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室町幕府

むろまちばくふ

鎌倉幕府が滅亡した後に成立した建武政権から離反した足利尊氏が、京都に本拠を置いて創始した武家政権。「室町幕府」という呼称は3代将軍足利義満が北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した将軍の御所である「花の御所」こと室町殿がその由来となっている。
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概要と呼び名

室町幕府とは鎌倉幕府が滅亡後に足利尊氏征夷大将軍となって創始し、1336年から1573年(1338年から1588年とも)まで京都を本拠とした武家政権のことである。代々足利家の当主が朝廷から将軍に任ぜられ、管領政所侍所などからなる中央政府と各地の守護が率いる地方の武士団から成立していた。鎌倉幕府や江戸幕府に比べると足利家の直轄地(御料所)が少なく、守護の力が強い守護連合政権と見做されている。ただし守護の任免と地位の保証は将軍の権限であったので、守護にとっても将軍の権威は必要であった。御料所からの収入が少ない幕府の財源は、京都を中心にした商工業にかける税への依存度が高かった。


なお、「室町幕府」という呼び方は江戸時代中期以降に成立したもの。足利尊氏や義詮は鎌倉幕府の将軍と同様に「鎌倉殿」と呼ばれ、足利義満が京都北小路室町に壮大な館「花の御所」を立てると「室町殿」と呼ばれるようになる。また義満の頃から、本来は朝廷天皇を指す敬称である「公方様」という呼び方も用いられる(元は尊氏の時に朝廷から尊氏に贈られた称号だが、尊氏は武士に相応しくないと辞退していた)ようになる。この公方称号は江戸時代も引き続き将軍を示す呼び名となっている。貴人とその住まいを示す平安時代以来の「御所様」という呼び名も用いられていた。「大樹」とも呼ばれたが、これは征夷大将軍の風の名称(唐名)に由来する。この名は次のような後漢の故事が出典。後漢の創始者光武帝に仕えて大功があった馮異という将軍は、諸将が手柄話を論じあっているときに功を誇らずに大樹の下に離れたという。謙虚な人柄で士卒に愛され、みな大樹将軍に属して戦いたいと噂された。ここから将軍の居所を大樹と呼び、転じて日本では征夷大将軍を大樹と呼ぶようになった。


歴史

幕府のはじまり

建武3年(1336年)、後醍醐天皇(大覚寺統)の建武政権から離反した足利尊氏は、当初後醍醐天皇からの朝敵認定によって畿内各地の戦いに苦戦し(『太平記』巻15)、北畠顕家に敗れて九州に逃れる。しかし、尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏率いる軍を破り再上洛すると、北条氏が擁立していた持明院統の廃帝・光厳上皇院宣を得て、湊川の戦で建武政権側の楠木正成・新田義貞率いる軍を破る。入京して光厳上皇を治天の君に奉じ、上皇の弟・豊仁親王を光明天皇として北朝を興し、尊氏軍として推戴する朝廷を整える。朝廷を奉じている以上もはや朝敵ではなく、むしろ朝廷の命を受けて幕府を開くことも可能になるわけだ。かくして尊氏は、建武3年・延元元年(1336年)11月、施政の基本方針である建武式目を制定して実質的に室町幕府を成立させ、暦応元年・延元3年(1338年)、続いて北朝から征夷大将軍に任ぜられたことで幕府としての形式も整った。以上が室町幕府の成立経緯である。


