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長束正家

ながつかまさいえ

長束 正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
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略歴編集

1585年 (24歳)… 羽柴(豊臣)秀吉の奉行衆として仕える。

1587年 (26歳)… 九州攻めでは兵糧方として活躍。

1592年~1597年 (31歳~36歳)… 二度に渡る朝鮮への侵攻でも兵糧方をつとめる。

1595年 (34歳)… 5万石を拝領し、近江国、水口城城主に。

1598年 (37歳)… 五奉行制がしかれると、そのひとりに。豊臣秀吉死没後は、一旦徳川家康に接近。

1600年 (39歳)… 関ヶ原の戦の直前、会津征伐に向かった徳川家康を暗殺しようと企てるが失敗。石田三成と呼応して西軍につく。関ヶ原の戦では、南宮山の毛利軍(毛利秀元吉川広家)の後方に布陣したために参戦できず、近江国に敗走。その後、東軍の池田輝政に水口城を攻められ、城に火をかけ自害。


生涯編集

通称、利兵衛とも新三郎とも言う。

水口盛里の長男として近江国栗太郡長束村(尾張国説もある)で生まれたといわれる。

近江国水口岡山城主。妻は本多忠勝の妹。

熊本藩の侍帳の正家の子孫の項目には正家の父盛里までを水口氏とし、正家以降を長束氏として記録している。


初めは織田信長の重臣であった丹羽長秀に仕えていたが、天正13年(1585年)長秀が亡くなると、その卓越した算盤勘定の才を見込まれて豊臣秀吉に召し抱えられることになった。

その後は大蔵少輔に叙せられ、石田三成大谷吉継らと共に重用され、のちに豊臣政権の五奉行の一人となる。また、石田三成・増田長盛などと共に右筆(行政文章の作成など)も務めていた。

近江・越前では太閤検地の奉行を務める。


秀吉の天下統一に伴う九州攻めでは蔵米の徴収や配分を担当。

天正18年(1590年)、小田原北条攻めでも豊臣方の出城として計画された石垣山一夜城の普請や兵站奉行を務め、20万もの軍勢に滞りなく食料を配分している。

豊臣家の合戦は経済に裏打ちされた合理的なものであったが、それはこの正家を始めとする財政に明るい人物がいたからでもある。


小田原北条攻めの際の支城の戦いでは、家臣家所帯刀・臼杵平四郎・一宮善兵衛・有坂宮内・増田新次郎らが忍城攻めにおいて武功を立てている。

本人も里見氏が秀吉に臣従する際の申し次役を務めて功を立てた。

戦後には家臣であった弟の正隆が秀吉の直参に取り立てられている。

文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。


この間、天正14年(1586年)には本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、天正17年(1589年)には長男・半右衛門助信が誕生している。

翌18年(1590年)正月13日には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなど、徳川家との関係も深かった。

農村支配にも関与しており、文禄3年(1594年)2月には豊臣秀次とも相談の上、中川秀成の豊後入封に際し隣接する蔵入地代官太田一吉に協力を求めて戦乱によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示している。

また、同時期に伏見城の造営にも参画している。

文禄4年(1595年)に近江水口城5万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねる。

慶長2年(1597年)には12万石に加増され、官位も従四位下侍従に昇任した。

領内ではのちに家松山大徳寺となる浄慶寺に保護を加え、この縁故によって後年遺児が同寺に迎えられ三世門跡還誉岌閑となる。


秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加するが、家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられないなど、功を奏さなかった。

さらに息子と家臣が水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀っているとの噂が立ち、甲賀衆篠山景春の通報によって家康は城下を素通りした。


慶長5年(1600年)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する(なお、近年では西軍挙兵を主導していたのは三成ではなく毛利輝元本人、もしくは宇喜多秀家とする説も有力になりつつあり、この場合は正家は擁立する側ではなく、形骸化しつつあった豊臣政権の首脳の一人として擁立される側だった可能性もある)。

開戦当初には山崎家盛に欺かれ、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留することに失敗している。

初め陣代家所帯刀、武者奉行伴五兵衛らを将として伏見城攻めに兵を送り、家臣甲賀衆鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城に導く功をあげた。


関ヶ原の戦いでは西軍に属し、決戦に先立つ慶長5年(1600年)8月には長宗我部盛親とともに伊勢口を固めて伊勢安濃津城の攻略に成功(安濃津城の戦い)。

しかし伊勢方面の戦いでは、少数の敵船団を家康の本隊と誤認して退却する失態も犯している。

この後、弟直吉に水口岡山城の守備を任せて大垣城へと向かった。


9月15日に行われた本戦では毛利秀元吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣し、合戦前には浅野幸長隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため(広家は事前に徳川家康と通じていたとされる)、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。

このとき島津隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われる。


戦場離脱後は水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて敗走、弟玄春が捕らえられ、処刑されている。

正家は松田秀宣の活躍で入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束されるが、城から出たところ欺かれ捕縛された。

このとき重臣嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も入城した池田軍に捕縛されている。

捕えられた正家は弟直吉と共に家臣奥村左馬助の介錯で切腹した。享年39という。

重臣6名も同日、近江日野で切腹させられた。

首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという。

地元古城山の阿迦之宮に霊が祀られる。


創作物上の扱い編集

戦国大戦編集

ボクは忙しいんだから、さっさと終わらせちゃおう!

『戦国大戦』<長束正家>

概要編集

「1590葵 関八州に起つ」より、豊臣家のCとして登場。二つ名は「豊臣五奉行」。

豊臣の財政を一手に担い、また五奉行の中では若い方であるためか、をくわえそろばんで疾走するやんちゃな少年にデザインされている。帽子にはかの有名な君臣豊楽の四字が。

兵種は軽騎馬隊。文官らしく能力は低めの武力と高めの統率力を持ち、特技の伏兵で序盤に弱い豊臣をカバーできる。

固有計略『珠算式滑走術』は移動速度が上がりタッチ突撃ができるようになる計略。さらに計略終了時に日輪ゲージが増加するため、撤退させないように丁寧に扱えば安い士気消費で大きな戦果を得ることができる。

そう、すべてはボクの計算どおりさ!


その他の登場作品編集


史実通り、小田原攻めに随従し、忍城攻略に参加している。しかし本作では、秀吉に重用されていることに有頂天になっており、忍城との開城交渉で高慢な態度に出た結果、成田長親を始めとする忍城方の逆鱗に触れてしまい、三成の読み通り開戦の口火を切ってしまう。さらに合戦では、普段の文官勤務ゆえに戦場慣れしてしておらず、戦術を誤って忍城方に惨敗を喫する醜態を晒してしまった。


関連タグ編集

戦国時代 戦国武将


蕭何前漢勃興の功臣。秀吉は正家の兵站技術を「今蕭何」と準えたという。

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