小田氏治
おだうじはる
小田政治の子。1534年生まれ。先祖は2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で市原隼人が演じた八田知家。
知家の長男・知重が小田を称したのが小田氏の始まり。
常陸国南部を領し、現在のつくば市にあった小田城を本拠とした。
戦国最強とも言える織田信長とたまたま同じ読みの名字だったこともあり、「戦国最弱」と言われることもある。
小田城は関東平野の中央近くにあり、北西には上杉謙信、北東には佐竹義昭・義重、南西には北条氏康・氏政、そして結城政勝・晴朝と周囲を強大な勢力に取り囲まれていた。そのため戦では何度も負け、9度も小田城を奪われてしまった。特に義重とその客将だった太田資正や真壁氏幹らは天敵だった。
しかし、「9度も奪われた」ということは少なくとも8度は取り返したということでもある。
先祖の知家が築いた小田城は平地にあり鎌倉時代の武士の居館の様相をそのままにしていたため防御が脆弱で、攻められやすく取り返すのも容易だった。
この繰り返しの奪還劇では和議の破棄、夜襲、北条家への友軍要請等々取り返すためなら何だって駆使するアグレッシブさの持ち主でもある。
加えて菅谷氏を初めとする家臣の信頼も厚かったようで、これだけ何度も城を落とされても滅亡まで追いやられることが無く、落とされた後に佐竹家に降っていた家臣も説得をすればすぐ戻ってくるくらいだったらしい。
最後に城を奪われてからは、城を奪った佐竹によって防御機能を備えた砦に改造されてしまい、9度目の奪還は叶わなかった。
しかもこの奪還しようとした時期が豊臣秀吉による小田原征伐の最中で、小田原征伐で北条氏が降伏したため北条方だった氏治は、豊臣方に参陣しなかったことも合わせて罰則として小田城どころか領地全てを失い、大名としての小田家は滅亡した。
大名としては滅亡してしまったが、その後秀吉に謝罪をして許され、結城秀康の客分として石高を与えられたことで家は存続することができている。その約10年後に逝去。何度も負けながらも天寿を全うすることができた稀有な戦国大名である。このためネット上では「常陸の不死鳥」「フェニックス小田」などと言われたりする。