概要
日本の奈良時代末期から平安時代初期にかけて活躍した日本の古代東北地方の蝦夷(エミシ)の領袖。
古代日本の律令国家(朝廷)を後ろ楯として陸奥国胆沢(現・岩手県奥州市)で急速に台頭した蝦夷族長とみられるが、桃生城襲撃事件により勃発した三十八年騒乱中期には律令国家に反旗を翻す。
フルネームは大墓公阿弖流為または大墓公阿弖利為。名前の正しい漢字は旧字体で阿弖流爲または阿弖利爲。一般的に、大墓公は「たものきみ」、阿弖流為は「あてるい」、阿弖利為は「あてりい」と読まれるが歴史学者の間でも正しい読み方は確定していないため読み方不明。以下は一般的に広く使われているアテルイ表記を用いるが、必要な場合に限り漢字表記を用いる。
閲覧にあたっての注意点
かつてのアテルイは中央中心の征夷史観の中で朝廷に反旗を翻した「悪役」として世に知られる存在の1人に過ぎなかった。転機が訪れたのは1999年(平成11年)に高橋克彦『火怨 北の耀星アテルイ』(第34回吉川英治文学賞受賞作品)が発行され、2002年(平成14年)のアテルイ没後1200年にあわせて岩手県を中心にシンポジウム・企画展・講演会・アニメーション映画・ミュージカル上演などアテルイブームが巻き起こり、名実ともに古代東北地方の「英雄」として全国的にその名が知れ渡ったことである。アテルイ復権運動は古代東北史において大変意義深い出来事となった一方、アテルイブームが去ったあとには征夷史観をそのまま裏返しにした反中央政府の「象徴」として政治利用されるアテルイが残された。
「歴史上の人物」としてのアテルイは年齢・容姿・思想などの人物像が一切判明していない。しかしながら鎌倉幕府や坂東諸国の東北史観によって創出された悪路王伝説や、現代の創作文芸による過度に美化されたフィクションまでもが歴史的事実であるかのように受け容れられているのが実情であり、そうした風潮には多くの歴史学者が警鐘を鳴らしている。ここでは従来の「悪役」「英雄」「象徴」といったアテルイのイメージにとらわれず「歴史上の人物」としてのアテルイについて記述する。また蝦夷という表記について、アイヌ民族や北海道が想起される「エゾ」との混同・誤解が生じることから、可能な限り「エミシ」と表記してカタカナで区別する。
名前について
古代日本の律令国家が編纂した正史である六国史の中では「阿弖流爲」(『続日本紀』延暦八年六月甲戌条)・「大墓公阿弖利爲」(『日本紀略』延暦二十一年四月庚子条、『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉条)・「大墓公」(『日本紀略』延暦二十一年秋七月甲子条)として名前が登場する。このことから本来の名前は姓(カバネ)を付して大墓公阿弖流爲または大墓公阿弖利爲であったことが判明している。
和銅3年(710年)4月、律令国家は陸奥国のエミシ族長らに対して「君」の姓を賜って編戸に準ずる扱いを受けること許可した(『続日本紀』和銅三年四月辛丑条)。編戸とは戸籍・計帳に記載されて口分田を与えられ、祖税(租庸調)や労役を負う公民を指す。おそらく公民化を願い出たエミシ側に対して朝廷は君の姓を与えて公民に準じた待遇を保障したのだろう。以降「君」の姓はエミシの族長が名乗る姓として制度化され、律令国家による支配秩序の中に編成された。天平宝字3年(759年)10月に「君」字が「公」字に改められている(『続日本紀』天平宝字三年十月辛丑条)。この「君(公)」の姓を付して大墓公阿弖利爲とも称されるのは、まさしくアテルイが朝廷側に帰属して活動しており、アテルイないし大墓公一族が律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いて活動していたことを示している。アテルイは決して「まつろわぬ民」と呼ばれる存在ではなかった。
生涯
巣伏の戦い
延暦8年5月下旬から末頃の某日(推定)、胆沢へと進軍した征東大使・紀古佐美率いる朝廷軍のうち、中軍と後軍各2000人が北上川東岸を北進して巣伏村を目指す途中、アテルイの居宅やや手前の地点でエミシ軍300人程と交戦した。
