戦国時代とは、中央政府が機能せず地方政権同士が権力や所領などをめぐって互いに長らく争いあった時代をいう。
戦国時代という単語が指す対象は主に以下の2つである。
2.日本の戦国時代→本稿で解説。
概要
日本史上、中世から近世に変わる時代に当たる。室町時代後半、若しくは室町後半と安土桃山時代、あるいは江戸時代初め頃までを指す。室町幕府の力が衰退し、戦国大名達が相争った時代である。
良く誤解されているが日本の戦国時代は、国が分裂して各地に皇帝が出現して互いに争った中国大陸の春秋戦国時代とは異なる。日本の戦国時代においては京都に天皇と朝廷と室町幕府があって、その定めた暦や官位等は全国共通のものが使われていた。また、大名相続や争いを将軍が上位権者として調停するのも珍しくなく、即ち国が分裂していたというと語弊がある。ただし、実態として諸国の統治は将軍や天皇の命令によらず、大名達が自らの判断で統治し法律も自ら定めていた(分国法)。当時の宣教師達も「日本は各地に王がいる国であり、その上に皇帝(将軍)がいる」と記録している。
この様に書くと、戦国時代とは大名が主役であって家臣や領民達を率いて互いに争った時代と単純化出来てしまう。しかしそれは実像ではない。加賀国を支配した一向一揆を代表として、戦国時代は惣国、惣村あるいは自治都市といった、国人や村落・都市住人らによる一揆と自治共同体の時代でもあった(池上裕子『戦国の群像』pp.13)。池上によれば、大名の支配もこの自治共同体の一定の自律性を前提として成り立っていた。大名のみならず、下級武士も農民も商人も自らの力が及ぶ範囲において主権者であった時代といえる。
戦国時代をモチーフとした創作は江戸時代から現代に至るまで数多くされ、いつの時代も人気がある。
時代区分
時代の始まりは応仁の乱勃発(応仁元年・1467年)とされるのが一般的であるが、それより遡って享徳の乱(享徳3年・1454年)から、あるいは時代を下って明応の政変(明応2年・1493年)からとする意見もある。その間約40年の差があるが、それは戦国の世がある事件で突然始まった訳ではないことを示している。さらに、享徳の乱はその38年前の上杉禅秀の乱(応永23年・1416年)からの継続と捉えることも出来、これは京が戦乱に巻き込まれる遥か前から、関東地方において戦国時代が始まっていた、ということを示すものである。
戦国時代終わりはさらに諸説ある。織田信長上洛(永禄11年・1568年)や将軍義昭の追放(天正元年・1573年)、北条氏滅亡(天正18年・1590年)、大坂夏の陣(元和元年・1615年)等である(山田邦明『戦国の活力』pp.18)。これも戦国時代終わりをどう捉えるかによって解釈が変わって来る。信長は、初めて室町幕府に代わって天下を支配しようとした人物であるといわれる(本郷和人「織田信長」『人物を読む 日本中世史』)。織田政権誕生をその上洛や信長による将軍義昭追放と考えれば、確かにそれまでの戦国時代とは異なる時代、即ち安土桃山時代がここで始まっている。しかし、東国でも西国でも、信長の威令が及ばない地域では依然として戦国時代の諸大名の争いが続いていた。豊臣秀吉が小田原攻めで北条氏を滅ぼし、伊達政宗ら東北地方の大名も従えたことは、諸国の大名が秀吉の許しなく勝手に戦争を行えなくなったことを示す。しかし、秀吉の死後には関ヶ原の戦いに代表される大名間の争いが続いたのも事実であり、その争いの勝者として将軍となった徳川家康が最後まで従わなかった豊臣秀頼を滅ぼした大坂夏の陣をもって戦国時代の本当の終わりと呼ぶことも出来よう。
