概要
出身地:阿波国(徳島県)
生没年:大永2年2月13日(1522年3月10日) - 永禄7年7月4日(1564年8月10日)
官 途:筑前守、修理大夫
室町時代後期~末期にかけて活躍した武将の一人で、畿内・四国東部(阿波・讃岐)を支配していた戦国大名。阿波細川氏重臣で山城下五郡守護代も務めた三好元長を父に持ち、弟に三好義賢(実休)、安宅冬康、十河一存らが、実子に三好義興がいる。
諱である「長慶」は有職読みで「ちょうけい」とも呼ばれ、特に三好氏のお膝元であった徳島のファンを中心に、尊敬と親しみを込めて呼ばれる事もある。
個人的な才覚だけに留まらず、堺の経済力を背景とした莫大な富、先祖以来の阿波との繋がり、優秀な弟たちの支え(※)などをもって、軍事・政治共に多くの功績を残した。この事から「日本の副王」と呼ばれた程の当代随一の有力者として今なお語り継がれており、未だ論争は続いているものの長慶を事実上の「天下人」と見做す見解も存在している。
(※ 阿波三好氏についての軍記である『南海治乱記』によれば、長男・長慶は天下を制する器であり、次男・義賢は国家を謀る謀将、四男・一存は大敵を敗る勇将、三男・冬康は国家を懐く仁将と、末弟の野口冬長を除く兄弟たちを高く評している)
その政権樹立までの流れから、一般には「下剋上の雄」と見做されがちな長慶であるが、一方で室町幕府将軍・足利義輝や直接の主君である細川晴元と長きに亘って争いながらも、両者に対して(様々な情勢もあったとはいえ)執拗な追及・追撃に及ぶ事なく、和睦の道を探り最終的にそれを実現させるに至るなど、良く言えば寛容、悪く言えば柔弱とも取れる姿勢が目立っており、必ずしも前述したような見方が適当とは言い難い。
永禄年間に入って義輝が帰洛した後は、自ら事実上隠居の身となって将軍権威と一定の距離を置きつつ、一方で自身の後継者である義興と義輝との間で新たな関係を構築させ、多年に亘る将軍と三好氏との対立関係の解消にも務めていたと見られている。
朝廷との関係を重んじて度々連歌会や茶会を度々行ない、畿内の文化人とも親密になるなど、先見の明がある豊かな教養人でもあった。この教養人たる面のみ指して、前述したような柔弱さに繋がったと論う者もあったが、これに対して当の長慶は、
「歌連歌 ぬるきものぞと言うものの 梓弓矢も 取りたるもなし」
(意味;歌を詠む自分(長慶)を軟弱だと笑う様な者に限って、軍馬の道はまるで駄目なのだ)
と見事な和歌で反論している。単に連歌に長けていただけでなく、正座などといった行跡についても見事なものがあったとされ、かの細川藤孝(幽斎)らも、長慶の事を尊敬し模範としていたという。
宗教に関しては仏教だけでなく、神道からキリスト教に至るまで、宗派を問わず幅広く自由に信仰する事を認めていた。
特に仏教に関しては父・三好元長の菩提を弔うべく、父の最期の地ともなった堺の顕本寺を始め、大阪湾周辺の法華宗寺院や信徒を庇護する一方、弘治3(1557年)年には自身の尊敬する大徳寺90世・大林宗套を開山として、同じく堺に臨済宗大徳寺派の寺院・龍興山南宗寺を創建。同寺においては後に茶人の武野紹鴎、千利休が修行し、沢庵和尚が住職を務めるなど、堺の町衆文化の発展にも寄与する事となる。大林宗套への帰依は相当深かったようで、「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語り、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたとも伝わっている。
当時日本に伝来しつつあったキリスト教に対する理解も深く、長慶自身がキリシタンとなる事こそなかったものの、畿内における宣教師たちの布教活動を許したのみならず、家臣を始め多くの者達がキリシタンとなる事も認めている。