延暦八年の征夷のうち一般的に巣伏の戦いと呼称されるこの戦いでアテルイは紀古佐美を撃破したとされている。『続日本紀』延暦八年六月甲戌条には「比至賊帥夷阿弖流為之居。有賊徒三百許人。迎逢相戦。官軍勢強。賊衆引遁。官軍且戦且焼至巣伏村」とあり、この記録だけでは巣伏の戦いでアテルイがエミシ軍の指揮を執っていたかまでは確定できない。しかし「賊帥夷阿弖流為」とあるように『続日本紀』は「公」の姓を付して記録しておらず、アテルイと同じく律令国家に属していた伊治公呰麻呂や吉弥侯伊佐西古が反乱を起こした際には呰麻呂や伊佐西古と姓を付さずに名だけで記録している例から、多くの歴史学者が巣伏の戦いでのアテルイはエミシ側の中心人物であったとみている。
降伏
延暦21年1月7日(ユリウス暦802年2月12日)、坂上田村麻呂が前年の延暦二十年の征夷で霊験があったことを奏上していた陸奥国の3神に位階が加えられた。
延暦21年1月9日(ユリウス暦2月14日)、造陸奥国胆沢城使に任命された田村麻呂が胆沢城を造営するために陸奥国へと派遣されてきた。
延暦1月11日(ユリウス暦2月16日)、桓武天皇から駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10国に対して国中の浪人4000人を陸奥国胆沢城の柵戸(移民)とするよう勅が下った。
この時の郷は胆沢郡には上総郷・下総郷、江刺郡には甲斐郷・信濃郷といった移民の出身地から名付けられている。
延暦21年4月15日(ユリウス暦802年5月19日 )、胆沢城築城中の田村麻呂からエミシのアテルイと盤具公母禮が一族を500人ほど連れて降伏してきたとの報告が平安京へと届けられた。
当時の田村麻呂は造陸奥国胆沢城使(胆沢城柵官衙)として特派されているが、陸奥出羽按察使(古代東北における朝廷の最高官僚)・陸奥守・鎮守将軍も兼任しているため、陸奥国の行政と軍事を全権委任された最高責任者であった。つまり田村麻呂の報告はエミシ政策に関わる最高責任者による重要な文書となる。『日本紀略』延暦二十一年夏四月庚子条に記録される田村麻呂の報告文は「夷大墓公阿弖利為、盤具公母礼等、種類五百余人を率ゐて降る」とごく簡単な記事で残されている。大墓公、盤具公という「公」の姓を付して朝廷へと報告していることから、田村麻呂は律令国家に反逆した罪人ではなく、律令国家側の者とみなしていたことがうかがえる。なおアテルイとモレが「面縛待命」の状態で降伏したと解く歴史学者もいるが、そのことを示す史料はなく、また『日本紀略』の文章もそのようなことを語るものではない。
延暦21年7月10日(ユリウス暦8月11日 / 先発グレゴリオ暦802年8月15日)、アテルイとモレが田村麻呂に付き添われて平安京付近へと到着した。
『日本紀略』延暦二十一年秋七月甲子条には「造陸奥国胆沢城使田村麿来たる。夷大墓公二人並びに従ふ」とある。平安京へ向かったことは間違いないが、ここでは「来たる」とだけ記録されているため平安京へと入京したのかは不明。また「並びに従ふ」と記録されていることから、アテルイとモレは拘束されていないことが読み取れる。これは「二人」としていることからも罪人として扱われていないことがわかる。
延暦21年7月25日(ユリウス暦802年8月26日)、百官が桓武天皇に上表を奉って、蝦夷平定の成功を祝賀した。
田村麻呂がアテルイとモレを連れて平安京付近に到着した報告から半月後に公卿が祝賀の儀式を行っている。田村麻呂の入京と、アテルイとモレが河内国へと移送されたのを待ってのことと推測されている。
延暦21年8月13日(ユリウス暦802年9月17日 / 先発グレゴリオ暦802年9月21日)、アテルイとモレの2虜は奥地の賊首であることを理由として斬られた。公卿会議では田村麻呂が「陸奥に帰りたいと願い出ているので帰して、陸奥の経営にあたらせましょう」とアテルイとモレを故郷に返して彼らに現地を治めさせるのが得策であると申し入れた。しかし公卿たちは言い争い「野生獣心にして、反復定まりなし。せっかく梟帥がここにいるのだから、願いのまま陸奥に帰すのは野に虎を放つようなものだ」と執拗に反論した。田村麻呂の意見が受け容れられることはなく、アテルイとモレは奥地の賊首として捉えられ、河内国椙山で斬られた。
