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アテルイ

あてるい

奈良時代末期から平安時代初期の蝦夷(えみし)の族長。阿弖流爲もしくは大墓公阿弖利爲。
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概要

アテルイの名前は、古代日本の律令国家が編纂した正史である「六国史」のうち『続日本紀』と『日本後紀』の中でもわずか4箇所にしか登場せず、ここに書かれていること以外は一切不明。
日本紀略』と『類聚国史』でもアテルイについて書かれているが、これらは『日本後紀』を原文とする内容のため実質的には『続日本紀』と『日本後紀』がアテルイを知る手がかりである。

その内容は1.延暦8年(789年)に紀古佐美率いる朝廷軍の記録に「賊帥の夷阿弖流為の居に至る云々」とあること、2.延暦21年(802年)に胆沢城造営中の坂上田村麻呂に降伏したこと、3.田村麻呂に付き添われて平安京付近まで来たこと、4.河内国椙山で斬られたことが記録されるのみで、アテルイの年齢容姿思想さえも記録されていない。
ひとつだけ確かなことがある。それは奈良時代末期から平安時代初期にかけて活躍した「古代東北の英雄であることだろう。

よくある誤解

名前

朝廷による記録では阿弖流爲もしくは大墓公阿弖利爲と記されている。
一級史料上は旧字体で表記されているが、書籍などでは新字体で阿弖流為大墓公阿弖利為と表記されることが多い。
読み方も不明なのだが、本頁では最も一般的なアテルイを用いる。

蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)

古代の蝦夷(えみし)とは、律令国家からみて本州東方とその以北に広く住む人々に対する呼称であり、決して古代東北の人々が自称したわけではない。古くは愛瀰詩毛人と表記して「えみし」と使用されたが、大化の改新以降は蝦夷の表記で一貫している。

中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとる意見が主流である。渡島半島周辺を除く北海道十州島)、樺太千島列島を指す古称が蝦夷地(えぞち)であり、アイヌ人はアイヌモシリと呼んだ。

蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)に同じ漢字表記が用いられていることから混乱を招きやすいが、日本史への理解を深めるためにも両者を厳密に区別することが大切である

日高見国胆沢

清水寺の顕彰碑などでは「日高見国胆沢(岩手県水沢地域)」と書かれている。これは「北上川(きたかみ)」が「日高見国(ひたかみのくに)」と繋がるというものが根拠である。
北上川を日高見国とすることについて、歴史書などの史料による裏づけがあるわけではない。

顕彰碑こそ左翼史観にとらわれず、史料に裏付けられたことのみを史実としてほしいものである。

アテルイ = アイヌ民族説

アテルイは8世紀末から9世紀初頭にかけて活躍した陸奥国(現在の青森県岩手県宮城県福島県秋田県北東部)のうち、「水陸万頃(すいりくばんけい)」と呼ばれた胆沢の蝦夷と考えられている。一方、北海道でアイヌ文化が成立したのは12世紀から13世紀ごろといわれる。

考古学言語学からみても

  1. アイヌ語地名の「ナイ」、「ベツ」の分布は、「盛岡以北に多く、胆沢地域はまばらである」こと
  2. 北海道の後北式土器についても「水沢市内では石田遺跡から二片発見されているのみで、同時期の土師器の多量な出土にくらべ問題にならない」こと
  3. 「縄文前期~中期(六千~四千年前)岩手県北から北海道渡島半島にかけて同筒下層、上層式土器群が展開したが、胆沢地域は大木式土器群が展開し、全く異なる文化圏を形成している」こと
などから後期旧石器時代以降、縄文時代早期の一時期を除いて北海道文化圏と胆沢文化圏が同一であったという根拠がない
つまりアテルイがアイヌ民族であったという根拠は何一つない。

創作する上での配慮

創作においてのアテルイは、アイヌの装飾品やアイヌ文様の民族衣装またはアイヌ語など、アイヌ民族をモチーフにして描かれることが多い。
しかしアテルイにアイヌ民族のモチーフをあたえるということは、古代東北の人々にアイヌ民族の価値観を押し付ける行為であり、同時にアイヌ民族の視点からみても文化の盗用に他ならない。
安易な思いつきによってアイヌ民族をモチーフにするのはアテルイのアイデンティティが失われるほどの行為のため、アテルイ=アイヌ民族であると断定する根拠が未だに発見されていないこと念頭に、アテルイとアイヌ両者に対して相応の配慮が必要である。

