父との争い
那須政資の長男で弟に那須資胤がいる。高資本人は武勇に優れており、好戦的かつ野心家で激しい気性の人物だったと伝わる。
1539年、大関宗増に擁立されて父と対立。父の政資は宇都宮尚綱や佐竹義篤、小田政治と同盟し、高資は母の実家・岩城家や白河晴綱、結城政勝・小山高朝兄弟と同盟して対抗した。
これにより約5年間に及ぶ戦いになるものの、1544年に和睦して父から当主の座を譲られたとされる。
尚綱を倒す
高資は宇都宮家と戦うべく、大義名分を得ようとしていた。そこで元・宇都宮家臣の芳賀高照を誘引し、宇都宮攻めの大義名分を得る。高照はかつて宇都宮家臣ではあったが、彼の父である芳賀高経が1541年に謀反を起こそうとした矢先に主君・尚綱によって敵討ちされ、その上に高照は弟の高継共々追放されてしまったのだった。
1549年、宇都宮領へ侵攻を開始。その途中で足利晴氏の下知を受けた宇都宮尚綱軍と喜連川五月女坂にて激戦を繰り広げた。
劣勢となった高資は伏兵を設置し、宇都宮軍を混乱に追い込む事に成功。これにより満川忠親、横田五兄弟(綱維、維業、弥業、茂業、業通の5人兄弟)を討ち取る。そして軍勢の混乱を抑えようと前線に出撃した尚綱を家臣・鮎ヶ瀬実光が討ち宇都宮軍を全滅させた。
これにより塩谷郡の一部まで拡張する事に成功し、高照を宇都宮城にて独立した壬生綱房に預けている。
家臣の凶弾に倒れる
だが、宇都宮尚綱を討った事は尚綱の実子・宇都宮広綱から敵と見なされる。またこの頃から大田原資清が支援する弟・資胤を追放して、佐竹義昭の子を養子縁組しようとするなど政略を強めていく。
しかし1551年、芳賀高定の謀略にかかった千本資俊に突如として襲われて死亡した。実子はいなかったため、追放されていた実弟の資胤が帰還して那須家第20代目当主として就任した。