戦国大名発生
旧来の支配体制は力を失い、上下関係も力で覆される「下克上」時代である。各地を治める有力者は「戦国大名」と呼ばれ、領地の統治や他国との興亡を続けた。群雄割拠の中で目指した全国制覇(※五畿七道全制覇ではなく、畿内5ヶ国の覇者となること)を「天下統一」と呼び、それを果たした人物は「天下人」と呼び習わされた。
幕府の権力が衰退したことで守護家臣や土豪などが実力で大名に成り上がることも良くあった。例えば上杉謙信の実家・府中長尾氏は元々越後守護家上杉氏守護代であり、信長の実家・織田弾正忠家に至っては尾張斯波氏の守護代織田大和守家の奉行であった。
下克上時代となったとはいうものの身分に囚われない社会となった訳ではなく、それ以前の時代同様、家柄や身分の権威は重んじられていた。例えば、信長は伊勢平氏(小松家)の平資盛の末裔として平氏を名乗りそれが世間に受入れられていた。徳川家康は今川家から自立した際に、河内源氏3代目棟梁・源義家にあやかり諱を元康から家康に改めたが、祖父・松平清康が義家の4男・義国の子孫である新田氏分家・世良田氏を名乗っていたことなどもあり松平から徳川に改姓している。寧ろ、「大名に俺はなる」といって簡単になれるものではなかった。その地域の守護・守護代・国人といった室町期を通じたもしくは鎌倉期やそれ以前からの領主としての支配が重要であり、現に武士家系ではあったが商人上がりでその様な背景を持たない「美濃の蝮」こと斎藤道三は成り上がり者として六角承禎に酷く罵られている(池上裕子『戦国の群像』pp.28)。寧ろ、役職どころか顔役経験もない一介の庶民が一代で戦国大名となり天下統一まで果たした秀吉が極めて希有過ぎる例外である。
実際には伊達・佐竹・宇都宮・結城・甲斐武田・小笠原・今川・能登畠山・朝倉・尼子・大内・大友・島津のように守護大名から戦国大名へと転身した家が多い。
リストについては戦国大名の項目を参照。
戦国時代における朝廷の実情
朝廷の窮乏は著しかった。公家達も多くが諸国に去り、儀式は次々と費用不足で中止され、即位式や葬儀の予算すらなくなる。後柏原天皇が何とか資金を集めて即位式を挙げたのは即位より22年後であり(『二水記』)、その先代・後土御門天皇に至っては死後43日に渡り遺体が放置され、葬儀が行われなかった(『後法興院記』)程であった。
このため、朝廷や幕府に献金し、見返りに官位や役職を得てさらなる支配力を強化する大名も現れることになる。
この戦略をフル活用した1人が大内義隆で後奈良天皇即位礼に合わせて銭2千貫を朝廷に寄進し、北九州の少弍氏攻略の大義名分を得るために大宰大弐叙任を望んだ。最初は難航したが2年後にようやく叙任され少弐資元を討ち滅ぼした。しかし、家臣や領民負担は大きく不満を溜められ義隆の様に自身の破滅に跳ね返って来ることもある。
戦国時代における農村・都市
下剋上の論理が浸透する最中、地域社会の自治進展は著しかった。農村の百姓達は名主達に指導されて年貢未進を繰返し、困り果てた領主側は幕府に訴えたり自ら農村に居住して年貢を確保するといった対応に追われた(山田邦明『戦国の活力』pp.50)。村で発生した窃盗などの事件は村で処断する様になり、これを「自検断」と呼んで死刑執行権すら村側にあり領主の介入は制限されていた(山田邦明『戦国の活力』pp.64)。なお、この様な農村の指導者は必ずしも純粋な農民ではなかった。大きく分けて国衆(または国人、沙汰人)と呼ばれ、村代表と幕府や有力武家の被官を兼ねた者達と名主・番頭といった上層の百姓からなるが、名主の中から武力を有する侍衆と呼ばれる集団が生まれて他武士の被官として活躍もしている(久留島典子『一揆と戦国大名』pp.83)。このように、当時の農民と武士の違いは流動的であった。
