1156年(保元元年)7月に平安京(京都)で発生した政変及び戦乱。
戦闘自体は洛中の狭い範囲でほぼ半日で終わったが、発生した結果から中世の開幕を招くこととなった。
経過
「治天の君」として院政を敷いていた鳥羽法皇が7月2日(旧暦、以下同じ。新暦7月20日)に崩御したことが直接の引き金となったが、遠因はその鳥羽法皇の行動に発する皇位継承問題と藤原摂関家の内部対立による。
鳥羽法皇は藤原璋子(待賢門院)所生の第一皇子でありながら不仲であった崇徳天皇(→崇徳上皇)を1141年(永治元年)に退位させ、藤原得子(美福門院)所生の近衛天皇を即位させていた。
政治決定の場から外された形の崇徳上皇は鳥羽院政に対する反感を強めていく。
一方、摂関家では関白・藤原忠通とその父で前摂政・藤原忠実及び弟の藤原頼長との対立が起こっていた。1150年(久安6年)には忠実が藤原氏長者の地位を忠通から取り上げ頼長へ譲る。一方忠通は関白を辞任せず、頼長がほぼ同じ職権である内覧に任じられたため摂関家は事実上分裂状態に陥った。
そんな中で1155年(久寿2年)に近衛天皇が子女なきまま崩御。後継天皇をめぐっては崇徳上皇の第一皇子で白河法皇以来の嫡系になる重仁親王、鳥羽法皇第四皇子で近衛天皇の兄かつ崇徳上皇の同母弟雅仁親王、その子で美福門院の猶子守仁親王(後の二条天皇)、近衛天皇の同母妹・暲子内親王が上げられたが、信西(藤原信西)の策動により雅仁親王が即位する結果となった(後白河天皇/後白河帝)。
この経過の中で苛烈な政治姿勢から敵を増やしていた左大臣・藤原頼長は失脚へと追い込まれていき、皇室内で孤立していた崇徳上皇と接近する。
7月2日、鳥羽法皇が崩御。わずか3日後の5日には後白河天皇の命で洛中での武士の動きが停止され、さらに8日には源義朝らが摂関家の本邸である東三条殿を「謀反人頼長の財産を没収する」として強制接収。摂関家のトップが謀反人認定される前代未聞の事態となった。
9日、崇徳上皇が洛東白河にある同母妹統子内親王の邸に遷り、翌10日には宇治に滞在していた頼長が白河北殿に入る。上皇・頼長陣営には摂関家との従来の主従関係から源為義ら源氏の多数派と平忠正(平忠盛の弟)らが参加した。
一方、後白河天皇は住居とする高松殿に義朝・平清盛・源頼政・源義康(足利義康)ら武士を招集。義朝が白河殿を夜討ちする作戦を奏上、信西が同調し戦闘準備に入った。
11日未明、清盛・義朝・義康がそれぞれ率いる軍勢が白河殿を襲う。崇徳上皇・頼長陣営では源為朝が強弓を持って清盛・平重盛・義朝らを抑える活躍をみせるが、朝方には義朝が白河殿に隣接する藤原家成邸に放火、ほどなく白河殿に延焼しこれが帰趨を決した。上皇・頼長はいずれも逃走、昼頃には清盛・義朝らが高松殿に帰参、戦闘は約半日で実質的に終結した。
後白河天皇は同日中に藤原氏長者に忠通を任命。清盛・義朝ら武士への恩賞も下された。
13日には仁和寺に崇徳上皇が出頭、拘束される。14日、奈良に逃亡していた忠実を頼ろうとした頼長は拒絶され、逃走中に受けた傷により死去。
上皇・頼長側への処分は信西が主導し決定。23日には崇徳上皇が讃岐国(香川県)へ流罪となる。平忠正は28日に、源為義は30日に子弟ともども処刑された。平安時代初期の薬子の変以来約350年ぶりに国家権力による正式の死刑が執行されることとなった。
朝廷内の対立が武士による武力衝突という結果に至ったこの乱がもたらした衝撃は大きく、慈円(天台座主、忠通の子)はこの乱をもって「武者の世」の始まりと論じている。
乱の結果として朝廷の主導権を握った信西に対し後白河天皇の側近グループである藤原信頼らは反発を強めていき、やがてこれが平治の乱に繋がることとなる。