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源義朝

みなもとのよしとも

平安時代の武将。東国へ下向し当地て勢力基盤を構築。河内源氏の棟梁として一族郎党を率いて保元・平治の乱を戦った。(1123年-1160年)
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プロフィール編集

生没年:1123年〜1160年

通称:上総御曹司、左典厩、頭殿、大僕卿

官途名:播磨守、左馬頭、下野守

父:源為義

母:藤原忠清の娘

弟:源義賢志田義広源頼賢源頼仲源為宗源為成源為朝源為仲源行家など


妻妾:由良御前三浦義明の娘、波多野義通の娘、常磐御前

子:源義平源朝長源頼朝源範頼阿野全成源義経など

甥:源義仲など


概要編集

河内源氏源為義の長男。ちなみに八幡太郎源義家の曾孫(一説に孫)とされる。


義家の死後衰退を続けていた源氏(河内源氏)を立て直した棟梁であり、関東に勢力を築いて三男の頼朝が鎌倉殿として東国に武家政権(鎌倉幕府)を開く基盤を整えた。


生涯編集

義朝生誕時の河内源氏の状況編集

河内源氏と言えば、祖の源頼信の長男で11世紀後半に活躍した源頼義やその息子の源義家の時代には前九年の役後三年の役に勝利し、また白河天皇の警護にも当たるなどその武勇をとどろかせていた。

 しかし義家の晩年、彼の次男の義親や四男の義国が謀反や乱暴を理由に討伐・流罪・勘当に処され、また義親に代わって後継者となった三男の義忠も義家の次弟・義光(佐竹氏や武田氏の祖)に暗殺されてしまう。義忠の跡を継いだ為義は義光に唆され義光の次兄・義綱の一族を下手人として滅ぼしてしまうなど、当時の源氏は混乱と衰退の時代を迎えていた。


 これに対して、ライバル伊勢平氏の当時の棟梁・平正盛は義親征伐で出世の足掛かりを作り、その子の平忠盛が西国において受領を歴任して武力・財力を蓄え、日宋貿易で得た利益を白河鳥羽両院に献じて昇殿を許され、着々と一門の地位を挙げていった。

 一方で源氏の棟梁となった為義は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為などもあって検非違使のまま官位が伸びず、また源氏とも関係の深い摂関家の衰退なども災いし、当時の源氏は完全に平氏の活躍に圧倒されていた。


関東下向から東国の雄へ編集

義朝は為義の長男だったものの早期に後継候補から外されていたとされる。少年時代に関東へ下り、上総の豪族・上総常澄(広常の父)の庇護を受けて育ったとされる。やがて当地の武士団間の勢力争いに介入し三浦義明大庭景義らを傘下に加える。相模の豪族波多野氏の娘との間に次男・源朝長を設けるなど、縁戚関係からも勢力を拡大した。また先述の義国とは同盟締結や婚姻政策を駆使し義国の息子たちの新田義重や足利義康に孫の矢田義清(細川氏の祖)と提携した。


元より曾祖父・義家の代より関東武士団との結び付きはあったとはいえ、伊豆の流人に過ぎなかった頼朝が関東武士団を従えられた理由において、これらの義朝の活動は無視できないものであろう。高祖父・源頼義ゆかりの地でもある鎌倉に屋敷を構えて本拠地とし、これも頼朝に引き継がれた。


 その後、久安2年(1146年)頃までに上洛し、熱田大宮司家藤原季範の娘由良御前と結婚して嫡男の頼朝(全体としては三男)が生まれる。熱田大宮司家は北面の武士や院の女房を輩出しており、義朝の強い支援勢力となった。

 かくして義朝は一族の支援と東国の勢力を背景として鳥羽上皇藤原忠通に仕え、その信任を得て従五位下・下野守と父・為義を越えた官位につく。


父や弟らとの対立編集

しかしこの院への接近による叙任は、摂関家との結び付きの深かった為義と競合する立場になった事を意味し、また関東における勢力拡大の背景(※)なども絡んで、父子間や義賢や頼賢ら父に近い弟らとの対立の素地をも形成する事となるのである。

