平安時代後期の公卿・政治家(1097年 - 1164年)。従一位摂政・関白・太政大臣。
1121年(保安2年)、自らと藤原璋子(白河法皇の養女、のちの待賢門院)との縁談のもつれをきっかけにして忠実が白河法皇に関白を解任されたことから後継の関白・藤氏長者となる。
異母弟の藤原頼長を養子としていたが実子が誕生したことからこれを破棄し、忠実・頼長との対立が深まる。1150年に藤氏長者の地位を取り上げられるが関白にはとどまった。父や弟との抗争は1156年の鳥羽法皇崩御直後に保元の乱として軍事衝突にまで発展する。忠通はこの戦いで後白河天皇を擁して勝利を収めた。1158年(保元3年)に後白河天皇との軋轢を生じ関白を辞任。
子(近衛基実・九条兼実)の代から摂関家は分流していき最終的に五摂家が成立する。