このような幕府の成立当時は、南朝きっての名将・楠木正成は湊川で戦死、後醍醐天皇は降伏して退位の後に吉野に逃れて南朝を復興するも、暦応2年・延元4年(1339年)、後醍醐天皇は崩御、新田義貞も後醍醐天皇と仲違いして北陸にて敗死と前途順調に見えた。しかし尊氏は弟・足利直義に政治を一任して自分は軍事に専念する二頭政治を取っていたために、成立したばかりの幕府は直義と尊氏の執事・高師直をはじめとする有力守護たちが二分して対立する大規模な内乱に発展してしまった(観応の擾乱、貞和5年・正平4年(1349年))。主な武将を失って幕府軍に追われ吉野の山中を転々としていた南朝も、この機に乗じて攻勢に出た。直義らの軍勢は精強で京都も度々陥落し、一時は尊氏自身が南朝に降伏してその協力を得る羽目になる(正平の一統観応2年・正平6年(1351年))ところまで追い詰められてしまう。乱で戦った武士たちへの恩賞も負担となり、幕府の財政も苦しくなった。直義は倒すものの、その残党の活動は直義の養子・足利直冬(尊氏の庶子)が南朝側に属するなど尊氏の死後も嫡男・足利義詮が将軍を継いだ後も続いた。また幕府内の権力争いも続き、執事の細川清氏すら南朝に降ってしまうありさまであった。義詮は、清氏を討伐し同じく南朝に寝返っていた仁木義長らを帰順させることにも成功するが、貞治6年・正平22年(1367年)、38歳の若さで世を去ってしまう。3代将軍となったその子の足利義満は幼かった。しかし、清氏を討って管領(執事を改称)に起用された細川頼之が、その後の幕府の基盤を築いた。楠木正儀(楠木正成の三男)を降して一時的にせよ北朝側につけ、九州に割拠していた征西大将軍・懐良親王を擁する菊池一族には今川貞世を派遣して駆逐する。こうして次第に幕府軍が直義の残党や南朝方を圧倒するようになっていく。

応安元年・正平23年(1368年)、幼君・義満を戴いていた細川頼之に対する不満が表面化、南禅寺の僧徒と叡山の僧徒の争いに出兵した細川頼之と有力御家人・土岐頼康は意見をぶつけ合い、その結果頼康は幕政から退いてしまう。この争いについて頼康に味方する武将が多く、翌応安2年・正平24年(1369年)、南朝方に攻められた御家人の救援に向かう際、頼之の提案した策を拒否する者もいたという。そのため義満は、康暦元年・天授5年(1379年)、頼之に帰国するよう命じ、次の管領として越中守護の斯波義将を任命した(康暦の政変)。(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)


全盛期の将軍たち

そして親政を開始した足利義満は、明徳3年・元中9年(1392年)、持明院統の北朝と大覚寺統の南朝が交互に皇位を継承していくことを条件に統一した(結果的に約束は反故になり、皇位の継承は持明院統の独占になる。このことに不満を感じた大覚寺統の子孫は後南朝として神器の一部を奪取し15世紀半ばまで抵抗を続けた)。対外的に義満はとの勘合貿易を開始、幕府財政は安定する。さらに義満は敵対する有力守護大名も倒していき、幕府は全盛期を迎えた。義満は強力な奉公衆という親衛隊を整備して数万の軍勢を動員可能にする。また朝廷からは従一位太政大臣の官位を得て、ついには妻の日野康子を後小松天皇の准母として天皇の義父となるなど権威でも諸大名を圧倒する。諸国の守護大名たちも義満の威と軍事力に服して、義満に逆らう守護大名の征伐には積極的に派兵して協力した。さらには最愛の息子・義嗣を天皇として治天の君(つまり日本の国主である上皇のこと)になろうとしたのではないかという説もあるが、その構想の真偽のほどが明らかになる前に53歳で亡くなった(朝廷による暗殺説もある)。