都市も自治が進んで行くが、その様相は農村とかなり異なる。応仁の乱以来の戦乱に悩まされる京都では、町人達が武装して諸国の守護達の侵入を撃退したり放火犯を成敗する等の自検断を行った(池上裕子『戦国の群像』pp.233)。しかし、地方都市は大名の影響力を無視することが出来ない。例えば勘合貿易の拠点として栄えた博多や堺は、それぞれ大内氏や細川氏の勢力を背景にして成立していた(池上裕子『戦国の群像』pp.233)。また、南蛮貿易で栄えた平戸や長崎は松浦隆信や大村純忠といった領主支援で繁栄している(池上裕子『戦国の群像』pp.173)。戦国大名達は楽市令を発していたが、実はそれは座の特権を排する楽座とはいえなかった。即ち、大名達は諸役免除の特権を与えて都市から旧来の領主や座の特権を排したが、それは役銭の徴収を大名が独占するという大名支配と従属下での楽市であったのである(池上裕子『戦国の群像』pp.244)。
また、天文年間(西暦1550年前後)からヨーロッパ人が来訪。各分国同士とで直接、南蛮貿易が始まり、舶来の文物は政治・生活・戦争に影響と変化を与えた。
やがて、信長の楽市楽座による商業発展、秀吉の検地・刀狩りによる税収増と兵農分離はこうした成果を背景とした、秀吉の天下統一によって乱世は終わり、日本は再度統一国家としての体を取り戻すことになる。
戦国の戦
この様な戦国時代の合戦実態とはどのようなものであったか。主に小和田哲男『戦国の合戦』から要約してみよう。
まず兵は力。初期は1,000 - 2,000程の軍勢衝突であったが、後期となると1 - 2万程度、桶狭間の戦いでの今川義元や三方ヶ原の戦いでの武田信玄が2万5千とされ、信長の最大動員数が6万、秀吉の小田原攻めが20万以上となっている。その構成は4分の3から90%が農民であったとされ、兵農未分離の初期では半農半士の土豪、地侍が戦力中心であった。農民達は小作料免除等を報酬に動員され、実戦部隊のみならず、鉈・鍬・縄などを装備した工兵隊や補給を担当する小荷駄隊としても扱われている。この様な農民中心構成から後に兵農分離が進んで行くこととなる。戦いにおける武士の理念は御恩と奉公であり、働きに見合った恩賞がなければ出奔して他主君に仕えるのが当たり前であり、逆に知行を与えられているのに働きが足りない家臣は追放もあり得た。仮に戦死しても、主君にその働きが認められれば子孫が高い恩賞を受けることが可能であり、家臣達は負けと分かった戦いでも勇敢に戦った。戦術としては、それまでの弓矢を主とする戦いから、三間半(約6.3m)にもなる長鑓を装備した足軽が集団で並んで鑓ぶすまを形成し敵進軍を喰い止めるという戦法が一般的となった。後に鉄砲が伝来すると次第に弓矢や鑓に代わって鉄砲が主武装になって行った(小和田哲男『戦国の合戦』)。兵農分離が進んでいないため、農業に差し支える農繁期出陣は避けられることが多い…というのが過去の通説であったが、現在では農繁期にも略奪目的の遠征が多く行われていたことが分かっている。こうした遠征に対抗するため籠城戦が有効で、各地に無数の山城が築かれた(小和田哲男『戦国の城』)。