来歴

延暦8年(『続日本紀』の記録)

6月3日の条

比至賊帥夷阿弖流為之居。有賊徒三百許人。迎逢相戦。官軍勢強。賊衆引遁。官軍且戦且焼至巣伏村

上記はアテルイに関する部分を抜粋したものである。
延暦8年(789年)に胆沢へと進軍した征東大使紀古佐美率いる朝廷軍のうち、中軍と後軍が北上川を渡って北進したときに、巣伏村までにアテルイの居を通過したとある。
一般的に巣伏の戦いで紀古佐美を撃破したとされているが、この記述だけではアテルイが巣伏の戦いに参加していたのかまでは確定できない。

延暦21年(『日本紀略』の記録)

4月15日の条

夏四月庚子。造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿弥田村麻呂等言す
夷大墓公阿弖利為、盤具公母礼等、種類五百余人を率ゐて降る

  • 延暦21年4月15日(ユリウス暦802年5月19日、先発グレゴリオ暦802年5月23日)、陸奥国に胆沢城を築くために特派されている陸奥出羽按察使・坂上田村麻呂から報告が届けれた。
  • エミシのアテルイとモレが一族を500人ほど連れて降伏してきた。

陸奥出羽按察使(古代東北における朝廷の最高官僚)と胆沢の城柵官衙を兼任していた田村麻呂が、アテルイとモレが一族を連れて降伏してきたことを平安京の朝廷へと報告した公式な文書である。
田村麻呂は報告文の中でアテルイとモレに対して「公」という、天皇からエミシの豪族に与えられた尊称()を用いているため、アテルイとモレが以前は朝廷と関係を持ち、天皇から賜姓されていたことが考えられる。
このように報告文で尊称を用いていることから、田村麻呂はアテルイとモレを国家に対する罪人として扱わず、朝廷側の者とみなしていたことが読み取れる。

7月10日の条

秋七月甲子。造陸奥国胆沢城使田村麿来たる。夷大墓公二人並びに従ふ

  • 延暦21年7月10日(ユリウス暦8月11日、先発グレゴリオ暦802年8月15日)、田村麻呂に付き添われて、アテルイとモレが平安京へと来た。

ここでも尊称が用いられている。
「並びに従ふ」と記述されていることから、アテルイとモレは拘束のうえ護送されているとは読み取れない。「二人」としていることからも罪人として扱われていないことがわかる。
また「来たる」とのみ記述されていることから、田村麻呂とともに平安京へと向かってきたことまでは読み取れるものの、この記述だけでは入京していなかったとも考えられる。

8月13日の条

八月丁酉。夷大墓公阿弖利為、盤具公母礼等を斬る。此の二虜は、並びに奥地の賊首なり
二虜を斬らんとする時、将軍等申して云はく「此の度は願ひに任せて返し入れ、其の賊類を招かんと」
而るに公卿執論して云はく「野生獣心、反覆定まり無し。儻は朝威に縁って此の梟帥を獲たるを、ほしいままに申請に依って、奥地に放還するは、所謂虎を養ひ患を遺すものなり」
即ち両虜を捉へ、河内国椙山にて斬る

  • 延暦21年8月17日(ユリウス暦802年9月17日、先発グレゴリオ暦802年9月21日)アテルイとモレを斬った。2人はエミシの賊首である。
  • 2人を斬るときに田村麻呂が「陸奥に帰りたいと願い出ているので帰して、陸奥の経営にあたらせましょう」と申し入れた。
  • それなのに公卿は言い争い「野生獣心にして、反復定まりなし。せっかく梟帥がここにいるのだから、願いのまま陸奥に帰すのは野に虎を放つようなものだ」と申し入れた。
  • その結果2人を捉えて、河内国椙山(すぎやま)で斬った。

アテルイとモレはエミシの賊首だから斬ったという主文から始まっている。
この日に起きたことは、田村麻呂はアテルイとモレが陸奥に帰りたいと願い出ているのだから帰しましょうと申し入れている。一般的に「助命を嘆願した」とされているが、そもそも罪人として扱われていないアテルイとモレを斬る予定自体がなかった。
ところが田村麻呂の申し入れに対して公卿は、アテルイとモレは梟帥なのだから陸奥に帰すのは野に虎を放つようなものであると反論した。梟帥とは「武(タケル)」のことで、勇猛な異種族の長の意味があり、アテルイとモレはエミシの賊長なのだから陸奥へ帰すと再び反乱を起こすだろうと公卿は反論した。
田村麻呂の申し入れは却下され、公卿の意見が受け入れられたことで、ここではじめて「両虜を捉へて」とあるようにアテルイとモレの身柄が拘束された。そして「河内国椙山」で斬られることになる。