同時代の他の大名に比べ、三好氏や主家である細川京兆家に関する史料が乏しく研究が余り進んでいなかった事や、江戸中期以降の『常山紀談』などに代表されるような根拠の怪しい逸話、さらには「三英傑」との比較などから、長らく「家臣(松永久秀)の壟断・横暴を許した凡庸な君主」「保守的・柔弱な人物」というイメージで語られる事が多い人物でもあった。
他方で、『朝倉宗滴話記』『甲陽軍鑑』など、江戸初期までに成立した書物においては長慶に対し好意的・礼賛的に言及しているものも少なからずあり、『北条五代記』においては織田信長や豊臣秀吉といった、後の天下人とも並び称される程であった。また近年においても、平成年間の半ば頃より室町末期・戦国期における室町幕府の研究が進むに連れ、昨今では三好氏による畿内支配に対してもより注目が集まりつつある状況となっている。
生涯
三好宗家の没落
長慶の産まれた当時、父である三好元長は、阿波細川氏の当主であった細川六郎(晴元)に重臣として仕え、当時六郎と管領・細川高国の間で繰り広げられていた内紛(両細川の乱)においても、高国を討滅に追いやるなど多大な功績を上げていた。
ところがその高国討滅は、主君・六郎との政治路線の違いまでも浮き彫りにする結果となった。それまで六郎は元長ら阿波勢の庇護の元、「足利義維(室町幕府第10代将軍・足利義稙の養子)を擁した「堺公方府」を公認させ、室町幕府の政権を奪い取る」という方針を掲げており、元長もこれを強く推進する立場にあった。
ところが、高国の死によって細川京兆家の家督と、管領職が空位になった事で、六郎には「敵対していた室町幕府第12代将軍・足利義晴と和睦し、高国に代わって細川京兆家当主になる」という選択肢が新たに生じた。六郎の心が幕府との和睦に傾きつつある中、この堺公方府放棄とも取れる方針転換に反発した元長は、畠山義堯(河内守護)と共に翻心を促すも六郎がこれを容れる事はなく、これまでの戦で元長が築いてきた高い声望と実力を六郎が危険視し出したのもあり、これを機に両者の関係は急速に悪化していく。
元長と六郎の間の対立に付け込む形で、元長を追い落とそうと目論む存在もあった。河内守護代・木沢長政や、三好氏の傍流に当たる三好政長(宗三)はその筆頭とも言える人物であり、彼らの介在によって両者間の溝がさらに深まった結果、享禄5年(1533年)に六郎は一向一揆勢の力を借り、畠山義堯と共に木沢長政の討滅に当たっていた元長を背後から襲撃。元長が予てより法華宗の庇護者であった事も、一向宗による「仏敵」元長の討滅に繋がったものと見られている。
主君に裏切られ、勝利の見えていた戦から一転して堺に追い込まれた元長は、行動を共にしていた足利義維や長慶ら息子たちを逃すと、顕本寺にて壮絶な自害を遂げ、堺公方府もこの煽りを食らって瓦解を迎える事となった。
細川政権下での台頭
父・元長の死後、長慶は母と共に阿波にて逼塞の身にあったが、やがて六郎が利用していた一向一揆勢が制御不能に陥ると、その勢力を抑えるべく長慶に対し一向一揆勢との和睦の斡旋を依頼したとされ、長慶もこれに応じて、叔父である三好康長らの支援の元で両者間の和睦を取り結んでいる。
その後12歳にして元服を果たした長慶は、仇敵の一人である三好政長と戦うなどなおも細川政権に抗し続けていたが、やがて木沢長政の仲介や若年であるとの理由から、翌天文3年(1534年)には六郎改め晴元への帰参を許され、以降は晴元の家臣として一揆軍や細川晴国(細川高国の弟)ら敵対勢力の鎮圧にも当たった。
一方で、三好政長との確執はその後も尾を引いていたようで、天文8年(1539年)にはかつて父・元長が任されていた河内十七箇所の代官職を巡り、当時同職にあった政長と対立、この時は小競り合い程度に終わったものの、この対立がその後の晴元との反目にも繋がる事となる。一方でこの一件の後長慶は摂津越水城へと入城、以降は摂津を生涯に渡って拠点とすると共に同国の守護代として、西宮を始めとする周辺地域への影響力を強めていく。
