島左近
しまさこん
出身:大和国
生誕:天文9年5月5日?(1540年6月9日)
死没:慶長5年9月15日?(1600年10月21日)
室町末期~安土桃山期にかけて活躍した武将の一人で、一般には石田三成の側近として広く知られている。左近の名乗りは通称であり、本名は島清興(しま きよおき)。かつては勝猛(かつたけ)が本名であると考えられていたが、自筆の文書における署名などから現在では清興の方が正確であるという見解が一般的となっている。
柳生新陰流剣術で知られる柳生氏とは、元々同じ大和の国人であった事から関わりが深く、特に江戸柳生家の始祖である柳生宗矩とは、彼の父である柳生宗厳(石舟斎)が筒井氏に仕えていた縁で交流を持っていたという。真偽は定かでないが、宗矩が関ヶ原の合戦前に家康に命じられ、偵察も兼ねて左近の元に挨拶に出向いた、という逸話も残されている。また、左近の娘である珠は、石舟斎の孫にして尾張柳生家の始祖である柳生利厳(兵庫助)に継室として嫁いでおり、利厳の息子で曾祖父に父や従兄弟の十兵衛と共に剣豪として名高い柳生厳包(連也斎)は左近の外孫にあたり、連也斎は16歳まで島姓を名乗っている。
筒井氏の家臣として
元は大和国平群の土豪の出で、当初隣国河内の畠山高政に仕え、畠山氏が没落するとこれと協調関係にあった筒井順慶に従うようになる。この当時の畿内では三好長慶が幕府の実権を掌握し全盛期を迎えており(左近が畠山氏の元を去った直接の原因も、三好氏との抗争での敗北による畠山氏の没落であった)、新たに仕えた筒井氏もまた、長慶の腹心である松永久秀の猛威に晒される事となる。
順慶と久秀が大和の覇権を巡って争っていた間の、左近の動向については実はそこまで定かではない。この当時は宇陀にて勢力を有し、久秀との度重なる戦いを通じて軍略を磨きつつ、順慶を支えていたものと見られるが、ハッキリと左近の名が史料上に現れるのは元亀2年(1571年)、筒井方が松永方を降し、本拠の筒井城を奪還した辰市合戦での事である。
ともあれ、辰市合戦も含めた数々の功績によって筒井氏の重臣として名を連ねるようになったようで、その後も武功だけでなく内政面においても、大和統一を果たした順慶を支え続けていたが、天正12年(1584年)に順慶が早逝し、嫡男の定次が後を継いでしばらく後、左近は筒井家中を離れ浪々の身となった。
筒井家中を去った理由として、定次との意見の相違もあったというが、それ以上に定次の寵臣であった中坊秀祐との対立と、それに端を発した讒言によるところが大きいと見られている。
三成の家臣へ
その後は蒲生氏郷、もしくは豊臣秀長・秀保父子に仕えたと伝わるが、やがて引く手数多の声ある中で、特に彼を熱心に召し抱えようとしていた石田三成に仕えることを決意する。石田家中に迎えられた時期はハッキリしないが、小田原征伐の折に佐竹氏との交渉に関与していた事が自筆の書状から明らかにされており、少なくとも天正18年(1590年)時点では既に重臣と言える立場を確立していた事が窺える。
左近を家臣として引き入れた当時、俸禄4万石の三成が左近を2万石で召抱え、のちに三成が出世した折に彼が左近の家禄を増やそうとしたが拒否されたという、左近の義理堅さについての逸話もある。これには諸説(※)あり、左近を召し抱えた時にはすでに佐和山で19万石という高禄を貰っていたという説もあって実際のところは定かではないが、それでも三成から破格の待遇をもって迎えられていたことは間違いなく、
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」
と謳われた程である。
同時に三成の悪癖であったとされる、「人を見かけで判断する」「己の価値観だけの好悪の感情で相手を判断する」ことをたしなめるのも、左近の役割だったという。
(※ 三成が俸禄500石の折、柴田勝家、豊臣秀吉の誘いも蹴った渡辺勘兵衛(増田長盛や藤堂高虎などに仕えた渡辺了とは別人。渡辺新之丞とも。)を召し抱えたと聞き、秀吉が三成にどうやってかの者を雇えたのか聞いたところ、「知行の全てを与えました。今では私が彼に養われています」と答えたという話があり、左近を召し抱えた折の逸話はそれをアレンジしたものという説もある)
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、主君・三成が打倒家康を掲げ、他の奉行衆や毛利輝元らと共に挙兵すると左近もこれに従った。
関ヶ原本戦前日の9月14日には、自ら500の兵を率いて宇喜多秀家の家臣明石全登の支援を受け、東軍の中川一栄・有馬豊氏両隊を襲撃、これを打ち破るという快挙を見せた(杭瀬川の戦い)。