アテルイの顕彰

1994年(平成6年)11月6日、平安建都1200年に合わせて、田村麻呂が開基した京都・清水寺境内に「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」が建てられた。

2005年(平成17年)9月17日、岩手県奥州市の羽黒山に「阿弖流為 母禮 慰霊碑」が建てられた。

2007年(平成19年)3月、大阪府枚方市にある牧野公園内のアテルイの首塚に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」が建てられた。諸説あると曖昧にせずに書くならば、この首塚らしき何かについては、説明を書くのが嫌になるほど馬鹿馬鹿しい経緯で1980年頃に捏造されたものである。どうしても気になる人は外部リンクを参照してほしい。後述の「フィクションと復権運動」や「悪路王伝説との混同」もそうだが、学者が史料に裏付けられたアテルイ像を日々研究しているなかで、首塚らしき何かに行政までもが荷担している現実は茶番でしかない。

考察

田村麻呂との激戦?

アテルイは田村麻呂と激戦を繰り広げた、熾烈な戦いとなったなどとして紹介されることがある。

しかし、田村麻呂の名前が登場する2度の蝦夷征討の史料をみても「延暦13年(794年)6月13日に田村麻呂が蝦夷を征した」「延暦20年(801年)9月27日に征夷大将軍坂上田村麻呂が夷賊を討伏した」と記されるのみで、その具体的な内容は不明である。
アテルイと田村麻呂の接点は延暦21年(『日本紀略』の記録)のアテルイの降伏に関するものしかなく、アテルイと田村麻呂が戦ったという歴史的事実は確認できていない。

アテルイ降伏の理由

延暦8年に紀古佐美率いる朝廷軍を撃破したアテルイだが、延暦21年に胆沢城造営のために陸奥へと下っていた田村麻呂に突然の降伏をしている。その理由については様々な推測があるものの、史料に乏しいことからはっきりとした理由はわかっていない。

第二次蝦夷征討の前となる延暦11年(792年)1月に斯波村の胆沢公阿奴志己(アヌシコ)が朝廷へ帰順したいと申し出たのをはじめ、朝廷に帰順する蝦夷の族長集団が相次いでいることから、朝廷は蝦夷に対する懐柔策を推進していたと考えられる。この傾向は第三次蝦夷征討の前にもみられ、同じく朝廷に帰順する蝦夷が相次いでいる。
こうした状況から蝦夷の抵抗戦線は縮小し、反朝廷勢力の族長集団は孤立化していたのではないかと思われる。

また延暦13年(794年)の征夷使・大伴弟麻呂による第二次蝦夷征討の戦勝報告に「四百五十七級を斬首し、百五十人を捕虜とし、馬八十五疋を得、七十五処を焼き落す」とあり、壮絶な戦いの末に蝦夷側が受けたダメージは甚大なものであったことがわかる。
延暦20年(801年)の征夷大将軍・坂上田村麻呂による第三次蝦夷征討では詳細な記録こそ残されていないものの「夷賊を討伏す」とあることから、蝦夷が相当に追いやられたことは想像に難くない。

こうした背景が重なったことで、完全制圧された胆沢に城柵を築く朝廷を相手にして、胆沢を奪還することが不可能と判断したため降伏せざるを得なかったのではないかと推測できる。

騙し討ちか

来歴にもあるように、朝廷による記録でもアテルイとモレを罪人として処刑したとは記されていない。公卿会議の結果、捉えられて斬られた。このことから騙し討ちされたという意見もいまだ根強い。

田村麻呂の意志がアテルイの処刑にあれば、アテルイの降伏を受け入れた段階で処刑をすることが出来た。平安京へも事後報告でいい。しかし田村麻呂は公卿会議の場で、願い通りに陸奥へと帰そうと申し出ているため騙し討ちとは考えにくい。
降伏した理由は不明だが、アテルイは自ら降伏することを決めているため、その心境はどのような結末も受け入れる覚悟だったのではないか。

処刑か、斬殺か

アテルイに関する書籍などではアテルイは処刑されたと書かれていることが多い。Wikipedia日本語版のアテルイの項目をみても処刑されたと書かれており、これについてノートでも2005年に「また、「処刑された」を「斬り殺された」と書き直すと、戦死や混乱の中での死との区別が曖昧になると感じられます。多分に感覚の問題ですが。」と議論されている(2019年12月2日閲覧)。

