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概要編集

長宗我部盛親とは四国戦国武将長宗我部元親の子で、四男にあたる。


突然の後継者任命編集

戸次川の戦いにて兄である長宗我部信親(元親の長男)が戦死し、元親が周囲の反対を押し切る形で、まだ12歳であった盛親が後継者に指名され、信親の娘を正室に迎える事になる。烏帽子親は増田長盛で、「盛」は長盛からの偏諱。

その後は、父・元親と共に「小田原攻め」や「朝鮮出兵」に参戦し、「長宗我部元親百箇条」を制定。盛親は、着々と実績を上げていき、後継者任命から数年後には、180cmの長身で勇ましい若者に成長する。

まさに長宗我部家の次期当主に相応しい器になり、元親の死と同時に家督を継ぐことになった盛親であったが(家督継承が当時の豊臣政権に認められていたかどうかは議論あり)、その1年後に起きた天下分け目の激戦である「関ヶ原の戦い」が原因で、盛親のみならず長宗我部家そのものの危機となってしまう事になった。


関ヶ原の戦いにて編集

元々、長宗我部家は徳川家康率いる東軍に参加しようと密使を送っていたが、石田三成率いる西軍に阻まれてしまった結果、東軍への鞍替えが出来ないまま、半ばなし崩し的に西軍として参加する事になる。

関ヶ原の戦い本戦では毛利秀元が布陣した南宮山より後方の栗原山山麓に布陣するも、吉川広家が徳川家康に内応して毛利秀元を連絡、遠望の利かない南宮山山頂に押し込めたまま本戦不参加の戦術的背任を決め込んだ為、更に後方の盛親率いる軍も状況が掴めないまま進軍する事が出来ず、そのまま戦わずして敗軍の将となってしまった。

惨敗の結果で終わってしまった盛親は、改易だけは防ぐべく、懇意のある井伊直政に協力してもらう形で家康との和平交渉を行おうとした。しかし、そのまま日和見の末でならまだ申し開きがあろうモノの、運の悪い事に直政は関ヶ原の戦場で受けた傷が元で死去してしまい、更には父である長宗我部元親が強引に盛親を跡目にしてしまった火種が未だ、燻っていた家中に残っていた為に、紆余曲折の末、兄である津野親忠を殺害してしまうというお家騒動を引き起こしてしまった。

これによって、激怒した家康から全く反省の余地が無いと見なされた盛親は、結局は改易を逃れられなかった挙句、領土である土佐山内一豊に支配されてしまう事になった。

実家の問題を改善出来ていなかった盛親自身にも責任があるとはいえ、気の毒な話である。


※もっとも、「本当は西軍に与するつもりはなかった」というのは多くの西軍大名が戦後に主張したとされることで、どこまで真に受けていいのかは疑わしい。伊勢戦線では長宗我部勢は西軍として積極的に参戦しているし、西軍の戦略構想が後詰め決戦だったとすると、毛利秀元勢や長宗我部勢こそが主力だったはずである。

一方、津野親忠の殺害は長宗我部家中の問題で、徳川幕府の各大名家への支配体制が確立した時代ならともかく、この時代の改易の理由としては無理がある(そもそも、実際に改易の口実とされたのかどうかも明らかではない)。関ヶ原本戦にまで参戦した島津家(参戦の程度については諸説あるが)や当初は西軍として参戦していた鍋島家が所領を安堵されていることと比較すると、同様に遠国の非織豊系大名である長宗我部家の改易という処分はかなり厳しいが、東軍大名に加増する所領が足りなくなったために改易されてしまったのか、徳川家と長宗我部家が同盟関係にあった時期(小牧・長久手の戦いの前後)に長宗我部側に裏切り行為があって家康が不信感を抱いていたのか、逆に徳川側に裏切り行為があって証拠を湮滅したかったのか、さらにさかのぼって元親が本能寺の黒幕にいた(いわゆる四国説自体は近年有力視されている)と家康が思っていて、自らを危機に陥れた長宗我部家が許せなかったのか、そのあたりの経緯は不明。


