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佐竹義昭

さたけよしあき

佐竹義昭とは佐竹家第17代目当主で義篤の子。父の代で勢力を拡大させた佐竹家を更に強化させ、常陸統一を目指した。(1531年-1565年)
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第17代目相続編集

1531年、佐竹家16代目当主・佐竹義篤の子として誕生。7人兄妹の長兄で、弟に宥賢、崇哲、菊寿丸、佐竹義昌。石塚義慶や大山義景の妻となった2人の妹がいる。幼名:徳寿丸。


1545年、父の義篤が38歳で死去した為に家督を継承して第17代目当主に就任。この頃の佐竹氏は父の代に起こった部垂の乱(義篤とその弟である義元が争った)が鎮圧されてから、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。


しかしその矢先に江戸忠通が反乱を起こした為に、義昭は小田政治と共同してこれを撃破し勝利した。(忠通の反乱が完全に鎮圧されたのは6年後の1551年)


1546年には河越夜戦にて北条氏康に敗れた上杉憲政が会見を求めた。憲政は、当時常陸に勢力を拡大して勢いに乗る義昭に関東管領職と山内上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めた。これは義昭の4代前の当主・義人が山内上杉家出身※だったためともされる。しかし、義昭は「関東管領の職と山内上杉家の名跡を継げるのはありがたい。しかし私は新羅三郎義光の末裔としての佐竹家の誇りがある。」と拒否した。


※佐竹家11代目当主・義盛が逝去した際に後継ぎの男子がおらず、上杉義憲(憲定の次男)が義盛の娘と結婚し佐竹義人と名乗り佐竹家12代目を継承。



常陸統一の前哨編集

1557年には宇都宮広綱が義昭を頼ってきた。義昭は壬生綱雄や芳賀高照の巣窟となった宇都宮城奪還に力を貸し、広綱を見事に宇都宮城に復帰させた。(後には広綱に娘・南呂院を娶らせている。)


翌年には正室の父である岩城重隆が侵攻を開始するが、義昭は小里で岩城軍を破り、重隆の養子・親隆に娘の桂樹院を娶らせる事に成功している。2年後の1560年には結城晴朝を撃破し、更には白河結城家の結城晴綱を攻撃して寺山城を奪取。


1562年には上杉輝虎と同盟を組んで小山城を攻撃し、その翌年には那須資胤と戦って撃破した。そして1564年には政治の子である氏治が侵攻するが、義昭はこれに対抗して輝虎や広綱との共同作戦で氏治を逆に撃破した上に小田領へ逆侵攻。氏治の本城・小田城を奪取して土浦城まで追い詰める事に成功した。


同年には継室の家である大掾家に乗り込み、配下に収めるなど常陸統一への道を進めた。そして小田を倒せば念願の常陸統一を果たせると思われた・・・。


しかし1565年11月25日、義昭は突如として34歳で早世した。義昭の死によって家督は実子・義重が継承した。


架空の佐竹義昭編集

信長の野望編集

主にシリーズの1560年代前期までのシナリオで登場する事が多い。ただし、この時期の佐竹家は強力な武将がいないのが難点。(それでも近隣の宇都宮家や古河足利家よりは難易度には易しい)一部のシナリオでは開始数年で義重が元服するのでバランスよく戦えるので北条家が膨大化する前に領土を拡大するのも手。


義昭本人のステータスは政治面などが高めだが、義重や義篤には劣る。しかしそれでも欠点の無い能力なので使いやすい。


戦国無双編集

武器:刀剣(4まで) 槍(4Emp) 声:高塚正也(2) 宮坂俊蔵(3) 岡本寛志(4) 荒井聡太(4Emp)


佐竹こそ源氏の棟梁ぞ!控えぬか下郎!」(3Empの特殊対峙セリフ)


概要編集

戦国無双2では智将モブグラで登場。戦国無双2Empiresでは子の義重も同じく智将モブグラであったので2代揃って老顔であった。(孫の義宣は師将モブグラで若いとは言い難く、2Empの佐竹一門で比較的まともだったのは東家の佐竹義久の豪将モブグラだけだった。)


流石に3では子共々若返っており、Empでは特殊セリフのある武将の1人としても登場。4でも登場し、4Empでは新たな固有の顔で登場し、また熱血ボイスから猪突ボイスに変更された。

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