ところで日本史上最大級の内乱状態となった戦国時代であるが、この時代は決して常に戦争に明け暮れていた訳ではない。合戦が頻発したのは、中央政権たる室町幕府が力を失って京都周辺に影響力を及ぼすだけの小勢力に転落したためであり、それまで幕府管理下にあった各地の地方勢力が放置され力を増し互いに抗争した結果である。同時に戦国大名が領地経営に意を払った結果、地方の経済水準は向上し、人々の生活の質も概ね上がった。京都が廃れ、人材が各地に離散し文化が全国へと波及すると、田舎に都文化が根付くこととなった。この様に戦国時代は必ずしも「戦乱に明け暮れていた悲惨な時代」とはいえないが、かといって平和であった訳では勿論ない。ルイス・フロイスは「日本人は喰うために戦争をしている」と評し、数々の略奪・徴発、さらに人身売買が行われていたことを記している。
時代史
第1部(上杉禅秀の乱 - 享徳の乱)
室町時代の東国は戦乱が絶えない時代であったが、4代将軍・足利義持時代に起こった上杉禅秀の乱は、それ以前の小山氏の乱や伊達政宗の乱と比べ、鎌倉公方ばかりか室町将軍も直接当事者となっている点が異なる。鎌倉公方・足利持氏と関東管領・犬懸上杉氏憲(禅秀)との確執に加え、関東管領を巡る犬懸上杉氏と山内上杉氏対立、持氏と満隆・持仲(持氏の叔父と弟)対立に加え将軍家における義持・義嗣兄弟の対立まで絡みあって起こった大乱であり、最終的に義持の支援を受けた持氏が勝利し禅秀や満隆らは自害、義嗣は討たれた。
その後、持氏は禅秀残党討伐のどさくさに京都奉公衆の領主達を攻撃したため義持と一触即発となりかかったり、禅秀の後任管領の山内上杉憲基や憲実とも対立した。義持死後、将軍が義教になると両者の強権的な性格もあり対立が激化し遂には永享の乱が発生し持氏は自害に追い込まれ1度鎌倉府は滅亡する。ところが結城合戦後、嘉吉の乱が発生。義教が暗殺され彼の恐怖政治で持っていた足利将軍の権力と権威は下落してしまう。この事件が畿内における戦国時代への走りと見る向きもある。
その後、持氏の末子・成氏が鎌倉府を再興するものの、いつもの如く鎌倉公方と関東管領が対立、その果てに成氏が山内上杉憲忠を謀殺。享徳の乱の火蓋が切られた。8代将軍・義政は成氏への対抗策として、異母兄・政知(後の堀越公方)を京都から関東に正式な鎌倉公方として送るなどしたが在地勢力の協力を得られないばかりか堀越側の渋川・犬懸上杉と鎌倉方山内上杉・扇谷上杉が対立し義政の思惑は外れてしまい、義政の威信はさらに低下。しかも、この乱が一向に収束せずあちこちに飛び火し、遂には京に燃え移って応仁の乱が始まってしまう。ちなみに、享徳の乱が終わったのは乱終結から16年を経た文明14年(1483年)であり、何と28年に渡って戦乱が続いたのである。結局決着が付かず、関東は古河公方と上杉氏分割統治という形に収まってしまった。最早戦闘が常態となった様は、まさに「戦国」出現であった。この3年後、太田道灌が謀殺。翌長享元年(1487年)には山内上杉家・越後上杉家と扇谷上杉家の間で長享の乱が勃発、永正2年(1505年)まで続いた。その4年後の永正6年(1509年)、関東管領・上杉顕定が長尾為景(上杉謙信の父)に討たれ、山内上杉家で家督争いが起こり、古河公方家も足利政氏・高基・義明が3つ巴の抗争を繰広げた「永正の乱」で山内上杉氏と古河公方家は衰退。その後、後北条氏が関東に君臨することとなる。
主立った戦争
上杉禅秀の乱・永享の乱・結城合戦・嘉吉の乱・享徳の乱・応仁の乱・長尾景春の乱・長享の乱・長森原の戦い・永正の乱・竹林の戦い
第2部(応仁の乱)
