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佐竹義篤

さたけよしあつ

佐竹義篤とは佐竹家第16代目当主で佐竹義舜の次男。(1507年-1545年)
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若年継承

1507年、佐竹家第15代目当主・佐竹義舜の次男として誕生。幼名は徳寿丸。

義篤の兄・佐竹永義は庶子であった事で、永義が父・義舜の兄である今宮周義の跡を継いだため、代わって義篤が後継者として任命された。

1517年に父・義舜の死去に伴い10歳で佐竹氏の家督を継いだが、まだ若年であった為に佐竹家を統率するだけの器量に欠けた為に叔父の佐竹義信佐竹政義が後見人となり後援した。

しかし統率に欠けた事は実弟・佐竹義元との対立を生む事となった。

部垂の乱

そして1529年、突如義元は小貫俊通の拠る部垂城を奪って義篤に反旗を翻した。6年後の1535年には、佐竹一族の高久義貞や小場義実も同調して寝返る。更に岩城成隆、江戸忠通が佐竹の領域に侵略し、義篤は危機に晒された。

しかし義篤は伊達稙宗の斡旋で忠通、成隆と和睦。これによって義貞は孤立し、進退窮まった義貞は義篤に降伏して反乱は終結。以後は義元との戦いに総力を挙げていく。

義元との戦いに明け暮れる中で1538年には宇留野一族の宇留野長昌が義元方に属すなど苦戦するが、1540年に部垂城を急襲し、義元を倒して家中統一。この結果、義元に与した兄の永義を初め小場氏や前小屋氏らも支配下に収める事となった。

佐竹家の戦国大名実現

義篤は1539年に那須政資高資父子の分裂抗争に介入し、政資を支援して高資の居城・烏山城を攻撃している。また対外的には白河結城氏や那須氏と戦い勢力を拡大しつつも国内においては江戸氏を従属させるなど常陸北部を統一して佐竹氏の戦国大名化を実現させた。

更に室町幕府奉公衆であった美濃佐竹出身の佐竹基親の下向をきっかけに幕府との関係を修復。1542年に天文の乱が起きると伊達晴宗に味方して岩城重隆・江戸忠通らと連携して参陣し、稙宗方の相馬顕胤と戦いながらも北関東から陸奥国南域にかけて版図の拡大を図るなど活躍した。

しかし1545年5月19日に38歳の若さで急死した。家督は実子・義昭が継いだが、しばらくして江戸氏が反旗を翻すなど再び騒乱が起こっている。

信長の野望

覇王伝のPK版より初登場。(同作のPK版には弟・義里が登場。政治はやや低めだが、統率に関しては孫の義重に次いで高めに設定されている。

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