その後、細川政権下で勢力を伸ばしていた木沢長政が、増長し晴元にも反抗するようになると、天文11(1542)年3月に義理の父でもある河内守護代・遊佐長教と共にこれを討ち破り(太平寺の戦い)、父の仇を一つ取る格好ともなった。
一方、同時期には細川高国の従甥で養子の細川氏綱が、前出の遊佐長教や畠山氏の支援を受けて蜂起に及んでおり、一時は近江に逃れていた足利義晴・義藤(義輝)父子までもが氏綱方につくなど、細川政権の足元を揺るがす状況にまで陥っていた。
これに対して長慶は晴元とともに氏綱・長教連合軍と度々戦いを繰り広げ、時には敗北を重ね摂津を奪われた事もあったものの、三好義賢を始めとする長慶の弟たちが、四国より各々の手勢を引き連れ援軍として馳せ参じると形勢は逆転。天文16年(1547年)7月の舎利寺の戦いで南近江の六角定頼と連合して氏綱・長教連合軍に勝利を収めると、程なく将軍・義晴も晴元と和睦するなど、細川政権の勝利はほぼ決定的なものとなった。
この舎利寺の戦いでは近江へ逃れた将軍の代わりに、幕府政所執事を務める伊勢貞孝より幕臣の所領保護を依頼されるなど、軍事・政務両面において長慶の実力を畿内一円に知らしめる事にも繋がった。
三好政権の樹立
氏綱の敗北により、細川政権もようやくの安定化を見ると思われた矢先、一時氏綱方についていた摂津の池田信正に晴元が切腹を命じた一件と、この件での暗躍を疑われた三好政長の処遇を巡り、長慶は反政長派の摂津国人衆らと共に、晴元との対立姿勢を打ち出すようになっていく。
その後長慶が願い出た、政長とその嫡子・政勝の追討が晴元に拒絶されるに至り、天文17年(1548年)10月に長慶は逼塞状態にあった細川氏綱や、遊佐長教と組んで河内十七箇所へと侵攻、ここに長慶と晴元の対立は決定的なものとなった。三好政勝の篭もる榎並城を包囲した長慶軍は、これを救援しようとした晴元・政長の軍勢を翌天文18(1549)年6月に打ち破り(江口の戦い)、もう一人の仇敵であった政長を討ち取る事にも成功する。
この長慶の勝利によって、晴元も将軍・義藤らと共に京都を追われるに至り、長慶は新たに細川氏綱を主君に迎え入京、細川政権に代わって京都の支配権を掌握した。これにより、管領(※1)・細川氏綱、管領代・三好長慶による新たな共同統治体制(※2)が成立する事となる。
(※1 但し氏綱(と、晴元)が管領職に就いた事を明確に示す一次史料は未だ発見されておらず、この両名については正式に管領職に就任していないものとする見解も存在する)
(※2 一般には氏綱は実権のない傀儡に過ぎず、細川政権崩壊後は事実上長慶を中心とした「三好政権」がこれに取って代わったという見方が強い。他方で氏綱には前出の遊佐長教や、丹波守護代の内藤国貞を始めとする有力な支持者もおり、また政権を支えるべき被官のうち、長慶配下と思われていた何名かが氏綱より附けられた与力であった事なども含め、少なくとも天文年間においては氏綱も畿内において、一定の影響力を保持していた事も指摘されている)
ともあれ新政権の確立後、長慶は摂津を始め畿内一円を平定する傍ら、京都奪還を狙う晴元・義輝側との抗争も続けていく事となる。
天文20年(1551年)、将軍・義輝の手の者と思われる刺客に二度までも襲撃される事件も起こったものの、翌天文21年(1552年)にはその義輝と一旦和睦し京都へ迎え、さらに天文22年(1553年)には細川政権の重要拠点の一つであった摂津上郡の芥川山城を陥落させ、長慶こそが細川政権の継承者である事を広く知らしめた。
