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概要

柴崎和泉守(しばさき いずみのかみ)

家紋は「丸に沢瀉(おもだか)紋」

(藤の家紋という説もあるが、柴崎家ゆかりの寺にある墓石には「丸に沢瀉紋」が使われている)


「忍城の戦い」も書かれている行田市で編纂された「行田市譚」には、

柴崎和泉守敦英と名前が記されている。

また、成田家家臣団を記した天正16年に作成された「成田分限帳」龍淵寺本では、

柴崎和泉守の名はなく柴崎丹後の名がある。

分限帳は人名に誤字が多いので、おそらく同一人物でよいと思われる。

同じく天正18年作成の「成田分限帳」長久寺本では、柴崎和泉守の名が記されている。


人物

天正18年6月に起こった忍城の戦いで活躍。

忍城の八つある口(城への出入り口)のうち、

長野口の出張り(でばり)の主将となり三田加賀守・吉田和泉守以下200人で守る。


以下は「行田市譚」からの抜粋。

豊臣秀吉による小田原征伐の一環で、石田三成らが上州・館林城を攻略。

次は忍城に向かうという情報がもたらされた際、城内で軍議が開かれる。

柴崎和泉守は利根川のふちに陣を敷き、そこで石田三成らに降伏をすると見せかけ

油断をしたところで攻勢に転ずればよいと主張。

酒巻靱負も同じく利根川のふちに本陣を構えるが、

大将に成田長親を立て軍勢を各所に配する。

利根川を前に防戦すれば、石田軍は容易に大河を渡れないだろうから

数日のうちに小田原の情勢も分かるので、またその時に計略を練ればよいと主張。

正木丹波守利英は利根川で防戦中は味方は手薄になるので、

敵が後ろに回り城を攻めたら難儀をするであろうと憂慮。

家臣たちの意見はなかなかまとまらなかったが、最終的には氏長の妻の判断で籠城と決する。


天正18年6月7日、城は石田三成軍に包囲され、11日には総攻撃を受ける。

長野口出張りは大谷吉継軍約700名の攻撃を受ける。

柴崎和泉守らは長野口を守り切るが、城方の討死者は20数名、手負い30数名にのぼったという。


大谷軍に岩槻(付)城(埼玉県さいたま市)を攻略した浅野長吉(長政)軍が加わり、

27日にも攻撃を受ける。

寄せ手からの入れ替わり立ち替わりの攻撃に、ついに長野口を引き払い大手口に退却して防ぐ。

圧倒的な寄せ手の武力に鐘をたたいて知らせる。

合図を聞いた遊軍が向かおうとするも、酒巻靱負ら遊軍の大半は下忍口の加勢に出陣していたので、

残りの少数の遊軍が駆け付ける。

このときの「大手口危うし」の報に、城代・成田長親が向かおうとするも

甲斐姫に押しとどめられ、代わりに姫が出陣をしている。

ちなみに甲斐姫はこの後、持田口が危機に陥った際にも手勢を連れ出陣。武功をあげる。


天正18年(1590年)7月5日、本城である小田原城が開城。

11日後の7月16日に忍城も開城したとされる(開城の日付は諸説ある)。


忍城戦後、柴崎和泉守は土着し土地の名主となる。

今も子孫が行田市に居住しているとのことである。


関連項目

関東勢 のぼうの城

正木丹波守利英 酒巻靱負 甲斐姫



参考文献

  行田市史 上巻2

  行田市史 資料編(古代・中世)

  行田市譚

  成田記

  成田分限帳

  関八州古戦録「忍城戦記」

  『のぼうの城』にみるリーダー論 (角川書店)

  他

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