大阪の陣にて編集

浪人に落ちぶれてしまった盛親は、動向が分からない状態であった(一説では寺子屋を開いていたと言われている。)が、豊臣秀頼によって大阪城に招かれる事になる。


豊臣と徳川の決戦が始まろうとしていた中、盛親は牢人達の中でも破格の厚遇を受けていたとされており、牢人達を纏め上げる大坂牢人五人衆の中でも序列1位となっていた。ただし、五人衆のまとめ役としては、序列2位の毛利勝永の方が担っていたとされている。

戦果を挙げれば土佐を取り戻す事が出来る千歳一隅のチャンスを得た盛親は、迷わず豊臣家側につくが、これが完全に運のツキとなってしまう事になった。


大阪の陣で有力な部隊を任された盛親は、「冬の陣」にて大阪城に築かれた砦である「真田丸」で真田信繁と共に指揮を執り、敵を寄せ付けなかった程の戦果を挙げている。

「夏の陣」では木村重成等と共に八尾・若江方面に出撃し、八尾で緒戦では先鋒を任せた吉田重親隊が壊滅し重親は戦死したが、その勢いに乗って押し寄せる藤堂高虎の軍を堤防で待ち伏せ、巧みな指揮で壊滅寸前に追い込む。

しかし若江で井伊直孝と激突していた重成の軍勢が壊滅し重成も戦死を遂げたため、若江方面から包囲される危険を避ける為に盛親は後退を図るも藤堂勢の逆襲などを受け敗走させられてしまう結果となった。

豊臣家の滅亡が決定的になったのを予想した盛親は、再起を図る為に逃亡したが、京都八幡(現在の京都府八幡市)近くに潜伏していた所を結局は発見され、捕らわれる事になった。


最後編集

捕らわれても盛親は、大坂夏の陣での関東方第一の功は若江で勝った井伊直孝に、大坂方敗北の責は八尾で負けた自分にあり(自分が負けなければ、豊臣側の勝利で終わった!)と、徳川側の勢力の前でも、不遜な態度を全く隠そうとしなかったが、自らが死ぬ事になれば長宗我部家の再興は永遠に叶わないものとなってしまう事も分かっていた盛親は、なんとしても生き延びるべく「出家をするから命だけは見逃してくれ!」と、恥も外聞も捨てる形で助命の嘆願をする。

しかし、盛親の執念深さを見抜いていた家康は、ここで盛親の命を助ければ、必ず戦国時代の終わった世の災いになると判断。関ヶ原、大阪の陣と、2度にも渡って敵対された事もあって、結局盛親の助命は認められず、最後は同じく捕らわれた秀頼の嫡子である豊臣国松と共に、京都の六条河原にて、斬首刑に処せられ、三条河原で晒し首にされた。さらに徳川家と山内家によって、盛親の弟や子息の捜索、粛清又は幽閉が徹底的に行われ、元親筋の長宗我部家は完全に滅亡する事になった。

しかし、元親の弟の親貞筋は存続し、盛親の親戚にあたる親典は、山内時代の土佐であえて身分を明かした上で(下士ではあるが)山内家当主と対話ができる特別な役職を得て、幕末まで代々仕え続けて現在まで血筋を残している。

 


大坂城に入城した盛親は他の牢人衆とは違い、家柄は高く、旧家臣団も多く、また実力主義で我の強い牢人衆達と違い程ほどの主張で控える立場をとり格の違いを見せ付けたとも言う。

また処刑が確定してから死ぬ間際までの盛親は、全てを受け入れる形で最後まで堂々とした姿勢を貫いていたという…。「何故、他の大坂方の武将達のように自決せず、おめおめと捕らえられたのだ?」と問われた際には「生き永らえれば再起できるからだ」と言ってのけたという。

選択を誤ってしまったとはいえ、彼の末路があまりにも哀れである為に悲劇の武将と呼ばれる事になった。



関連タグ編集

大坂牢人五人衆 風雲児たち

戦雲の夢:盛親を主人公とする司馬遼太郎歴史小説

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