この時期、晴元方との抗争で前出の遊佐、内藤らが討たれていった事などもあり、氏綱は晴元方へ対抗するため、長慶に幕府権力を委譲し権力の一本化を図る代わりに、氏綱の京兆家当主・摂津守護の地位を保全する事で、両者の関係もそれまでの共同統治者から、実質的な統治者(長慶)と政権への協力者(氏綱)、というものへと転じていったと見られる。それは長慶を中心とした「三好政権」が、これを境に本格的に機能していった事を意味していた。
もっとも、その後も将軍・義輝とは度々対立しては近江へ追放、これを連れ戻すという繰り返しとなっており、結局六角義賢の仲介により義輝との完全な和睦が実現したのは永禄元年(1558年)、長慶・氏綱による京都支配が確立してから実に10年も後の事であった。
この時期までに、長慶は摂津を始めとする畿内の大半のみならず、阿波・讃岐といった三好氏のお膝元、それに播磨や若狭などにも勢力圏を広げており、当時の日本国内における最大規模の大大名へとのし上がっていた。これらの分国に対し、長慶は自身の弟達(三好義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長)にそれぞれ支配を委ねる事により、国人達をまとめ上げていったのである。
さらに献金なども通して朝廷への影響力も強め、朝廷からも永禄への改元(1558年)の際それまでのように将軍(義輝)ではなく、長慶と相談の上でこれを実施するなど、長慶が事実上の武家の代表であると見なされるようになった。永禄3年(1560年)には幕府相伴衆にも任命され、主家である細川氏をも凌ぐだけの地位を確立。翌永禄4年(1561年)には、長らく敵対していた細川晴元とも和睦し摂津普門寺へと迎え入れるなど、三好政権はここに最盛期を迎える事となった。
畠山氏との対立
こうした三好政権、そして長慶の栄華にも早くも陰りが見え出した。その兆しは永禄3年、長慶が本拠を芥川山城から河内飯盛山城へと移した頃より現れ始める。
事の発端は、長慶の支援によって河内守護に復帰した畠山高政が、長慶と敵対し追放されていた安見宗房を河内守護代に復帰させた事に始まった。これは三好軍が高政復帰後も河内に駐留した事により、高政が長慶への警戒を強めた事によるものだったが、そもそも高政が守護職を追われた原因が宗房にあったにもかかわらず、背信とも取れる行為に及んだ高政に長慶は激怒。程なく軍勢を送って畠山軍を打ち破り、三好政権は河内のみならず大和北部へも影響力を強める事となるが、その後も高政は六角義賢と通じて三好政権への反抗姿勢を維持し続けた。
衰退の兆しは三好一門の内部にも見えつつあった。まず永禄4年、「鬼十河」の勇名を馳せていた三弟・十河一存が突如他界。一存の死は単に三好一門の有力者を失っただけに留まらず、彼が任されていた和泉の支配にも動揺を与えるものであり、これを好機と見た畠山氏の反抗がさらに強まったのは言うまでもない。
この畠山・六角との抗争はなおも続き、永禄5年(1562年)の久米田の戦いでは三好軍が畠山軍に敗北、総大将であった長弟・実休(義賢)が戦没。同時期には六角軍によって京都を一時奪われ、実休以外にも三好一門の有力な武将が討死するなど、手痛い打撃を被る結果となった。
この後態勢を立て直した三好軍が、教興寺の戦いにおいて畠山軍を打ち破り河内を再平定、六角軍とも優位な立場で和睦し京都を取り戻した事で、一連の畠山・六角による反抗も一応の落着を見た。しかし頼りとしていた親族らを相次いで失い、また長慶自身もこの頃から病がちとなっていた事から、三好政権は軍事・統治両面において、体制の立て直しを余儀なくされる事となる。
長慶の斜陽