そしてそれは久寿2年(1155年)に義朝が庶長子・義平に命じ、武蔵国に勢力を広げていた異母弟・義賢を討ち滅ぼした(大蔵合戦)で決定的になる。ちなみに義賢を北関東に送っていたのは父・為義の意向だったともいわれており、義賢討伐については当時の武蔵守で義朝とも縁の深い藤原信頼も噛んでいるとされる。いずれにしてもこの一件がそれまで燻っていた父子間の対立を決定的なものとしたと見られている。ちなみに、この時討たれた義賢の次男が信濃国に逃れて、後の木曽義仲となっている。


※従来、この関東における勢力拡大は、為義の嫡男として東国武士を組織化するという意図があったものと解釈されてきたが、昨今では義朝と他の兄弟らの官位の関係などから、義朝が廃嫡された(もしくは当初から嫡男とは見做されていなかった)が故に、父に対抗して勢力を構築する必要に迫られていたが故の関東下向である、という見方が示されている。


保元の乱編集

 保元元年(1156年)の鳥羽法皇の崩御後、皇位をめぐって後白河天皇崇徳上皇の対立が表面化し保元の乱が勃発する。

この乱において義朝は藤原忠通信西平清盛とともに後白河天皇につき、崇徳上皇藤原頼長についた父・為義や、源為朝をはじめとするほかの兄弟たちとは敵対することになる。為義と決別した理由は先の大蔵合戦での遺恨、義朝は頼長と仲が悪く、為義は後白河側近らと仲が悪かったことなどが挙げられている。

 保元の乱の中での義朝の働きとしては、天皇方として夜襲を提案し、為朝の武勇の前に苦戦する味方を他所に敵の本拠白河北殿に火をかけて上皇らを逃走に追い込み、勝利を決定づけたことなどが挙げられる。この乱の結果、上皇は讃岐(香川県)に配流、頼長も流れ矢が頸部に刺さることによる傷がもとで死亡した。

 かくして義朝の功績は大きかったが、父・為義は義朝の助命嘆願も空しく頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲らの弟もろとも死刑となり、源氏全体としては深刻な損害を蒙った。いくら不仲だったとは言え父や弟の刑の執行を命ぜられた義朝にとってもその痛手は大きく、『愚管抄』によると「親の首を刎ねた不孝者」と世評で謗られたという。また為義は最期まで義朝が親殺しの汚名を受ける悲哀を案じたとされる(NHK大河ドラマ「平清盛」紀行23)。


平治の乱編集

 平治元年(1160年)に起きた平治の乱においては、藤原信頼藤原経宗とともに対立する信西を殺害し、内裏を制圧して後白河上皇、二条天皇を軟禁する。院宣・宣旨を自由に発給できる立場となった義朝は圧倒的優位に立ち、政敵の清盛らも忠誠を約した。しかし清盛と二条親政派は裏で連携しており、上皇・天皇は女性用の牛車を用いるという奇策で脱出に成功する。こうして天皇から清盛に義朝追討の宣旨が下ることで形勢は逆転した。義朝は信頼らとと共に清盛の軍と京中での合戦に及ぶが、同族の源頼政の離反もあって六条河原の合戦で敗北を喫し、潰走して都を逃れた。

 義朝はなおも再起を図って東国へ敗走するも、尾張(愛知県)在住の家人長田忠致の裏切りに遭い絶命する。時に平治2年1月3日(1160年2月11日)、享年38であった。

 『平家物語』ではその最期について、入浴中に忠致らに襲われて「ここに木刀の一本でもあれば!」と叫んで絶命した(それゆえ愛知県野間大坊にある義朝の墓には多数の木刀が供えられている)と記している。これは風呂場という状況が暗殺に適していたことや、義朝が剣術の達人であったことを知っていたためだと思われる(奇しくも、孫の鎌倉幕府二代将軍源頼家も後年風呂場で暗殺されている)。

 一方、『愚管抄』における義朝の最期の記述はこれとは異なり、郎党の鎌田正清(政清)と共に湯浴みを勧める忠致の裏切りを察し、正清に自らの首を討たせて世を去ったと記されている。正清も直ちに主君の後を追ったという。