しかし一級史料の『日本紀略』では「即ち両虜を捉へ、河内国椙山にて斬る」とだけあり、平安京へと連行されずに河内国椙山でアテルイは斬り殺されたことしか読みとけない。古代日本の律令では、罪人は平安京内の東の市か西の市で公開処刑されるのが正規の規定となるが、アテルイとモレは平安京外の河内国で斬られていることから罪人として処刑されていないことがわかる。
処刑ではなく河内国で斬られた要因としては、田村麻呂がアテルイとモレを生かして陸奥へと返すよう申し出たことに対し、朝廷としては蝦夷征討の英雄となった田村麻呂の誇りを傷付けないように配慮したものとみられる。
もうひとつは朝廷の貴族は蝦夷を人としてみていなかった者が多かったのではないかというもの。桓武天皇早良親王怨霊に悩まされて長岡京から平安京へと遷都しているが、位の高い早良親王と違って、人ではない蝦夷はそもそも怨霊にはならないと考えられていたため、新しい京を蝦夷の血で穢したくなかったのではというもの。

いずれにせよ『日本紀略』からはアテルイが処刑されたと断定出来るだけの事実は読みとけないため、斬殺とするのが妥当であろう。同様にアテルイに関する書籍などでは斬首とされることもあるが、ただ斬られだだけで、斬首とするにしても根拠が不足している。実のところ、降伏してきた蝦夷を斬った例は後にも先にもアテルイとモレのたった一例のみである。だからこそWikipediaのように「処刑された」のと「斬り殺された」のを曖昧にせず、きっちりと区別しなくては歴史的な意味も大きく異なってくる。

なぜ河内国で斬られたのか

7月10日の条には「田村麿来たる」とのみあり、アテルイとモレが平安京へ入京したとは記されていない。将軍であっても入京するには手続きが必要であり、おそらくは田村麻呂とともに瀬多の駅で入京の許可を待つことになったはずである。
しかし入京に関する記事がないまま、8月13日の条では「即ち両虜を捉へ、河内国椙山にて斬る」とあることから、一度も入京することなく捉えられて斬られたことになる。

公卿会議の結果からすぐに拘束されているため、おそらく2人は軟禁に近い状態であったと考えられ、瀬田の駅から船で宇治川と淀川を下って移送され、河内国に身柄を置かれていたものと推測できる。
アテルイとモレが斬られたとされる北河内交野郡中宮郷付近は百済王氏が本貫地としており、武官として征夷に関わる軍事貴族であったことから蝦夷を熟知していた。桓武天皇の外戚としても信頼が厚かったことから、アテルイとモレを預かるには適任である。
推測であって百済王氏が関わっていたことを裏付ける史料はない。

「而るに公卿執論して」に込められた意図

近年は『日本紀略』で「野生獣心にして、反復定まりなし」という公卿の申し入れに対し、著者が「而るに公卿執論して」と付け加えることで公卿に対する批判的な記述にしているのではと注目されている。
4月15日の条、7月10日の条、8月13日の条すべてでアテルイとモレに対し「大墓公」「盤具公」という尊称を一貫して用いながら記していることからも、公卿ではなく田村麻呂の申し入れが正しいことを示したかったのではとされる。

『日本紀略』の原本である『日本後紀』の序文には編纂の筆頭として「左大臣正二位臣藤原朝臣緒継」とある。この藤原緒継という人物は若干29歳で参議となり、従四位下のときに公卿が執論してアテルイとモレを捉えて斬る決定をした公卿会議の末席にいた。
緒継はのちに菅野真道との「徳政相論」で「軍事と造作が民の負担となっている」と殿上で論じ、桓武天皇が第四次蝦夷征討の中止を決定している。真道は前述の百済王氏と同族である。
緒継は当時から田村麻呂の申し入れを支持し、公卿たちに対して批判的であったため「而るに公卿執論して」と記述したと推測されているが、その真意は定かではない。

朝廷にとって都合の悪い記述とは

『続日本記』には蝦夷征討と同時代に起こった早良親王廃太子の記事が、発端となった藤原種継暗殺事件と共に記載されていない。平城天皇の時代に一度は記載されたものの、嵯峨天皇の時代になって再び削除されている。
一方で紀古佐美率いる朝廷軍が巣伏の戦いで大敗を喫したことは克明に記載されている。勝者が都合よく歴史を書くのであれば、大敗を喫した巣伏の戦いも藤原種継暗殺事件同様に何らかの手が加えられいるはずであるが、そのような痕跡は見当たらない。

