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細川藤孝

ほそかわふじたか

細川藤孝(幽斎)とは、近畿地方の戦国武将。鎌倉時代から続く名門・細川氏の庶流の出で、室町幕府の幕臣を経て、織田・豊臣・徳川と権力者の間を巧みに渡り歩き、後には肥後細川家の礎ともなった。剣術や和歌などを中心に、戦国随一の教養を持った文武両道の人物としても知られる。(1534年-1610年)
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概要

生年:天文3年4月22日(1534年6月3日)
没年:慶長15年8月20日(1610年10月6日)
室町時代戦国時代)・安土桃山時代江戸時代初期に生きた戦国武将で、雅号に由来する「細川幽斎」の名乗りでも知られる。武将としての働きだけでなく、後述の通り各分野に秀でた文化人としても高名を馳せた。

人物

塚原卜伝より鹿島新當流の剣術を学び、また弓馬故実を相伝されるなど武芸百般に対する高い素質の持ち主でもあり、加えて京都の路上で暴れ牛の角を掴んで投げ飛ばした、という逸話もあるなど膂力にも優れた人物でもあった。こうした面は息子の忠興にも引き継がれたようで、父子ともども遊泳術にも優れたと伝わる。
さらに和歌茶道蹴鞠囲碁料理、有職故実などに対する造詣も深く、戦国では随一と言える文武両道の人物でもあり、その教養は公家の中にさえ藤孝に及ぶ者はいなかったという。

特に和歌に関しては、後述の田辺城の戦いであわや城を枕に討死という時に、朝廷から「古今和歌集の解釈を伝える人間が居なくなっては困る。攻撃側は直ちに攻撃を中止して、幽斎は城を明け渡しなさい」という勅使が来訪してその命を永らえるという、まさに「芸は身を救う」を立証するような事態にも繋がった(もっとも、この件では息子の忠興から「なんで潔く討死しなかったんだ!」と怒られた。気性の激しい忠興だから仕方ない部分もあるのだが)。
また、名将であり優れた文化人でもあった三好長慶とはその立場上対立する事もあった一方、彼の連歌の行跡を藤孝が尊敬していたと言う話も有名であり、後年「私は連歌における作法の大切さを三好修理太夫(長慶)殿から学んだ」と述べ、長慶の優れたるを歌人・能書家の烏丸光広に語っている。

彼の子孫には第79代内閣総理大臣・肥後・細川家18代目当主細川護熙がおり、そのためか漫画作品に登場する藤孝は護熙に似た描かれ方が多い。その護熙は政治家を引退してからは陶芸家を営んでおり、また彼の祖父で細川家16代目当主・侯爵・細川護立も政財界きっての芸術品コレクターとして知られるなど、藤孝の文化人としての気質は数百年経った今なお子孫に受け継がれているようである。

生涯

室町幕府幕臣として

室町幕府の幕臣・三淵晴員の次男として生まれる。幼名は万吉、通称は与一郎。異母兄に三淵藤英、弟に長岡義重などがいる。7歳の頃に幕府第12代将軍・足利義晴の近臣であった淡路守護家支流の細川晴広の養子となり(※)、天文15年(1546年)に第13代将軍・足利義藤(義輝)の偏諱を受け、藤孝と名乗る。
(※従来、藤孝は伯父で和泉守護家の細川元常(もしくはその息子の晴貞)の元に養子入りしたと説明されてきたが、これについては年代的な矛盾などから疑問視されており、昨今では前出の細川晴広に養子入りしたとの説が有力視されつつある)

父や兄と同様に藤孝も幕臣として足利将軍家に仕え、義輝が近江へ逃れた際もこれに付き従う(この時期に若狭の沼田氏より、正室である麝香(細川マリア)を迎えている)が、永禄8年(1565年)に三好義継三好三人衆が謀反を起こし、主君である義輝を暗殺(永禄の変)。
この時藤孝・藤英兄弟、それに和田惟政ら義輝旧臣は、当時興福寺にて幽閉の身の上であった義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を次期将軍にせんとすべく救出。その後まず近江の六角義賢を頼り、さらに六角が三好方に転ずると義昭の親類の伝手を頼って若狭の武田氏、次いで越前の朝倉義景に相次いで身を寄せるなど、義昭の次期将軍擁立のために尽力を続けた。
やがて親友でもある明智光秀を通じ、義昭と織田信長を引き合わせる事に成功。永禄11年(1568年)に義昭を奉じて信長が上洛すると藤孝もこれに従い、上洛の過程においては三好三人衆の岩成友通より山城勝竜寺城を奪還。その後も幕臣として兄の藤英らと共に大和・摂津を転戦した。
しかし将軍に就任した義昭と、それを後援する信長との関係は次第に微妙なものへと転ずる事となり、藤孝も両者の関係修復に努めたが、その甲斐なく両者の対立は表面化する事となる。事ここに至り、藤孝は義昭の逆心を信長に伝えるなど、信長への恭順の意を示した。

