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成田長親

なりたながちか

安土・桃山時代~江戸時代初期の武将。映画化された歴史小説「のぼうの城」の主人公。
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概要

成田泰季(やすすえ)の嫡子。成田氏長(泰季の兄・成田長泰の子)のいとこ。

天文14年(1545年)~慶長17年(1612年)12月4日
後北条氏に仕えた関東関東勢戦国武将。忍城(現在の埼玉県行田市)の戦いの時の城代を務める。
家紋は「丸の内に三つ引き両」。
(「丸に三つ引き両」や「丸に竪三つ引き両」と紹介しているパンフレットや本もある)

人物

妻は一歳ちがいの遠山藤九郎(北条家臣・遠山綱景の子)の娘。
この娘の祖母は泰季の姉妹にあたるため、この娘の実母と長親と氏長はそれぞれいとこの間柄である。
息子は長季(1567年生)、泰家(1574年生)、元由がいたとされる。
長男・長季は氏長に従い小田原に籠城している。

1574年、上杉謙信が支配をしていた羽生城(埼玉県羽生市)を去ったのち、成田家は北条氏より城を預かり、修復ののち長親が(期間は不明だが)城代となっている。
また「成田系図」によると大蔵大輔を名乗っていた。

豊臣秀吉による小田原征伐に伴い、北条傘下で忍城城主だった成田氏長北条氏直氏政の命令により、小田原城に詰めていたため父の成田泰季(やすすえ)が城代となる。
ところが、陣中で泰季が急死したため嫡男の長親が城代となる。

石田三成は天正18年(1590年)6月4日に上州・館林城を攻め落とし 、館林城の投降兵約3000人を加えたおよそ23000人で忍城を攻撃。
一方忍城側は城兵の半数が小田原へ参陣していたため、残りの兵約500人(侍69人・足軽(下級武士)420人)に城下の百姓や僧侶・商人など加えたおよそ3000人で籠城。
籠城策は氏長の妻(名前は伝わっていない)が決めたとも言われている。

忍城戦では、大手行田口の大将であり二の丸に詰めていた。(本丸は氏長の妻とその継子・甲斐姫が詰めていた)

行田口が危うくなった時加勢に向かおうとするも、
甲斐姫に「大将が動いてはならぬ」と押しとどめられ、代わりに甲斐姫が甲冑を身にまとい出陣している。

「成田記」では軍議の席で開城か籠城かで正木丹波守利英柴崎和泉守の意見が割れて、喧嘩になりそうになったところを間に入って仲裁している。
この記述から作家の和田竜氏は長親を「猛将型」ではなく、「調整型」の人間と捉え、小説『のぼうの城』でのキャラクター作りに反映したという。
また忍城戦の大宮口での攻防で、敵に打って出るか門を閉ざして防衛するかで家臣たちの意見が割れ、その結果窮地に陥ったおり、
「家臣の意見が違うのはよくない。軍法の第一は和である。今後心せよ」と
言ったとも伝えられている。

豊臣秀吉の命を受けた石田三成により堤が築かれ、城は水攻めにあう。
「成田系図」では長親が水練上手を放ち石田堤を壊す計画を遂行したと書かれてあるが、
堤が決壊した原因には突貫工事であったため堤が脆弱だった、堤を作る時に集められた農民が意図的に堤に細工をして壊れやすくした、など諸説ある。

天正18年(1590年)7月5日、本城である小田原城が開城。
11日後の7月16日に忍城も開城したとされる(開城の日付は諸説ある)。

開城の際に浅野長吉(「のぼうの城」では長束正家のセリフとなっている)から「一騎につき一駄」という条件が付けられた。
これは侍一騎に対し馬一頭に積める雑具しか持ち出してはならない、ということ。
その条件に、これでは家族を養えないと反発して「我ら餓死より討死を選ぶ者」と
長親は開城を拒否する。
これに驚いた石田三成と長吉は秀吉に報告。
秀吉も「城兵の言うことはもっともである。自由に道具類や財産の持ち出しを許してやれ」と指示。
秀吉の使者がこれを伝えるために忍城に到着する。
ところが長親は「秀吉の使いであるといえども、面会はせぬ」と使者を城へ入れなかった。
驚いた使者は氏長の縁者も小田原から派遣し長親を説得。ようやく長親も城を開けた。

成田氏長と長親は、その後蒲生氏郷お預かりの身となり会津へ。
その後秀吉の側室となった氏長の娘、甲斐姫の尽力により氏長が下野烏山に3万7千石(2万石の説も)を与えられ、それに伴い長親も烏山に移る。
しかしその後、氏長より忍城籠城時に豊臣方への内通が疑われ氏長と不和となる。
長親は出奔。尾張国・大須に行き剃髪し「自永斎」と称する。

忍城開城後、関東を賜った徳川家康の四男・松平忠吉]]が忍城に入る。
忠吉は関ヶ原の戦いで武功を立てたことから、尾張・清須に転封。
その際、仏教に深く帰依していたことから忍領内の寺の住職も同行させた。
清善寺の明嶺(みょうりょう)和尚も同行し、清須の地に同じ名の寺院を建立。
長親は明嶺を頼って尾張に行ったとも言われる。
長親は64歳で死去。子孫は代々尾張徳川家や松平家に仕えたという。

今でも大須の大光院には彼の墓がある。
戒名は「青岩義伯庵主」



注・「成田記」は江戸時代に入ってから書かれた軍記もので、石田三成軍の失態や忍城の兵の活躍を史実よりも大げさに書いてある可能性がある。
これは忍藩が江戸に近い要衝の地にあり、重要な藩となったことからくるもので、書物が徳川幕府の目に触れる可能性があったことによるものと考えられる。

関連項目

関東勢 のぼうの城
正木丹波守利英 酒巻靱負 甲斐姫 柴崎和泉守
成田氏長 成田長忠
野村萬斎…映画で長親を演じた。

参考文献  

 成田分限帳
 成田系図
 成田記
 行田市史 上巻2
 行田市譚
 関八州古戦録「忍城戦記」
 日本城郭大系5
 「忍城合戦の真実」(洋泉社刊)
 『のぼうの城』にみるリーダー論 (角川書店)
 他

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