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アテルイ

あてるい

平安時代初期の蝦夷(エミシ)の軍事指導者
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概要

アテルイは、平安時代初期の蝦夷エミシ)の軍事指導者とされる人物。阿弖流爲阿弖利爲とも記され、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。

『日本紀略』ではアテルイを大墓公阿弖利爲と記述している。推測の域を出ないと前置きするが「大墓」は地名を、「公」は尊称ではないかとも考えられている。朝廷に帰順したエミシに対して地位を与えた例もあることから、アテルイも一時は朝廷から地位を与えられていた可能性がある。

よく誤解されるが陸奥国(現在の青森県岩手県宮城県福島県)の蝦夷(エミシ)の人物であり、蝦夷地(現在の北海道)やアイヌとは無関係である。

来歴

アテルイに関する史料は『続日本紀』と『日本紀略』の2つがある。『続日本紀』では巣伏の戦いおける紀古佐美の記述、『日本紀略』ではアテルイが降伏した事に関する記述である。

789年(延暦8年)に胆沢に進軍した征東大使紀古佐美率いる朝廷軍巣伏の戦いで撃破した。朝廷側に与えた損害は丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人であった。

802年(延暦21年)4月15日に胆沢城を築くために陸奥国へと下っていた坂上田村麻呂から平安京へと届けれた報告によると「大墓公阿弖利爲や盤具公母礼(モレ)ら500余人の降伏を容れた」とある(「アテルイ側から田村麻呂へ講和を申し入れた」「田村麻呂側から和睦を切り出し、アテルイを騙して処刑した」などアテルイらが降伏した理由として様々な説があるが、いずれも史料的裏付けはなく、現在のところは不明である)。
同年7月10日に田村麻呂に付き添われてモレと共に平安京へと上京。田村麻呂は2人の命を救うよう助命嘆願をしたものの、平安京の公卿は執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と反対したため、アテルイとモレは8月13日に河内国で処刑された。

1994年(平成6年)11月6日には平安建都1200年に合わせて、田村麻呂が開基の清水寺境内に「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」が建てられた。

考察

処刑について

紀古佐美率いる朝廷軍を撃破したアテルイであるが、胆沢城造営のために陸奥へと下っていた田村麻呂に降伏していることから、騙されて処刑されたという説も根強い。
しかし田村麻呂の意志がアテルイの処刑にあれば降伏を受け入れた段階で処刑をした上で平安京へ報告することもでき、平安京に連れ帰ったあとに公卿に対してアテルイの助命嘆願をする必要もない。

またアテルイ復権運動の中で悪路王大武丸(大多鬼丸など)の地域伝説がそのまま史実として混同され、アテルイと同一視されたことも相まって田村麻呂に騙されて処刑されたという地元感情も影響している。

公卿執論

近年は「野生獣心にして、反復定まりなし。」という公卿たちの発言に対して「而るに公卿執論して」とあることから『日本紀略』の編纂者など、アテルイを処刑すべきではないという田村麻呂の助命嘆願に同調する者もいたのではとも考えられている。

伝説との混同

アテルイに関する資料は『続日本紀』と『日本紀略』しか残っていない。
しかし賛否両論あるものの、民俗学において坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王大武丸(大多鬼丸など)をアテルイではないなとする説もある。

悪路王について民俗学者の伊能嘉矩によれば、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』が最古の記述とされる。
文治5年(1189年)9月28日の条に平泉藤原泰衡を討伐した源頼朝鎌倉へと帰る途中、達谷窟を通ったときに「田村麻呂や利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」と案内人から教わったという。
『吾妻鏡』は編年体で書かれた将軍年代記であることから、この記述にも政治的意図があった可能性も否定できない。

アテルイと悪路王(大武丸や大多鬼丸など)は「史実と、その史実と同時期を対象にした伝説」という関係である。
歴史学では歴史上の人物としてのアテルイと、伝説上の人物としての悪路王は別けて考えなければならなず、史実と伝説を混同してはいけない。

関連タグ

蝦夷 エミシ

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