応仁元年(1467年)、室町幕府8代将軍・義政の時、足利将軍家次期将軍争い・畠山家後継問題・細川勝元と山名宗全・斯波家の軍事衝突などが絡み合い、天下を二分する応仁の乱が勃発し、この争いによって箍が外れ争いの連鎖が全国に広がった。それまでにも戦は多くあったが室町幕府は寧ろ跡目争いを主とした内訌を煽り立て、この戦争に介入することで「みかじめ料」を得て政権を運営、安定化していたため、地元の本拠地、京で戦が起きては商売とならない所かマイナスしか生まない惨状となる。10年の戦乱によって「花の都」とうたわれた京都は荒れ果て、多くの文化人や僧侶が各地へと散逸した。守護大名達は続々と領国に帰国して一族との相続争いや国内反乱対処に追われることになる。将軍が畿内を抑えるのにも苦労していると見て取った守護達は将軍の命令を無視し、京都に税収入(段銭)も届けなくなってしまう程、将軍と幕府の威信は急落することになった。
主立った戦争
応仁の乱
主立った一揆
第3部(明応の政変 - 永正の錯乱)
応仁の乱は長引いた末、京は荒れ幕府権力は混乱。おまけに9代将軍・義尚が鈎の陣で陣没したことも混乱に拍車を掛けた。その中で応仁の乱の一方の主役であった勝元の嫡子・細川政元は「半将軍」とまで呼ばれる権威を手にし、明応2年(1494年)に10代将軍・義材を追放、幕府内の実権を握る。この明応の政変は奉公衆解体とそれによる将軍権力失墜と捉えることが出来る。それまでの将軍はいかに遠国では戦乱が起ころうとも奉公衆という強大な軍事力を有する畿内主権者であったが、この事件によって軍事力を失って細川家とその家臣達の傀儡に落ちてしまった。かくして中央権力を喪失した日本は、歯止めの効かない戦乱の時代へ突入していく。
足利義澄を11代将軍に擁立して幕府を牛耳っていた政元だが若年時から修験道に傾倒する余り女人を遠ざけ実子がなく、後継に摂関家の九条家から九条澄之を養子に迎え入れるが、後に心変わりし澄之を養子に迎えたその翌年、今度は分家・阿波細川家から細川澄元を養子に迎え入れ澄之を廃嫡し、後継と定める。家督相続権を奪われた澄之派と澄元派の対立は激化。加えて軍事面で信頼を得た澄元の補佐役・三好之長(三好長慶の曾祖父)が細川京兆家の実権を握ると、この人事に憤った古参の家臣団が澄元・澄之に加えて野州細川家から養子に迎えていた細川高国とにそれぞれ荷担し3つ巴となって激しい内乱が勃発し結果、政元は澄之派に暗殺されてしまった。ここに「永正の錯乱」が勃発する。
主立った戦争や政変
第4部(両細川の乱 - 大物崩れ)
政元を暗殺した澄之は澄元と高国が討ったが今度は澄元と高国が細川京兆家の家督を巡って対立した(両細川の乱)。当然、幕府も大混乱に陥りこの間隙を縫って周防の大内義興が永正5年(西暦1508年)、前将軍である足利義尹(旧名義材、後に義稙)と高国を擁して上洛した。その後、義尹と義澄派は将軍職を巡って抗争を続けていたが、永正8年(1511年)8月の船岡山の戦い直前に義澄が薨去してしまう。さらにこの戦いにも義尹派が勝利したため、義尹が将軍職に復帰した。
義尹は澄元を排し、管領となった高国や管領代・義興らと共に幕政を進め約10年間、安定化させる。しかし、義興は自身の在京中に台頭した出雲の尼子経久を抑えるために帰国した。かなり後年の話となるが大内氏はその後、義興の嫡男・大内義隆の晩年に凋落。第一次月山富田城の戦いで尼子晴久に敗れ、最後は配下の陶晴賢に攻められ自害に追込まれた(大寧寺の変)。その後、晴賢も厳島の戦いで毛利元就に惨敗して自害、元就が大内旧領を平定し戦国中国の雄となった。