『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉条は「夷大墓公阿弖利為、盤具公母礼等を斬る。此の二虜は、並びに奥地の賊首なり」という主文から始まり、続けてこの決定がされた公卿会議の内容が記録されている。田村麻呂は「此の度は願ひに任せて返し入れ、其の賊類を招かんと」とアテルイとモレが陸奥に帰りたいと願い出ているのだから陸奥へと帰しましょうと進言している。一般的に「助命を嘆願した」とされているが、そもそも罪人として扱われていないアテルイとモレを斬る予定自体がなかった。ところが田村麻呂の申し入れに対して公卿は「野生獣心、反覆定まり無し。儻は朝威に縁って此の梟帥を獲たるを、ほしいままに申請に依って、奥地に放還するは、所謂虎を養ひ患を遺すものなり」と、2人は梟帥なのだから陸奥に帰すのは野に虎を放つようなものであると反論した。梟帥とは武(タケル)のことで、勇猛な異種族の長の意味があり、アテルイとモレはエミシの賊長なのだから陸奥へ帰すと再び反乱を起こすだろうと公卿は反論した。田村麻呂の申し入れは却下され、公卿の意見が受け入れられたため「即ち両虜を捉へ、河内国□山にて斬る」とあるように、ここではじめてアテルイとモレの身柄が拘束された。そして河内国椙山(現・枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、太子町、河南町、千早赤阪村、大阪市の一部、堺市の一部のどこか)で斬られた。
現代の顕彰
1994年(平成6年)11月6日、平安建都1200年に合わせて田村麻呂が開基したことで知られる京都・清水寺境内に「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」が建てられた。
2005年(平成17年)9月17日、岩手県奥州市の羽黒山に「阿弖流為 母禮 慰霊碑」が建てられた。
2007年(平成19年)3月、大阪府枚方市にある牧野公園内の伝・アテルイの首塚に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」が建てられた。これについて諸説あると曖昧にせずに書くならば、この伝・アテルイの首塚については説明を書くのが嫌になるほど馬鹿馬鹿しい経緯で1980年頃に捏造された史跡である。どうしても気になる人は外部リンクを参照。
考察
エミシとエゾ
古代の蝦夷(エミシ)とは、古代日本の畿内からみて東方・北方とその以北に広く住む人々に対する呼称である。古代東北の人々がエミシと自称したわけではないことに注意。古くは愛瀰詩や毛人と表記して「えみし」と使用されたが、大化の改新以降は蝦夷の表記で一貫している。
これに対し中世以後の蝦夷(エゾ)はアイヌを指すとする意見が主流である。渡島半島周辺を除く北海道(十州島)、樺太、千島列島を指す古称が蝦夷地であり、アイヌ人は蝦夷地をアイヌモシリと呼んだ。
エミシとエゾに同じ「蝦夷」という漢字表記が用いられていることから混乱を招きやすいが、日本史への理解を深めるためにエミシとアイヌ民族の両者を厳密に区別することが必須である。
アテルイ=アイヌ民族説
エミシ=アイヌ民族説が一部で根強いため、アテルイ=アイヌ民族説が紹介されることがある。アテルイは8世紀末から9世紀初頭にかけて活躍した陸奥国(現・青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)のうち、水陸万頃と呼ばれた胆沢のエミシである。一方、北海道でアイヌ文化が成立したのは12世紀から13世紀ごろと見られている。
考古学や言語学から、①アイヌ語地名の「ナイ」「ベツ」の分布は盛岡以北に多く、胆沢地域ではまばらであること、②北海道の後北式土器についても水沢市内では石田遺跡から二片発見されているのみで、同時期の土師器の多量な出土にくらべ問題にならないこと、③縄文前期~中期(6000~4000年前)に岩手県北から北海道渡島半島にかけて同筒下層、上層式土器群が展開したが、胆沢地域は大木式土器群が展開し、全く異なる文化圏を形成していることなどから、後期旧石器時代以降、縄文時代早期の一時期を除いて北海道文化圏と胆沢文化圏が同一であったという根拠がない。つまり考古学や言語学からもアテルイ=アイヌ民族説を裏付けるだけの根拠が何一つないのが現状である。
