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足利義明

あしかがよしあき

初代にして最後の小弓公方。蛮勇公家ぶりで一部では根強い人気がある。
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古河公方足利政氏の次男。小弓公方系喜連川足利氏の実質的な祖。生年は1487年とされるがはっきりしていない。


古河公方家の第三勢力編集

最初は鶴岡八幡宮若宮別当を務め雪下殿空然(こうねん)と称した。空然の父・政氏と兄・高基は折り合いが悪く何度も争った。1510年、越後・長森原で上杉顕定長尾為景上杉謙信の父)に敗死し、山内上杉家で顕実(政氏の実弟)と憲房(憲政の父)による家督争いが勃発。これに政氏が顕実を、高基が憲房を支持しまたも争いになった。この頃に下野に移っていた空然改め宗斎は突然還俗して義明と名乗り太田荘で蜂起し小山城にて自立し父と兄双方に謀反を起こす。このため古河公方家は一時期古河城の政氏、関宿城の高基、小山城の義明と三勢力が鼎立することになった。


元々父とも兄とも折り合いが悪かった義明はどちらとも対立したが、高基が政氏から古河公方の地位を奪い政氏を隠居に追い込んでからは高基とさらに対立を深めていった。


小弓公方、爆誕編集

1518年、上総・真里谷城主の真里谷恕鑑の支援のもと下総・小弓城を襲撃して原一族を破り小弓城を奪取。なお原虎胤はこの敗戦で父・友胤と共に甲斐の武田信虎の元に逃れ、のち「甲陽四名臣」の一人として名を馳せた。


そして古河公方に対抗して新たに小弓公方と名乗り打倒・古河公方と関東の覇者への野望のため、兄・高基や甥・晴氏と骨肉の戦いを繰り広げることになる。


なお、義明を用いて掌握しようと画策し、義明の小弓入城を実現させたのは恕鑑の策略かと思われる。一方の義明側でも、古河公方と対抗する理由から、この恕鑑の誘いに乗ったと思われる。


ちなみに真里谷家は甲斐武田氏の分流で上総武田氏とも言われ武田姓で表記されることもある。


小弓公方、滅亡編集

その後、上杉憲房死後における山内上杉家の家督争いにも参戦し甥・上杉憲寛(足利晴直)を支援し高基や晴氏と三つ巴の対立を繰り広げ存在感を示す。しかし憲寛は甥・晴氏の支援を受けた上杉憲政に家督を奪われ、真里谷信政(恕鑑の子)を頼り義明領の上総国宮原に逃れた。


また1530年代になると頼みの真里谷家と里見家に家督争いが発生した事により地盤が弱体化。


この様な状況で1538年に大軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と甥の足利晴氏と決戦を行った。(第1次国府台合戦)


しかし参戦したのは弟・基頼、子・義純らの一族集団とその直臣団を戦闘の中核に据えざるをえず、また自ら大将として個人的力量を最大限発揮せざるを得ない事だった。


参戦した有力な大名も家督争いを勝ち抜いて里見家当主の座に就いた里見義堯のみであった。


しかしこの状況の中でも義明本人は武勇に優れ、自ら陣頭指揮をとる奮戦ぶりで、当初は優勢を維持し、場合によっては勝てる状況だった。


だが、里見義堯は戦いに反発して軍を進めなかった。これが原因で軍の士気は上がらずに形勢逆転される。


それでも小弓公方軍5000は義明の「足利の一族である私に弓を引ける者がいる筈がない」という理由によって突撃を敢行したという。

まさに当時の公家としては異例の蛮勇といえる。


その中で基頼や義純が討ち死にし、この報を耳にした義明は激高して北条軍に突撃するが戦死し戦は北条氏・古河公方連合軍の勝利に終わった。


小弓公方滅亡後~喜連川藩~現在編集

小弓公方は義明一代限りで滅亡したが、義明の次男・頼純は里見家の保護を受け、長女の青岳院は出家していたがのち里見義堯の長男・義弘に請われ還俗して義弘の正室になった。義明戦死から52年後の1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に秀吉の元に参陣し父の仇である小田原北条氏の最後を見届けた。

のち頼純の長男・国朝が秀吉の命で足利氏姫(晴氏の子・義氏の娘)を娶り、国朝が朝鮮出兵の途上で没してからは弟の頼氏が継ぎ下野喜連川藩(現在の栃木県さくら市)の初代となった。喜連川藩は格式10万石の交代寄合を務めた。喜連川藩自体は途中で義明の男系子孫が絶え晴直の子孫が入ったがこちらも絶え最終的には徳川斉昭の系統になっている。明治維新後、喜連川から足利に復姓し華族に列せられた。また足利晴直は義明滅亡後も上総国宮原に居住した。晴直の孫・義照は秀吉により関東に移封された徳川家康に見出され宮原から下野足利郡に移り宮原姓を名乗った。義照の後を継いだ弟の義久は徳川家の高家旗本となり武田勝頼の娘・貞(母は織田信秀の娘・龍勝院)と結婚した。宮原氏は家康の命で当主・嫡子のみ宮原姓を称し庶子は武田氏支流の穴山姓を称することになった。しかし、宮原氏も穴山氏も喜連川氏同様直系の子孫は絶えている。


令和の現在では実質的には14代将軍・足利義栄(平島公方)の系統が唯一足利尊氏足利義詮の血脈を今日に伝えている。


フィクションにおける足利義明編集

ゲーム編集

覇王伝PKから初登場。天翔記ではなぜか甥で宿敵の一人である晴氏に仕えていたが、再登場の嵐世記以降はちゃんと独立して安房一国の大名として登場したが、続編の蒼天録ではデフレのためか能力が弱体化している。


その後、長らく登場せずだったが創造PKにて義明は再び再登場を果たした。が、実際は…。当主の義明を除いて誰1人もいないという、まさに超上級者向けの大名となっている。戦国立志伝では救済処置として佐野弘綱が再登場したが、それでも超上級者向けな事に変わりは無い。全体的に能力は並以下な反面、義理は極めて低く野望はかなり高いという有り様で当主としても家臣としても使い勝手に困るタイプになっている。


余談編集

  • 義明死後に小弓の地名は生実と改められ(読みは同じ「おゆみ」)、小弓城は南生実城と呼ばれるようになった。
  • 室町幕府15代将軍・足利義昭と名前の読みが同じことをネタにされたりする。
  • しかし、彼の蛮勇ぶりは、一部の千葉市民および県民の間では未だに根強い人気がある。

関連タグ編集

北条氏康 里見義堯

足利茶々丸…2代堀越公方。義明同様、実力で公方に就任した野心家で父や兄弟との仲の悪さ、後北条氏に滅ぼされたなど共通点が多い。

黄皓中国三国時代蜀漢宦官。「信長の野望」と同じコーエーテクモの「三國志」に登場。義明同様、低能力の反面、極めて低い義理と高い野望を誇る野心家。ただし能力値は底辺レベルであり義明とも比べ物にならない。

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