義興という後ろ盾を失った高国と義稙は澄元は執事・三好長秀やその父・之長の後援を得た澄元に逆襲される。後に高国と不和となり戦うが敗れて阿波に逃れ、義稙は阿波で薨去した。高国は再上洛を果たし長秀と之長は死に追いやられてしまう。義稙の後釜の将軍として播磨の浦上氏の下にいた足利義晴を呼び寄せて12代将軍に着任させるがその六年後、義稙の養子になっていた足利義維(堺公方)と澄元の嫡子・細川晴元、並びに三好元長(長秀の子、長慶の父)らが堺に上陸、将軍・義晴と管領・高国は近江に逃れ、京には誰も居なくなったのである。
享禄4年(1531年)、高国は浦上村宗の支援を得て摂津大物(「だいもつ」と読む、兵庫県尼崎市)で晴元・元長と戦うがの赤松政祐(晴政)寝返りにより惨敗し、最後は自害した(大物崩れ)。
主立った戦争や政変
第5部(13代将軍義輝誕生 - 永禄の変)
大物崩れ後、堺公方も内部分裂し三好元長は敗死。義晴は義輝に将軍位を譲って義輝が13代将軍となり、高国の後継者である細川氏綱と組んで晴元と対立するが最終的に両者は和解する。
だが、今度は晴元と亡き元長の嫡子・三好長慶が遺恨ある叔父・宗三(政長)の処分を巡って対立し宗三を江口の戦いで討ち滅ぼした。そして、長慶は氏綱と組んで入京し、義晴・義輝・晴元は近江に逐われ義晴は其処で薨去する事になる。一方、義輝は長慶と和解し京へと復帰、晴元は見捨てられ氏綱が最後の管領(阿波細川家)となったが間もなく死んだ。
こうして義輝の元で長慶は安定した政権を生み出し事実上の天下人とも呼ばれた。ただし、天下人の要点は「京を含めた畿内を掌握し安定化させること」であるため、前述の大内義興に長慶は短期的ながらもこの天下人の要素を満たす事になるし、実際に世間もそう受け取っていた(日本全土を完全掌握する必要はなく、地方で戦乱が起きていてもある程度は構わないのである)。
しかし、長慶は嫡男・義興が早世したことをきっかけに気力を失い。永禄7年(1564年)に逝去。その結果、三好家の勢力は凋落し再び畿内は戦乱に呑まれた。永禄10年(1567年)には松永久秀の長男・久通と三好三人衆が義輝を暗殺し次の将軍に義維の次男・義栄を擁立した(永禄の変)。長慶の後を継いだ養嗣子・三好義継(長慶の弟・十河一存の子)は凡庸であったため、三好氏重臣である三好3人衆と久秀に実権が移る。が、久秀と三人衆は政権の運営方針で齟齬を来たし久秀は大和に撤退、3人衆と争う様になり、松永軍は東大寺大仏殿に籠もった三人衆の軍勢に攻勢をかけ大仏殿は炎上、久秀は三好家を乗っ取り、将軍を殺し、東大寺大仏殿を焼討ちした大悪人として伝説的な悪名を残すこととなった(ただし、大仏殿延焼は三好陣営による失火が原因とされている)。三好政権が短命で終わり、その受皿が用意されず畿内は再度不安定な政情へと変貌したこともあり、「ある人物」が中央政界へと乗出す契機が生まれることとなる。
主立った戦争や政変
森山崩れ(守山崩れ)・天文の乱(洞の乱)、河越城の戦い(河越夜合戦)、上田原の戦い・二階崩れの変・大寧寺の変、川中島の戦い、厳島の戦い、永禄の変
主立った一揆
第6部(信長上洛戦~本能寺の変)
話は永禄3年(1560年)まで遡る。当時27歳の織田信長は尾張へと侵攻してきた今川義元を桶狭間の戦いで討取り一気に名を轟かしその後、美濃を奪取した。永禄11年(1568年)、渡りに船とばかりに越前から尾張へと下向して来た義昭を室町幕府第15代将軍に就任させるべく上洛。六角氏などを撃ち破り上洛した。三好3人衆軍勢は敗れて四散し、松永久秀は早々に降伏し大和一国を安堵された。三好3人衆に擁立され続けた14代将軍・義栄は1度も京に入ることが出来ず、信長に擁立された義昭が第15代将軍として入京するのを尻目に病没。こうして信長は大内義興・三好長慶に続いて「将軍を擁して上洛した3人目の人物」となった。しかし上洛当初、京の人間は大内・三好若しくは以前の源義仲と同じとなるであろうと冷めた視線で見ていた。しかし信長は安定した政治が行い、美濃尾張に近畿を勢力下に置き、全国の武将達に先んじて天下統一に王手を掛けた。