日高見国胆沢
清水寺の顕彰碑などでは「日高見国胆沢(岩手県水沢地域)」と書かれている。これは「北上(きたかみ)川」が「日高見(ひたかみ)国」と繋がるというものが根拠ではあるが、北上川を日高見国とすることについて歴史書などの史料による裏付けがあるわけではない。
残念ながらアテルイに関する顕彰碑には特定の政治的意図が反映されていることが多く、史料的に裏付けられた歴史的事実のみを史実として後世に伝えてほしいものである。
田村麻呂との激戦
アテルイと田村麻呂は「激戦を繰り広げた」「熾烈な戦いとなった」などと紹介されることが多い。しかし三十八年騒乱のうち蝦夷征討の中でアテルイの名前が登場するのは延暦八年の征夷の一度、田村麻呂の名前が登場するのは延暦十三年の征夷と延暦二十年の征夷の二度である。つまりアテルイと田村麻呂の接点が確認出来るのは、胆沢城使として陸奥国へと赴いた田村麻呂の元にアテルイが降伏しただけである。アテルイが降伏する際に2人が激戦を繰り広げたという歴史的事実はない。
ただし田村麻呂は延暦八年の征夷にこそ参戦していないが、延暦十三年の征夷と延暦二十年の征夷には参加しているため、そこでアテルイと激戦を繰り広げた可能性は否定できない。
降伏した理由
延暦八年の征夷で紀古佐美率いる朝廷軍を撃破したアテルイだが、延暦21年に胆沢城造営のために陸奥へと下っていた田村麻呂に突然の降伏をしている。降伏した理由について歴史学者による様々な推測があるものの、史料に乏しいことからはっきりとした理由はわかっていない。
延暦十三年の征夷の前となる延暦11年(792年)1月に斯波村の胆沢公阿奴志己(アヌシコ)が朝廷へ帰順したいと申し出たのをはじめ、朝廷に帰順するエミシの族長集団が相次いでいることから、朝廷はエミシに対する懐柔策を推進していたと考えられる。この傾向は延暦二十年の征夷の前にもみられ、同じく朝廷に帰順するエミシが相次いでいる。こうした状況からエミシの抵抗戦線は縮小し、反朝廷勢力の族長集団は孤立化していたのではないかと思われる。
また延暦13年(794年)の征夷使・大伴弟麻呂による延暦十三年の征夷の戦勝報告によると「四百五十七級を斬首し、百五十人を捕虜とし、馬八十五疋を得、七十五処を焼き落す」とあり、壮絶な戦いの末にエミシ側が受けたダメージは甚大なものであった。
延暦20年(801年)の征夷大将軍・坂上田村麻呂による延暦二十年の征夷では詳細な記録こそ残っていないものの「夷賊を討伏す」と強い言葉であることから、エミシ側が相当に追いやられたことは想像に難くない。
こうした背景が重なり、完全制圧された胆沢に城柵を築く朝廷を相手にして、胆沢を奪還することが不可能と判断したため降伏せざるを得なかったのではないかと推測されている。
騙し討ち
三十八年騒乱において朝廷が降伏してきたエミシを斬った例は一度もなく、このことからアテルイとモレは騙し討ちされたという意見がいまだ根強い。しかし田村麻呂の意志がアテルイらの処刑にあれば、降伏を受け入れた段階で処刑をして平安京に事後報告することができた。しかし田村麻呂は公卿会議の場でアテルイとモレの願い通りに陸奥国へと帰したい意志を申し出ているため、騙し討ちとは考えにくい。
処刑か、斬殺か
『日本紀略』には「即ち両虜を捉へ、河内国□山にて斬る」としか記録されていないため、アテルイとモレは河内国□山で捉えられて斬られたことしか判明していない。この「斬る」をどのように解釈するかについては「処刑された」のか「斬り殺された」のか意見が分かれている。2020年現在、アテルイ関連の書籍や論文では「処刑された」と解釈されていることが多い。またWikipedia日本語版でも長く「処刑された」と書かれていたが、2005年にWikipediaの当該記事のノートで「また、「処刑された」を「斬り殺された」と書き直すと、戦死や混乱の中での死との区別が曖昧になると感じられます。多分に感覚の問題ですが。」と議論されている(2019年12月2日閲覧)。