 東国へ落ち延びる途上で同行していた息子らのうち、深手を負っていた次男・朝長は父に介錯され、長男・義平は後に斬罪に処されたが、三男・頼朝は父兄らとはぐれ近江にて捕縛された後伊豆に配流。常盤御前の子たちである今若・乙若・牛若は母の助命嘆願で成人後、出家するという条件で生命を救われるなど、頼朝以下の子息らに対する処分は比較的軽いものに留まった。


 なおこの平治の乱の原因については、長らく

  • 源義朝が保元の乱で最大の活躍をしたにもかかわらず右馬権頭(恩賞に不満を述べて左馬頭)となっただけで、播磨守となった平清盛よりも官職が抑えられていた(『平治物語』)
  • 信西が『学者の子は武家の婿には相応しくない』と己の子と義朝の娘との縁談を断りながら清盛の婿としての縁談は承知した(『愚管抄』)

といった義朝の怨恨説が唱えられていた。しかし近年の元木泰雄の研究(『治承・寿永の内乱と平氏』『保元・平治の乱を読み直す』)により、

  • 保元の乱前の義朝の官位は従五位下野守兼右馬助にすぎず一族の多くが上皇方の謀反人として処刑される中での、乱後の左馬頭となって内昇殿を許されるという報酬はむしろ破格。左馬頭は全国の馬の管理全て、言い換えれば武士の生命線たる騎馬の編成に関する全権を持ち、都の治安維持に出動する権限もあり、有力な院近臣が任ぜられる要職である。内昇殿に至っては義家すら許されていない河内源氏初の栄誉であった。内昇殿とは内裏清涼殿殿上の間に昇る権利であり、この権利を持つ人は殿上人と呼ばれ、持たない地下人とは同じ貴族でも明確に身分上区別されたとされる。義家は白河法皇の院御所には昇殿する権利(院昇殿)があったが、院政では身分が低くとも才能次第で院御所への昇殿を許した為、一般には内昇殿の方が格上とみなされていたらしい。さて一方の清盛は乱前から遥かに高位(間には従五位上、正五位下、正五位上、従四位下、従四位上と六段階もの昇進が必要)の正四位下安芸守であり、院方として義朝同様に活躍している。義朝が清盛に匹敵する官職を要求したとは考えにくい。
  • 院側近として公卿(従三位以上)に準ずる信西の子と、四位にある平清盛の娘とでは家格の釣り合いがとれているが、五位に過ぎない義朝が持ち出した縁談には元々無理があった。
  • 藤原信頼は奥州藤原氏や平氏とも縁戚関係にあり、父藤原忠隆も従三位にあった実力者、義朝の意のままには出来ない。また信頼に味方した源季実源光保らは源氏ではあっても義朝の部下ではなく、それぞれに源氏の有力者として独立した判断で乱に加勢している。

といった異論が出てきている。少なくとも義朝には、通説の怨恨以外に別の思うところがあって挙兵に参加した可能性はあるといえよう。

 また乱の首謀者の一人である藤原信頼は、かつて義朝が東国にて勢力拡大に邁進していた頃の武蔵守でもあり、前述の従五位下・下野守への叙任に際しての支援や、前出の大蔵合戦の折にも信頼がこれを黙認し義朝らに便宜を図っていたとされるなど、平治の乱以前から既に密接な関係にあったとも見られている。義朝が信頼に加勢したのも、反信西というスタンスの一致以上にこうした関係性が背景にあったからこそ、と見るのが自然であろう。

フィクションにおける源義朝編集

NHK関係編集

清盛青年期以来のライバルにして宿敵である源氏の棟梁。なお、玉木は10年後の『鎌倉殿の13人』で六男の源範頼を演じた迫田孝也に「父上」と呼ばれている。なお、迫田氏は玉木氏より年長である。



関連タグ編集

源氏 源為義 源頼朝 源義経 源頼政

藤原頼長 藤原信頼 藤原忠通 藤原信西

平家 平清盛

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