の長)・内覧(天皇の奏聞・宣下に先立って朝廷の重要文書に目を通し、天皇に報告・補佐する役職)となった。執政として儒学を重視し、政治の刷新や粛正を厳格に推し進めたが、会議に遅刻した公卿の屋敷を燃やしたり破壊させたり、反対派を暗殺するなど、他の貴族や寺社との反発や対立を多く生み、その苛烈振りに鳥羽法皇とも対立。
久寿2年(1155年)に近衛帝が崩御したが、頼長と忠実が呪詛したからだと噂が広がり、頼長は謹慎させられ、内覧は停止。この間に皇位継承は、頼長と対立していた美福門院や信西の策動で守仁親王(後の二条天皇)の中継ぎとして雅仁親王(後の後白河天皇)が即位した。
保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御し、その直後に頼長に謀反の疑いがかけられ、財産を没収された。この事態に頼長は崇徳上皇を擁して挙兵を決断。崇徳院側には河内源氏棟梁の源為義に嫡男の源頼賢、その弟の源為朝など為義の息子たちや(甥の平清盛と対立していた)平忠正・長盛父子らを味方につけた。一方、後白河帝や信西や忠通には為義の庶長子で坂東源氏の棟梁になっていた源義朝に義兄弟の足利義康、摂津源氏の源頼政、伊勢平氏の棟梁である平清盛に嫡男の平重盛らが味方し、保元の乱が勃発した。
総大将となった頼長は為義と忠正から後白河帝側への夜襲を提案されたが、夜襲は卑怯であり、援軍の僧兵が到着するのを待とうと却下した。ところが、後白河帝側は義朝の提案もあり信西の命で義朝と清盛が崇徳院側の本拠地に夜襲を仕掛け、一晩のうちに崇徳院側は総崩れとなり、頼長は敗走中に矢に当たってしまう。最後の頼みの綱であった奈良の忠実の元へ向かうが、面会を拒まれ、失意の内に絶命した。享年36歳。
頼長のせいで保元の乱に負けたと思われがちだが、兵力では天皇側に圧倒的に負けており、夜襲しても返り討ちにされる可能性が高かったので頼長の判断はむしろ順当。もともと負けが決まっていた戦だったということである。
大河ドラマの平清盛では、頼長の死後、信西が保元の乱で荒れ果てた頼長邸にて日記を発見して涙するシーンがある。信西が発見したかどうかはともかく、この部分は『台記』原文に該当する記述がある。頼長の生き方や息子たちへの思いを良くあらわした史料だと思われるので、最後に引用する。
「我が子の兼長と師長が、共に参議に昇った。今後、人を推薦する時には、好き嫌いや年齢ではなく忠実に仕事をしているかどうかを基準としなさい。もし仕事に励まなければ、私もお前たちを推薦しない。華美な服を求めず、従僕の多さを競わず、忠勤にのみ励み、それを他人に謗られても恥じてはならぬ。努めよや、努めよや。私が死んでももし霊があるとすれば、きっと朝廷にいるであろう。もし父を恋しいと思う時は、朝廷に参内し、そして仕事に励みなさい。これが父とそなたたちとの約束である。」(『台記』仁平三年九月十七日より抄録)
衆道好きの頼長
この御仁いわゆるガチホモ。しかしどちらかと言えばオネエ寄り。ただ妻もいるので厳密に言えばバイ、バイセクシャルというところか・・・。
当時の朝廷や公家階級では衆道や稚児灌頂がはやっており、藤原頼長もその趣向を持っていた様である。
また藤原頼長は早い話高い位階をもつオヤジ公家への稚児や小姓の美少年に枕営業させている所があったようだ(もちろん自分で味をたしかめてなどである)。またそのようなことと引き換えに重要な政局の情報を得たりしていた。
頼長の日記『台記』は、数々の公卿達との性的関係、また大納言や右大臣などの『性の好み』などを赤裸々に描いた記録でもあり、当時の性風俗を研究するうえでの貴重な基礎資料ともなっている。