しかし一部の歴史学者から「律令国家の人間として処刑された」のか「律令外の人間だから斬り殺された」のか、解釈ひとつでアテルイに関する歴史的事実が真逆に解釈できることが指摘されている。古代日本の律令では、罪人は平安京内の東の市か西の市で公開処刑されるのが正規の規定であった。つまりアテルイとモレは平安京外の河内国で斬られていることから、律令による罪人=律令国家の人間として処刑されていないと考えるのが自然である。いずれにせよ『日本紀略』の「斬る」だけでは「処刑された」と断定出来ないため「斬られた」としておくのが妥当である。同様に斬首とされることもあるが、ただ斬られたことしか判明しておらず、斬首とするにしても史料的根拠が不足している。
河内国への移送
『日本紀略』は「田村麿来たる」としか記録しておらず、田村麻呂とともにアテルイとモレが平安京へ入京したと断言することが出来ない。実は将軍であっても入京するための手続きが必要であり、おそらく田村麻呂とともに瀬田の駅で入京許可を待つことになったはずである。そのため平安京の付近まで「来た」と解釈されて、平安京へ入京したとは解釈されていない。その後もアテルイとモレが平安京へ入京したことに関する記事はなく、次に名前が登場するのは河内国□山で斬られた記事である。つまりアテルイとモレはさいごまで平安京へ入京することなく、河内国へと移送されていたことになる。
公卿会議の直後に拘束されているため、おそらくアテルイとモレは瀬田の駅から船で宇治川と淀川を下って河内国へと移送され、軟禁に近い状態で身柄を置かれていたものと推測できる。アテルイとモレがが斬られたとされる河内国のうち北河内交野郡中宮郷付近は百済王氏の本貫地であり、桓武天皇の外戚として信頼が厚く、武官として征夷に関わる軍事貴族であったことからエミシを熟知していた。アテルイとモレを預かるには適任であるが、あくまで推測であって百済王氏が関わっていたことを裏付ける史料はない。
而るに公卿執論して
近年は『日本紀略』で「野生獣心にして、反復定まりなし」という公卿の申し入れに対し、『日本紀略』の著者が「而るに公卿執論して」と付け加えることで公卿に対する批判的な記述にしているのではと注目されている。4月15日の条、7月10日の条、8月13日の条すべてでアテルイとモレに対し「公」の姓を一貫して用いながら記していることからも、公卿ではなく田村麻呂の申し入れこそが正しいことを示したかったのではとされる。
『日本紀略』の原本である『日本後紀』の序文には編纂の筆頭として「左大臣正二位臣藤原朝臣緒継」とある。この藤原緒継という人物は若干29歳で参議となり、従四位下のときに公卿が執論してアテルイとモレを捉えて斬る決定をした公卿会議の末席にいた。緒継はのちに菅野真道との徳政相論で「軍事と造作が民の負担となっている」と殿上で論じ、桓武天皇が蝦夷征討の中止を決定している。一方では真道は前述の百済王氏と同族である。緒継は当時から田村麻呂の申し入れを支持し、公卿たちに対して批判的であったため「而るに公卿執論して」と記述したと推測されているが、その真意は定かではない。
歴史は勝者がつくる
『続日本記』には蝦夷征討と同時代に起こった早良親王廃太子の記事が、発端となった藤原種継暗殺事件と共に記載されていない。平城天皇の時代に一度は記載されたものの、嵯峨天皇の時代になって再び削除されている。一方では紀古佐美率いる朝廷軍が巣伏の戦いで大敗を喫したことは克明に記載されている。もしも勝者が都合よく歴史を書くのであれば、大敗を喫した巣伏の戦いも藤原種継暗殺事件同様に何らかの手が加えられいるはずであるが、そのような痕跡は見当たらない。
アテルイ復権運動の功罪
アテルイとフィクション
後述する悪路王伝説との混同も同様であるが、全ての事象を安易にアテルイに結びつけて解釈しようとする行為が、東北地方の地元感情に少なからず影響を与えているとして賛否両論である。悪路王の他にも悪事の高丸、大武丸(大多鬼丸など)など、室町時代から江戸時代にかけて京都から持ち込まれた御伽草子『田村の草子』などが東北地方で「田村語り」として成立し、それを元に創出された地域伝説までもが史実として解釈されていることも、この傾向に拍車をかけている。これら伝説はあくまでも後世の人々が創出した物語であり、かならずしも当時の史実を反映しているとは限らない。