この戦いを左近が仕掛けたのは、この日、既に東軍の総大将である徳川家康の軍勢が、三成らの篭もる大垣城の目と鼻の先に当たる美濃赤坂(現・岐阜県大垣市赤坂町)にまで達して布陣しており、その予想以上の早さに動揺した西軍の諸兵の低下した士気を鼓舞する為であった。
またその晩の軍議において、島津義弘・小西行長らが家康本陣に対する夜襲を提案、三成からこれを退けられたという逸話が残るが、この時左近は義弘らと共に夜襲を献策としたとも、逆に「古来より夜襲で少勢が大軍に仕掛けて勝利した例が無い」として反対したとも伝わる。
この時、左近が「明日は久々に家康の敗走する姿が見られる」と口にしたのに対して、島津豊久から家康の敗走するを見たのは何時の事かと尋ねられ「若い頃は武田信玄に仕官し、山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」と語ったという逸話もあり、これを典拠として左近が武田家臣であったとする俗説も存在するが、この逸話が記された『天元実記』の成立は関ヶ原から100年以上も経過した江戸後期の事で、なおかつ武田氏と徳川氏が抗争を繰り広げていた頃は前述の通り筒井氏に仕えていた事もあり、真偽は不明である。
ともあれ、翌日の本戦では左近も自ら陣頭に立ち奮戦、その果てに嫡男の島信勝と共に討死したという。享年は61とされその最期についても諸説あり、緒戦での黒田長政隊との交戦中に側面からの銃撃に遭って呆気なく戦死したとも、もしくは負傷しながらも一旦前線から退いた後、敗北が決定的となったのを見て取って再度出陣し最期を遂げたとも伝わっており、後者に関しては戸川達安(宇喜多秀家の旧臣)によって討ち取られたとも言われている。
いずれにせよ、この時の左近の奮戦は凄まじかったらしく、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と徳川方に言わしめるほどであったという。また左近と直接対峙した黒田長政の配下らは、左近の鬼気迫る壮絶な勢いに恐怖し、関ヶ原の戦いの後もこの合戦を思い出しては、迫りくる"左近の悪夢"にうなされたという。ある時彼らが若侍に対して、当時の左近の戦装束を語り合った際にも、各人とも恐怖の余りにその出で立ちを正確に思い出せなかったという逸話が残されている程である。
とはいえ、信勝と違って左近の首並びに遺骸は発見されておらず、この事から辛くも関ヶ原から落ち延び、京都の立本寺に逃れた後寛永9年(1632年)に亡くなるまで同寺にて僧として余生を過ごしたという説もあったが2024年の発掘調査で、立本寺の伝・墓所からほぼ全身分の成人男性の遺骨が出土、その説の信憑性が強まった。
影武者徳川家康
諱は勝猛となっている。
関ヶ原の戦いにおいて、配下の忍・甲斐の六郎を差し向けて徳川家康を暗殺させた張本人。
しかし、家康の影武者である世良田二郎三郎の機転により東軍の指揮は下がらず、小早川秀秋らの裏切りもあり戦況は一変し、西軍は敗走する。
自身も銃弾により瀕死の重傷を負うが、六郎の救出と介抱により一命をとりとめる。
その後、六条河原で斬首刑を執行するため護送中だった主君・三成と再会し、影武者とともに豊臣秀頼を守る使命を託される。
なお、原哲夫によって漫画化もされた本作だが、『SAKON(左近)-影武者徳川家康外伝-』では、墨炎という頑強な戦場刀を愛用したり、背中に「義(羊に死を合わせた造漢字)」と書いた陣羽織を着用するなど様々な脚色が追加された。ちなみに原作者の隆慶一郎は生前に静岡県浜松市天竜区に在住している、左近の末裔を称している島家23代目の島茂雄氏を訪問している。
葵徳川三代
演:夏八木勲
関ヶ原緒戦で黒田長政、細川忠興隊と交戦し奮戦。石田三成が最前線に自ら参入し、そこを黒田の鉄砲隊に狙われているのを察知し、相手に強引に突撃して被弾。三成の腕の中で「一命、捧げ奉る」と言い残し絶命した。
夏八木氏の左近は一部では三船氏以来のベストな配役だったとも評された。
戦国BASARAシリーズ
CV:中村悠一
石田三成の側近。賭け事を何より好む。
身軽なスピード型で、「斬り」と「蹴り」を駆使したアクロバティックな攻撃を得意とする。
発売前情報で「”豊臣秀吉の左腕”である三成の傍ら(近く)に居る」ことから「左近」と名乗るシーンが公開されている。
さらに詳しくは島左近(戦国BASARA)を参照。
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