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概要

源為義の次男。母は六条大夫重俊の娘。若い時に東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)を務めていたことから、帯刀先生・多胡先生さらに略して先生と呼ばれた。

経歴

保延5年(1139年)、時の皇太子・体仁親王(のちの近衛天皇)を警護する帯刀の長となり東宮帯刀先生と呼ばれた。長兄の源義朝は当時無官のまま東国に下っていたため、この時点では為義の嫡男と言える立場にあった。

しかし翌保延6年(1140年)、滝口源備殺害事件に関与していたとして帯刀先生を解官され、嫡男の座を弟の源頼賢に譲らされた。

その後は父為義と共に藤原忠実頼長親子に仕え、康治2年(1142年)に頼長の領地である能登国の預所職に就いた。しかし、久安3年(1147年)に貢未納のため解任された。一方、義朝は相模鎌倉に本拠を構え南関東に地盤を築き関東の武士団を従え独自に力を付け、都に戻ってからは為義や義賢と違って鳥羽法皇藤原忠通と接近し仁平3年(1153年)には従五位下下野守となり官位では検非違使に過ぎない為義を完全に凌駕した。これは対し、為義は義朝に対抗すべく義賢を上野国多胡郡に送り、義賢は武蔵国の秩父重隆の娘婿となり同国比企郡大蔵に居を構えた。しかし、同じ上野国に所領を持つ新田義重(義貞の祖)や義重の弟で下野国に本拠地を置く足利義康(尊氏らの祖)とは緊張関係になり彼らの同盟者である義朝・義平父子、当時の武蔵守だった藤原信頼を刺激した。また秩父氏内の家督争いで畠山重能(重忠の父)が重隆に対して不満を持っていた。そして久寿2年(1155年)、義平や重能らに攻められ重隆と共に討たれた(大蔵合戦)。享年は30歳ぐらいとされる。

子女

長男の仲家摂津源氏源頼政の養子となった。義兄の源仲綱や頼政が以仁王の乱に加担した時、仲家も嫡男・仲光と共に参戦したが平家の軍勢を相手に討死した。次男の駒王丸は斎藤実盛らの尽力もあり信濃木曾谷の中原兼遠の元に逃れた。この駒王丸こそがのちの「旭(朝日)将軍」木曾義仲である。ちなみに先述の足利義康の庶長子である矢田義清(細川政元藤孝などの祖)は仲家とも義仲とも関わっている。仲家と義清は鳥羽院と美福門院の子・八条院暲子内親王に出仕していた。仲家の死後は義仲の麾下に入り戦い備中国水島で平教経らと戦い討死している。

外部リンク

源義賢 - Wikipedia

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