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藤原成親

ふじわらのなりちか

平安時代の公卿。後白河上皇の側近
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保延4年(1138年)~安元3年7月9日(1177年8月4日)
平安時代公卿平治の乱から平氏政権にかけて活躍した。

生涯

鳥羽法皇の寵臣、藤原家成の息子として、早くから公卿として昇進する。後白河上皇の側近として重用され、『愚管抄』は男色関係にあったと見做している。平治元年に勃発した平治の乱(1160年)では乱の首謀者藤原信頼に連座して解官され(官位を奪われ)ており、妹の婿であった信頼と共謀関係にあったらしい。この時は同じく妹婿であった平重盛(平清盛の嫡男)が助命に奔走している。

その後も生まれたばかりの憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子にしようと画策して二条天皇から解官、尾張国で家臣が延暦寺と問題を起こし(嘉応の強訴)てまたも解官。しかし後白河法皇の信頼は厚く、すぐに復権して正二位権大納言にまで上った。

致命傷となったのは鹿ケ谷の陰謀である。後白河法皇が延暦寺と対立し、平清盛は法皇の命により延暦寺を撃つべく上洛した。しかし成親は突然清盛に逮捕され、延暦寺側が宿敵を捕えてくれて感謝すると清盛に礼を述べる事態となった。『愚管抄』は「成親、西光俊寛等(後白河院の近臣)が集まって密議をしていたらしい」とし、『百錬抄』も成親が密謀に加わっていたようだと伝えている。驚いた重盛は命だけは助かるように父・清盛に頼んでみると励ますが、同年7月に成親は備前の国で死んだ(『百錬抄』)。『愚管抄』は食を与えられず餓死したとしている。また『平家物語』は剣を並べた崖の下に突き落とされたのだ、としている。

『愚管抄』は「フヤウノ若殿上人ニテ有ケル(故に平治の乱の責を問われなかった)」と評している。芙蓉のごとき美貌の若君という意味である(『朝日日本歴史人物事典』)。もっとも「不要」または「武勇」と解釈することもある(元木泰雄「藤原成親と平氏」)。「芙蓉」と解釈すれば、「平治の乱にはただ巻き込まれただけの美貌の若者であって、首謀者ではないとみなされた」となろうか。「不要」なら「取るに足らない青年公家なので平治の乱の責は免れた」、「武勇」なら「首謀者として断罪するには若く公家ながら武勇を示したことを惜しまれて助命された」と人物像も変わってくる。

関係する人物

藤原家成-父親
藤原経忠の娘-母親
藤原経子-同母とされる
平重盛-義弟、経子の夫
後白河上皇後白河法皇)-主君

NHk大河ドラマ・『平清盛』(演・吉沢悠)

 このドラマにおいて成親は、妹婿である平重盛を甘く見つつも、その後ろ盾となる平家の武力・財力を利用して栄達を目ざす油断のならない人物として描かれている。

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