フィクションと復権運動

アテルイの人物像想像して描かれた歴史小説歴史映画歴史ドラマなどを通して、アテルイの名誉回復と復権がなされるのは好ましい事である。
しかしながら復権運動が政治的意図を持ち、歴史上の人物としてのアテルイから逸脱して、過度に美化されたフィクションまでもが歴史的事実として受け入れられる風潮については、アテルイの復権という観点から好ましいものとはいえないだろう。

後述する悪路王伝説との混同も同様で、安易に同一視されていることから東北地方の地元感情に少なからず影響を与えているため賛否両論である。
悪路王の他にも悪事の高丸大武丸(大多鬼丸など)など、室町時代から江戸時代にかけて京都から持ち込まれた御伽草子『田村の草子』などが東北地方で「田村語り」として成立し、それを元に創出された地域伝説までもが史実として解釈されていることも、この傾向に拍車をかけている。
伝説はあくまでも後世の人々が創出した物語であり、かならずしも史実を反映しているものではない。

悪路王伝説との混同

同一視の否定

民俗学では坂上田村麻呂伝説に登場する悪路王とアテルイを同一視する傾向にあるが、歴史学では江戸時代から現代まで同一視に否定的な見解が示されている。

仙台藩士・佐藤信要は寛保元年(1741年)の『封内名跡志』で、東北地方には田村麻呂建立とする寺社が多いことについて「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」と記している。
相原友直も仙台藩の風土を記した『平泉雑記』で、田村将軍建立堂社について「悉く信用が不足している」と述べている。
高橋崇氏はアテルイと悪路王の同一視について、アテルイ復権運動による郷土愛的な側面を指摘して「史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」としている。
『えみし風聞』の著書である宮野英夫氏は講演で、「アテルイと悪路王を同一視してはいけない」と話している。
奥州市埋蔵文化財調査センターの解説員は新聞のインタビューで、「みなさんよく誤解しているんですが、アテルイと悪路王は別の存在です」と答えている。

史実を反映しているか

民俗学者・伊能嘉矩は、悪路王は鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』に登場するのが最古の記述としている。
その内容は文治5年(1189年)9月28日の条に、平泉藤原泰衡を討伐した源頼朝鎌倉へと帰る途中、達谷窟を通ったときに「田村麻呂利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」と案内人から教わったとある。

この『吾妻鏡』が編纂されたのは、アテルイの死後約400年となる。アテルイや田村麻呂と生きた時代が異なる藤原利仁の名前も登場するなど、史実として扱うには歴史的事実からあまりにも解離が進んでいる。鎌倉時代の平泉周辺でアテルイの事績が伝説化していたのではないかという参考史料にはなるものの、史実として扱うには問題も多い。
アテルイと悪路王は「史実と、その史実と同時期を対象にした伝説」という関係でしかなく、歴史上の人物としてのアテルイと、伝説上の人物としての悪路王は別人物として考えなければいけない。

現代においてアテルイを悪路王と同一視することで、古代東北の英雄・アテルイを都合よく鬼として扱っているのは我々現代人なのかもしれない。

関連キャラクター

もののけ姫

映画『もののけ姫』の主人公

アシタカ


アシタカも参照
CV:松田洋治(日本版) / ビリー・クラダップ(英語版)
アテルイの末裔という設定。

阿弖流為II世

蝦夷(エミシ)の長

「阿弖流為II世」より


⇒阿弖流為
地球に降り立った異星人の1人。神上龍一の身体を借りて蘇る。

たむらまろさん

「たむらまろさん」より


⇒アテルイ

妖怪百姫たん!

阿弖流爲(百姫たん)
CV:洲崎綾

英雄*戦姫WW

⇒アテルイ

名前だけ共通している例


関連項目

<総合>
大墓公阿弖利爲 阿弖流爲 阿弖利爲 阿弖流為 阿弖利為 阿久利黒

<作品>
市川染五郎(7代目):舞台劇『アテルイ』(劇団☆新感線)で阿弖流為を演じた。
市川染五郎(7代目):歌舞伎NEXT『阿弖流為〈アテルイ〉』で阿弖流為を演じた。
礼真琴:ミュージカル『阿弖流為―ATERUI―』(宝塚歌劇団星組)で阿弖流為を演じた。

<その他>
巡霊者アテルイ

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