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信西(藤原信西)とは平安時代末期の僧侶である。俗名は高階通憲、出家直前に藤原通憲となっている。後白河上皇に仕える政治家として活躍した。


出自編集

生まれは中級貴族藤原南家で、実父は藤原実兼。実父が7歳の時に急死し、親戚であった高階経敏の養子として高階通憲を名乗った。実父の家系は学者の家系であり、養父の高階家は受領を歴任して経済的に裕福であった。通憲は実父の遺志を継いで学業に励み、その学力は「諸道に達せる才人なり(『尊卑文脈』)」「漢文、和文、天文を極め、今の世どころかいにしえにも例がない俊才(『今鏡』)」と学界無双の水準にあった。しかし、何と当時の学者は世襲制。藤原南家なら学者となる資格はあったが、高階家では大学寮(当時の大学に相当する高等教育機関)での大学頭(学長相当)、文章博士(教授相当)等の職を得ることは不可能であった。また院近臣としての実務官僚の職を得ようとしたが、これも既得権益を脅かされる先任官僚たちに妨害されて失敗。


挫折と出家編集

こうして通憲は、将来に絶望して出家を望むようになった。意外にも学者つながりで、通憲は藤原頼長とも交流があり、通憲の決意を聞いた頼長は「それほどの才能があるのに要職を得られず、世間がその才を用いられないとは、天が我が国を滅ぼすようなものだ(『台記』)」と語っている。通憲は「こうも運が拙くては已むを得ません。私は学問を捨てますが、どうか殿下はお捨てにならぬように」と述べ、頼長は涙を流したという(『台記』)。鳥羽上皇もその才能を惜しみ、藤原姓を名乗る許可を出して藤原通憲と改名させ、息子の俊憲には大学頭となる道を用意した。まあ、本人が学問の道を選べないのでは意味がなかったのか、通憲はついに出家して信西と名乗った。


しかし院での就職に悪戦苦闘していた間に、妻の藤原朝子雅仁親王の乳母に選ばれていたことが転機となった。また院近臣で同世代の藤原家成と親しく、同家に出入りしていた平清盛とも交流があった(角田文衛『平安の春』)。鳥羽上皇も信西を重用し、歴史書『本朝世紀』の編纂を任せている。


後白河天皇政権の重鎮編集

近衛天皇の死後に後継者選びが問題となると、信西は美福門院に助言し、その猶子守仁親王(二条天皇)が即位するまでのつなぎとして守仁親王の父雅仁親王の即位を実現させたという(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。『愚管抄』は関白藤原忠通がこの即位を主導したとする。雅仁親王は即位して後白河天皇となる。信西は後白河天皇から乳父としてさらに重用され、鳥羽法皇の葬儀も取り仕切っている。こうして成立した後白河天皇、忠通、信西の政権に対して、崇徳上皇と藤原頼長は武力での反乱、保元の乱に踏み切った。信西は天皇方の参謀として活躍し、源義朝の夜襲策を採用して上皇方を打ち破った。この時信西は過去の友情を思い出したのであろうか、密かに崇徳上皇の御所に入ろうとした頼長を見咎めた武士たちに見逃すよう命じ、世人にその奥ゆかしさを称賛されたという(『保元物語』)。


源為義や平忠正ら主だった上皇方の武士が処刑されたことについて、『百錬抄』は信西が決めたとするが、『愚管抄』は後白河天皇が為義の処刑を裁断したとし、真相は不明である。乱後の処理にて頼長の所領などを没収したのは、当時僅かであった天皇直轄領拡大と経済基盤の確立に役立ったようだ。そして「日本全国、支配者は一人、王命の他に権威は不要」と冒頭で高らかに謳う保元新制を定める。荘園や貴族寺社を規制し、かつその規制権を天皇に任せるこの制度は、その後の後白河院政において(信西が倒れた後も)基本政策となった。美福門院は兼ねての約束通り二条天皇の即位を要求するが、信西もこれに応じ、後白河上皇による院政が始まった。


平治の乱編集

後白河上皇は政治については概ね信西に任せていたが、一方で藤原信頼に「あさましきほどの御寵愛なり(『愚管抄』)と世間に呆れられる高官(正三位権中納言)を与えた。信頼はさらに近衛大将への任用を望み、これを信西に却下されて恨んだというが異説もある(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。信西は玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛して国を滅ぼした故事を描いた長恨歌絵巻を献上して、上皇の過度な信頼寵愛を諌めたという(『玉葉』)。また信西は、新制の実施に当たって息子たちを要職(俊憲を従三位参議、成範を正四位下播磨守など)に送り込み、これによって院近臣や天皇側近にも不満が生じていたとも言われる。


理由はともあれ、検非違使別当兼右衛門督として軍権を握り、関東東北の武士にも影響力を発揮していた信頼は、源義朝源光保源頼政といった源氏の武将を引き連れてクーデター(平治の乱)を起こした。恐らく院政下で冷遇されていたであろう二条天皇の側近藤原経宗藤原惟方らもこれに加わる。院側近では源師仲藤原成親もクーデター側に加わっている。源氏に匹敵する平家武士の棟梁平清盛が熊野詣に行った隙を狙い、決起した兵は院御所三条東殿を襲い、信西の諌言も空しく後白河上皇は姉の上西門院と共に内裏の一本御書所(稀覯本の保管・書写室)に幽閉されてしまった。信頼はまた、二条天皇を擁して天皇の名で人事や処罰を開始した(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。


信西は御所を逃れていたが、『平治物語』によれば信頼派の武士たちは信西が隠れ潜んでいることを恐れて主君のはずの後白河院の屋敷に仕えていた使用人や婦女子に至るまでを皆殺しにしたという。信西の妻朝子すら上西門院の裾に隠れて脱出したという有様であった。京都の南、山城国田原荘にて信西は源光保が率いる追手に追いつかれ、穴を掘って隠れていたところを殺されたとも、地の底にて自害したともいう。信頼派からは恨まれていたようで、その首は獄門に梟首されたらしい(『平治物語絵巻』)。信西の息子たちは皆流罪にされて失脚した。


乱の後編集

こうして信西は死に、その後の平清盛との戦いによって信頼や義朝も倒れ、乱の後は経宗、惟方率いる二条天皇親政派が天下を掌握する。彼らは後白河上皇を徹底的に政治から締め出すべく、上皇が屋敷にて民衆を眺めている時に桟敷へと板を打ち付けて封鎖してしまったという。あまりの仕打ちに耐えかねた上皇は清盛に命じて経宗と惟方を捕えて拷問にかけ、流罪とした。信西の息子が帰郷したのはこの二条天皇親政派失脚の後である。後白河上皇は以後信西の残した新制によって院政を進めていった。信西を殺した光保は謀反を起こしたとして薩摩国に流され、信西殺害の責を問われて誅殺されたという(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。また妻朝子との間に生まれた三男藤原成範は、政治を離れて歌人として活躍し、『唐物語』という説話集の作者ともいわれ、父の為せなかった学者の道を進んでいったようだ。


白拍子舞の創始者編集

『徒然草』によると、白拍子の舞を創始したのは信西らしい。興味深い舞について幾つか選んで磯の禅師という女性に教え、白の水干に腰には烏帽子を被るという男装で舞わせた。磯の禅師の後継者であったのは、その娘の静御前であり、彼女によって白拍子の舞が大成されたという(『徒然草』225段)。まあ鎌倉時代末期の出典なので伝説かもしれないが、今様オタクな後白河天皇の乳父らしいエピソードである。


関連項目編集

藤原氏 高階氏 平安時代 後白河天皇

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