概要
強訴とは一般に、その寺社(寺と神社のこと)が奉じた神聖な権威(神輿や神木など)を押し立てて僧兵が護衛し、京都に乱入して内裏を包囲したり神木を路上に放置したりして朝廷や幕府に要求受け入れを迫った行為を指す。何かその寺社にとって問題が起こり、朝廷や幕府に対処を求めても穏便に応じられなかった時に寺社が取った強硬策である。平安時代後期から戦国時代末期にかけて行われていた。特に延暦寺は日吉大社の神輿、興福寺は春日大社の神木などを担いで頻繁に京都に押し寄せた。
背景
日本中世の寺社は、朝廷や武家と並び称される権力を持っていたとされる。中世国家は公家政権を中心に武家の幕府と寺社勢力とが相互補完的に運営していたとされ、これを権門体制論と呼ぶ(黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』)。これほどの権力を寺社に与えていた源泉の一つが強訴である。日本で中世が始まったのは武士が中央政界に進出したからであるが、その一因として朝廷が強訴から都を守る武力として武士を重用したという点がある。白河法皇といえば、絶対的な権力をふるった平安時代末期の治天の君であるが、そんな彼ですら「賀茂河の水・双六の賽・山法師」だけはどうにもならなかったと嘆いたという。自然現象である賀茂川の洪水や運次第のサイコロと、延暦寺の僧兵が並び称されているのである。
何故、これほどに寺社の強訴には朝廷も恐れるほどの権威があったのだろうか。延暦寺が奉じた日吉大社は京都の鬼門を守る守護神であり、都人にとって絶大な権威を持っていた。1095年に延暦寺が強訴した時、関白の藤原師通は要求を拒否して源頼治らの武士を送り、武力で僧兵を撃退した。僧兵には死傷者が出たようで、延暦寺は朝廷を呪詛する儀式を行った。4年後、師通は悪瘡で死去したが、これが神罰であると恐れられた。貴族の頂点に立つ関白でも神罰には勝てないと認識されていたわけだ。また、興福寺が奉じた春日大社は藤原氏の氏神であり、その権威に逆らえばたとい摂関家の一員でも藤原氏から追放される(放氏と呼ぶ)恐れがあったという。もちろんそうなれば官位も剥奪である。こうして強訴のたびに朝廷の政治機能は混乱し、強訴への対処にあたった武士が力をつけていくことになった。