自領守備と勢力周辺拡大に固執して(というか、それが精一杯で)、天下統一と全国への勢力拡大に興味を抱かなかった一般的な大名と比べて、日本列島全土の視野での勢力拡大と統一、運営手法などを一早く確立した高い政治能力が信長を飛躍せしめたといわれる。加えて尾張の織田軍は農家の次男・3男といった人々を軍事専門職として遇し、人員や兵站も現地調達という名の略奪に頼ることなく本国から持ち寄り、人買い人売りもせずキチンと人足にも賃金を払い金払いが良かったことから、苛政が行われていた、あるいは長く紛争地帯に置かれていた住民には寧ろ侵攻を歓迎される方向にあった(この路線は秀吉にも受継がれる)。
しかし、次第に義昭と信長は国家運営指針から対立し(特に志賀の陣で和睦を要請しておきながら翌年、その比叡山を焼き討ちした信長の行為は義昭の面目を丸潰れにした)、どうしても国家采配をみずからの手で振るいたがる将軍・義昭は信長から離反、各地の武将達に呼び掛けて形成した信長包囲網で対抗して一時は信長を窮地に立たせるも失敗し、天正元年(1573年)、逆に追放され幕府は滅亡。備後の鞆(福山市)に鞆幕府を樹立するが、最早再起はならず、足利将軍家は彼を最後に終焉を迎える。
志賀の陣で弟・信治と忠臣・森可成を失ったこともあり、怒り心頭の信長は敵対的な行動に終始した比叡山延暦寺を焼き討ちした。ただし、比叡山は既に義教と政元に1度ずつ焼き討ちされている。刀根坂の戦いで義父・斎藤道三の孫・龍興を討ち、その勢いのまま越前に突入、朝倉義景を滅ぼした。取って返し小谷城の戦いで北近江にいる娘婿・浅井長政とその父・久政も滅ぼし、さらに長篠の戦いでは武田軍を撃破した。3度の信長包囲網を打破し甲州征伐では武田勝頼・信勝父子が滅ぼされ、上杉景勝と毛利輝元も織田家の前に苦境へと追込まれる。山陽の宇喜多は降り、奥羽の伊達・蘆名、関東の北条・四国の長宗我部・九州の大友といった諸勢力も織田家に恭順の意を示し天下統一に邁進する信長でありが、天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が「本能寺の変」を起こし、志半ばにして嫡男・織田信忠と共に倒れた。
主立った戦争や政変
桶狭間の戦い・義信事件・駿河侵攻・三増峠の戦い・本國寺の変(六条合戦)・姉川の戦い・比叡山焼き討ち・刀根坂の戦い・小谷城の戦い・三方ヶ原の戦い・石山合戦・志賀の陣・第一次紀州征伐・高天神城の戦い・長篠の戦い・七尾城の戦い・手取川の戦い・御館の乱・三木合戦(三木の干殺し)・鳥取城の戦い(鳥取の飢え殺し)、甲州征伐(武田崩れ)・魚津城の戦い・備中高松城の戦い(高松城の水攻め)・本能寺の変
・主立った一揆
第7部(山崎の戦い - 元和偃武)
信長父子が倒れた際、毛利攻めをしていた織田家中国方面軍司令官・羽柴秀吉は急ぎ戻り、光秀を山崎の戦いで倒し、主君の仇を取ると、さらに織田家家督相続などで対立した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒して織田家主導権を握り、小牧・長久手の戦いから続く一連の圧力で家康、信長の次男・信雄も屈服させ、第二次紀州征伐・四国征伐・九州征伐・小田原攻め(北条征伐)で紀伊や九州・四国・関東も平定、全国に惣無事令を敷くことによって遂に天下統一を完遂した。