その後も反三好の動きは止む事を知らず、同年8月には政所執事を罷免された伊勢貞孝が蜂起に及んだ他、翌永禄6年(1563年)には和泉にて根来衆が、大和では多武峰の宗徒による三好軍との衝突が勃発している。特に前者は、貞孝罷免後の政所執事に摂津晴門が就任するなど、将軍・義輝による将軍権力回復の糸口を掴む事にも繋がっており、ひいては長慶死後の将軍と三好氏との対立の火種の一つともなった。
このような苦しい情勢の中、永禄6年8月には嫡男・三好義興が早逝。さらに前述の通り政権協力者であった細川氏綱も同年末に他界するなど、相次ぐ後継者・有力者の死没は次第に長慶の心身を蝕んでいく事となる。長慶は義興に代わる新たな後継者として、三弟・一存の息子であった十河重存(後の三好義継)を養子として迎えるが、これをもってしても家中の動揺が収まる事はなかった。
長慶にとって決定的な打撃となったのは、永禄7年(1565年)5月の次弟・安宅冬康の誅殺であった。その理由については諸説あって定かではないが、いずれにせよ誅殺の後で長慶が冬康の無実を知って後悔の念に囚われた事は確かであり、これによって予てからの病が重くなった長慶は僅か2ヶ月後の永禄7年7月4日、飯盛山城にて43年の生涯に幕を下ろした。
長慶の死後、家督を継いだ養子の義継が若年であった事から、後見を務めた松永久秀や三好三人衆といった家中の有力者は長慶の喪を伏せ、2年後の永禄9年(1566年)になってようやく葬儀を営むなど、家中や周辺諸国に対する動揺を抑えるべく務めた。しかしこの間に発生した永禄の変などを経て、久秀と三人衆の間で内紛が発生するなど、一度傾きかけた三好政権は完全な回復を見ぬまま、衰退へと突き進む事となるのである。
各種創作作品
戦国大戦
(前列左端が三好長慶)声:小野大輔
他家の一員として登場。短命ながら室町幕府の実権を握り、かつ傀儡化にさせて天下に君臨した人物という事で、イラストは禍々しい印象となっている(その反面、口を覆うほど深く襟巻きを巻いている風貌から、とある診療所の名前を渾名として呼ばれている模様)。レアカードで能力値は兵種が弓足軽でコスト2.5の武力8、統率9、特技は「魅力」と「制圧」持ちとかなり高い。
妨害陣形である計略「混沌の匣」(自身の前方にやや縦に長い長方形の陣形を張り、範囲内の敵の統率を下げるというもの)は試合時間の約3分の2ほど続くという代物。大幅に統率差が生じる為、一方的に敵部隊を弾いて大筒の占拠や奪回、防衛が余裕で出来たり、また他の味方部隊の妨害計略やダメージ計略のアシストになる、統率を下げる事によって敵のあらゆる計略の効果時間やダメージ等をほぼ無効化にさせるといった運用が可能。
武力や兵力を上げる事は出来ず、まともにぶつかり合うと分が悪いものの、デッキの構成次第ではかなり頼もしい活躍が見出せる。
『誰かがやらねば、乱世は終わらんのだ……。』
戦国無双
武器:刀剣 声:山田真一(2) 藤本たかひろ(3) 宮坂俊蔵(4)
「この国の秩序は、乱世の風雲児たるわしが守る」(4Empires特殊台詞)
戦国無双2Empiresより初登場し、一門として三好義継や三好三人衆、配下に松永久秀などが登場した。
戦国無双4Empiresにて義継や三好三人衆の1人である三好政康と揃って固有武将に昇格し、3Empiresには無かった特殊台詞が追加され、また冬康を除いて義賢と一存がモブ武将として登場した。なお乱世の風雲児と称しているが、明らかに風雲児ではない声に突っ込んではいけない…
戦国ヴァンプ
他者の心が読める始祖吸血鬼。自らをキングメーカー「王を創る者」と語り、京の支配者として君臨する。飄々として掴み所のない性格だが、臣下の松永長頼曰く「日の本を平和へ導くお方」との事。
信長の野望
どのシリーズでも、三好家では松永久秀と一二を争うほど能力が高く評価されている。
家臣にも三好兄弟や松永久秀ら有力な者が揃っている…のだが、長慶自身を含めて兄弟は寿命が短いのが欠点。