悪路王との同一視の否定
民俗学では坂上田村麻呂伝説に登場する悪路王をアテルイと同一視する傾向にあるが、歴史学では江戸時代から現代まで同一視に否定的な見解が示されている。
- 仙台藩士・佐藤信要は、寛保元年(1741年)の『封内名跡志』の中で東北地方には田村麻呂建立とする寺社が多いことについて「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」との見解を示している。
- 相原友直は、仙台藩の風土を記した『平泉雑記』の中で田村将軍建立堂社について「悉く信用が不足している」と述べている。
- 高橋崇は、アテルイと悪路王の同一視について、アテルイ復権運動による郷土愛的な側面を指摘して「史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」としている。
- 『えみし風聞』の著書である宮野英夫氏は、講演で「アテルイと悪路王を同一視してはいけない」と話している。
- 奥州市埋蔵文化財調査センターの解説員は、新聞のインタビューで「みなさんよく誤解しているんですが、アテルイと悪路王は別の存在です」と答えている。
史実を反映しているか
民俗学者・伊能嘉矩は、悪路王は鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』に登場するのが最古の記述としている。その内容は文治5年(1189年)9月28日の条に、平泉で藤原泰衡を討伐した源頼朝が鎌倉へと帰る途中、達谷窟を通ったときに「田村麻呂利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」と案内人から教わったとある。
この『吾妻鏡』が編纂されたのは、アテルイの死後約400年後である。アテルイや田村麻呂と生きた時代が異なる藤原利仁の名前も登場するなど、史実として扱うには歴史的事実からあまりにも解離が進んでいる。鎌倉時代の平泉周辺でアテルイの事績が伝説化していたのではないかという参考史料にはなるものの、アテルイの時代の史実として扱うには問題がある。アテルイと悪路王は「史実と、その史実と同時期を対象にした伝説」という関係でしかなく、歴史上の人物としてのアテルイと、伝説上の人物としての悪路王は別人物として考えなければいけない。
現代においてアテルイを悪路王と同一視することで、古代東北の英雄・アテルイを都合よく鬼として扱っているのは我々現代人なのかもしれない。
創作する上での配慮
創作においてのアテルイは、アイヌ民族の装飾品・アイヌ文様の民族衣装・アイヌ語など、アイヌ民族をモチーフにして描かれることが多い。しかしアテルイにアイヌ民族のモチーフを付与する行為は、古代東北の人々にアイヌ民族の価値観を押し付ける行為であると同時に、アイヌ民族の視点から文化の盗用に他ならない行為である。安易な思いつきによってアイヌ民族をモチーフにするのはアテルイや古代東北の人々のアイデンティティが失われかねない行為のため、アテルイ=アイヌ民族であると断定する根拠が未だに発見されていないこと念頭に、アテルイとアイヌ民族の両者に対して相応の配慮が必要である。
関連キャラクター
『もののけ姫』
映画『もののけ姫』の主人公
⇒アシタカも参照
アテルイの末裔という設定。
『阿弖流為II世』
蝦夷(エミシ)の長
⇒阿弖流為
地球に降り立った異星人の1人。神上龍一の身体を借りて蘇る。
『たむらまろさん』
⇒アテルイ
『妖怪百姫たん!』
CV:洲崎綾
『英雄*戦姫WW』
⇒アテルイ
名前だけ共通している例
『天罰エンジェルラビィ☆』
敵組織の名前。特に東北などとも関係なく、名の由来は謎。
関連項目
<総合>
大墓公 阿弖流爲 阿弖利爲 阿弖流為 阿弖利為 アテルイ アテリイ
<作品>
市川染五郎(7代目):舞台劇『アテルイ』(劇団☆新感線)で阿弖流為を演じた。
市川染五郎(7代目):歌舞伎NEXT『阿弖流為〈アテルイ〉』で阿弖流為を演じた。
礼真琴:ミュージカル『阿弖流為―ATERUI―』(宝塚歌劇団星組)で阿弖流為を演じた。
<その他>