同時に秀吉は「関白」の位に就き、伏見を拠点に全国で検地(太閤検地)・刀狩りを実施し、国内一元支配を盤石なものとした。
その後、秀吉の「奥州仕置」に反発し、東北では葛西大崎一揆や九戸政実の乱が発生するがいずれも徹底的に鎮圧している。その後、秀吉は明征服を目指して朝鮮半島侵攻を開始。2度の出兵(文禄の役・慶長の役)で日本・李氏朝鮮・明のいずれにも数十万人の死者を出す凄惨な結果となった。最終的には秀吉の死により、日本史上稀な対外征服の試みは頓挫した。
慶長5年(1600年)、秀吉の次男・秀頼の後見人争いとして徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を担ぎ上げた石田三成や宇喜多秀家らの西軍による天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発し、東軍が勝利。
慶長8年(西暦1603年)、家康は朝廷より「征夷大将軍」に任じられ、江戸を中心とする江戸幕府を開いた。慶長10年(1605年)には家康は駿府に移って大御所となると、早々に秀忠に将軍職を譲り、徳川家による征夷大将軍職の継承と実権は既に幕府にあることを天下に知らしめることとなった。
慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年)に家康・秀忠父子は大坂の陣(冬・夏の陣)で大坂城に籠城した淀殿・秀頼親子を自刃に追込み、豊臣家を滅ぼして中央権力を握った。元和偃武の宣言である。
こうして、大規模な争いが続いた戦国乱世は完全に終結。「天下統一」を目指した時代は江戸幕府による「天下泰平」時代に移行する。
そして島原の乱を最後に(由比正雪の変もあったが)幕末に黒船が来航するまで200年以上泰平の時代が続くこととなる。
主立った戦争
山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・天正壬午の乱・神流川の戦い・第一次上田合戦・小牧・長久手の戦い・第二次紀州征伐・四国征伐・九州征伐・小田原征伐(小田原攻め)・九戸政実の乱・文禄の役・慶長の役・関ヶ原の戦い・第二次上田合戦・大坂冬の陣・大坂夏の陣
主立った一揆
戦国時代を舞台とした作品
詳細は→戦国時代作品の一覧
ライバルの子供や子孫達は夫婦というケース
戦国武将で、ライバル同士といわれる人物達の(実の若しくは義理の)子供達や子孫達が結婚若しくは婚約しているケースが沢山ある。
結婚例として、
- 上杉謙信の甥且つ養子・景勝と武田信玄の6女・菊姫
- 織田信長の長男・信忠と武田信玄の5女・松姫(婚約のみ)
- 武田信玄の4男・勝頼と織田信長の姪且つ養女・龍勝院
- 北条氏康の次男・氏政と武田信玄の長女・黄梅院
- 武田信玄の4男・武田勝頼と北条氏康の六女・桂林院
- 徳川家康の3男・秀忠と浅井長政の3女・お江
- 徳川秀忠の長男・家光と石田三成の曾孫娘・自証院
- 池田恒興の次男・輝政と徳川家康の次女・督姫
- 中川清秀の次男・秀成と佐久間盛政の娘・虎姫
- 足利義明の孫・国朝と義氏の長女・氏姫
- 毛利元就の次男・吉川元春と熊谷元直の孫娘・新庄局
関連タグ
センゴクバスラ:『魔進戦隊キラメイジャー』に登場する、戦国時代をモチーフにした邪面獣。