織豊政権下にて

天正元年(1573年)7月、信長に降伏した義昭が京から追放されて室町幕府が滅亡すると、山城西部の長岡の知行を許され、これを機に長岡藤孝と改名。程なくして義昭方であった岩成友通を淀古城の戦いで討ち、その後も信長傘下の武将として各地を転戦、数々の軍功を上げた。
天正6年(1578年)には信長の命により、嫡男・忠興と光秀の三女・珠子(後の細川ガラシャ)の婚儀が成立。前述の通り光秀とは古くからの親友であり、この婚儀を通じて盟友・縁戚の関係ともなった。翌年から天正8年(1580年)にかけては光秀からの加勢を受ける形で丹後を平定し、信長からも南丹後の領有を認められ宮津城を新たに拠点とした。

ところが、そんな光秀との良好な関係にも重大な変化が訪れる。天正10年(1582年)に光秀が本能寺にて信長を討つ(本能寺の変)と、藤孝も光秀から新政権構築のため協力を求められたのである。しかしここで藤孝は、嫡男の忠興と共に「信長の喪に服す」という名目で剃髪に及ぶという、光秀にとっては想定外の行動に打って出た。
この行動は光秀からの要請に対し、婉曲的ながらも拒否を示すものであり、直後には「幽斎玄旨」と号して田辺城に隠居、家督も忠興に譲渡した。忠興もまた正室・珠子を丹波に幽閉し、父と同様に謀反にくみしない姿勢を見せた。藤孝父子のこの行動が、その後の光秀の命運を大きく左右した事は言うまでもない。
そして羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山崎の戦いにて光秀を下すと、丹後の旧主で光秀に味方した一色義定(藤孝の娘婿でもあった)やその旧臣らを討つなど、幽斎・忠興父子も秀吉への協力姿勢を示した。その後は紀州征伐や九州征伐など豊臣政権による数々の軍事行動にも参加、後に発生した梅北一揆の際には薩摩の島津家蔵入地の改革にも当たった。また千利休らと共に文化人としても重用され、嫡男の忠興とともに茶人としても名を馳せている。

田辺城の戦い

慶長年間に入り秀吉が薨去すると、幽斎はかねてより親交のあった徳川家康に接近し、嫡男の忠興も慶長5年(1600年)に会津征伐に参加するなど、父子共々親徳川の立場を打ち出していた。ところが会津征伐の最中に石田三成ら奉行達が家康討伐のため挙兵すると、幽斎の居城である田辺城も西軍の小野木重勝ら率いる大軍の包囲に遭う。
この時、会津征伐のために長岡勢の主力はその殆どが出払っており、幽斎の元にあったのはわずかに500に満たない手勢であったが、それでも三男の幸隆や甥の三淵光行らと共に頑強な抵抗を続け、また寄せ手の中にも幽斎を歌道の師と仰ぐ者も少なからずいたため、圧倒的な兵力差にも関わらず戦いは長期に及ぶ事となった。
この間、幽斎の討死による古今伝授の断絶を危惧した朝廷からも、前述の通り講和・開城の働きかけがなされており、最終的には後陽成天皇が勅使を派遣するという事態にまで発展。幽斎らも勅命という事で講和に応じ、9月13日に開城し丹波亀山城へ移った。この田辺城の戦いは幽斎の負けという形に終わったものの、大局的に見れば田辺城を包囲していた1万余りもの西軍を、長期に亘って釘付けにし関ケ原本戦に間に合わせなかった、という功績を挙げる格好ともなった。またこの時忠興も関ケ原本戦に東軍に属して参加し、三成の本隊と戦い戦功を挙げている。

戦後の論功行賞で、忠興に豊前小倉39万9千石の大領が与えられた一方、幽斎は慶長15年(1610年)に77年の生涯を閉じるまで、京都にて悠々自適な晩年を過ごした。江戸期に入ってからは長岡氏も再び細川姓に復し、以降長岡の姓は細川の別姓として、一門や重臣に授けられる事となる。

関連タグ

日本史 戦国時代 戦国武将 殿といっしょ 信長の忍び へうげもの
細川忠興 三淵藤英 細川ガラシャ
足利義輝 三好長慶 松永久秀 三好三人衆 足利義昭 朝倉義景 明智光秀 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 千利休

細川藤孝を演じた人物

NHK大河ドラマ
伊吹吾郎:国盗り物語
加藤精三:黄金の日日
角野卓造:おんな太閤記 
西田健武田信玄
勝野洋信長 KING OF ZIPANGU 
近藤正臣功名が辻
長谷川公彦軍師官兵衛
眞島秀和麒麟がくる

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