しかし、義満の死後、すぐに幕府の路線は変更する。4代将軍・足利義持は老臣・斯波義将を補佐役に不仲だった父・義満の政策を否定、父の望んだ太上天皇の地位を辞退、明と断交し幕府に多大な利益をもたらした勘合貿易も中断することになる。しかし、応永17年(1410年)、義将が亡くなると、各地で旧南朝勢力が不穏な動きを見せるようになった。その翌年、飛騨国司・姉小路尹綱、河内の楠木一族、伊勢国司の北畠満雅といった人々が次々に挙兵する。そんな中にあって、応永23年(1416年)、前関東管領・上杉禅秀(氏憲)が謀反に踏み切った(上杉禅秀の乱)。禅秀は家人が所領を没収された問題で、鎌倉公方・足利持氏と対立して関東管領を辞職したが、持氏は後任の関東管領として禅秀のライバルである上杉憲基を置いた。この人事に不満を抱いた禅秀は挙兵。応永24年(1417年)正月に禅秀が自刃し乱を鎮圧すると、持氏は残党征伐と称して親幕府の諸氏を攻め、幕府との関係は悪化することとなった。この一連の事件に、義持の弟・義嗣がかかわっているのではないかとの疑惑が生じ、義持は義嗣を仁和寺興徳庵に幽閉、応永25年(1418年)、近臣の冨樫満成に命じて殺害した(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。応永30年(1423年)、義持は将軍職を足利義量に譲り出家したが、義嗣は、応永32年(1425年)、病弱と大酒が重なって父・義持よりも早く亡くなり、義持は将軍職に復することなく再び政務をとることとなった。義持は義満の住まいを大王の故居と呼び、朝鮮への国書で「日本国王」を自称したように、単純に義満の政治を全否定したわけではない(今谷明『日本国王と土民』)。今谷によれば、公家への官職叙任権を朝廷に返上するなど、義満のやり過ぎを是正して、史上空前の武家政権の安定期を招来することこそが義持の狙いであったという。義持は義満のように派手な実績を挙げたわけではないが、乱が続発した関東や九州を除く諸国には二十年に渡って大きな戦乱は起こらなかった(今谷明『日本国王と土民』)。平和が続いた義持の時代は、民衆にとっては幸いな時代であったかもしれない。また義持は縁起を担ぎ神仏に傾倒すること甚だしく、今谷によれば石清水八幡宮の籤にて男子が生まれると出たことを信じて死の床につくまで後継者を選ばなかった。次期将軍をくじ引きで選ばせたのもこの結果である。


正長元年(1428年)、義持が死去すると将軍職は空席になり、重臣たちは義持の弟の中から遺言通りくじで後継者を選んだ。6代将軍・足利義教である。義教は幕府権威の復興と将軍親政の復活を目指した。奉公衆を強化して軍事力を強め、永享6年(1434年)には鎌倉公方・足利持氏と通じているとのうわさがある比叡山延暦寺を囲んで屈服させ、永享10年(1438年)に起きた永享の乱では義持の代から幕府に反抗していた鎌倉公方・足利持氏を滅ぼして関東を制圧、九州でも逆らう守護大名らを撃破して九州探題を置くなど義満以来の軍事的成功で全国を制覇する。内政でも、自ら開く御前沙汰を最高評議機関とすることで管領の権限を制限し、勘合貿易も再開させることにも成功した。しかし、義教には自分に気に入らないことがあればすぐに怒り、些細なことで人々を厳罰に処するという悪癖があり、人はそれを「万人恐怖」と呼んだという。嘉吉元年(1441年)、その残虐性と独裁的な強権政治が家臣たちに恐怖を抱かせ重臣・赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱)。義教の独裁は完成されすぎていたようで、独裁者を失った幕府は二週間以上も謀反への対策を決められず、満祐らは悠々と帰国してしまう。ようやく編成された細川持常山名持豊(後の山名宗全)らが率いた討伐軍が赤松氏を滅亡させるも、右往左往した幕府の前途には暗雲が漂うこととなった。


また同時期に嘉吉の徳政一揆が起こる。その目的は土倉等の高利貸しによる借金の帳消しであり、農民だけでなく武士の一部も加わって略奪を控え整然とした作戦行動を繰り広げた。管領の細川持之率いる幕府は一揆の鎮圧に失敗し、差し押さえられて20年に満たない質物を返還する等の徳政令を発布する。武力鎮圧に失敗したから道徳的に民を憐れむ社会政策を行うというのも奇妙な話であるが、以降度々発布される徳政令こそが室町幕府が行った社会政策の代表である。また、幕府や大名といった武力集団が、武士の組織から庶民の統治をおこなう(例えば戦国大名や江戸幕府のような)政権へと変化していく一つの契機にもなった。この一件を記した公家の万里小路時房は「債務の破棄というなら、法で禁じた複利や元本の利息以上の借金のみに限るべきであろう」と記した。現代的な債務意識に近い論理といえよう。しかし桜井英治『室町人の精神』によれば、当時の中世的常識における借金とは、これとかなり異なる。すなわち「もののもどり(徳とはあるべき主に戻すことだ、あるべき主から奪われた土地は生命力を失ってしまう)」や「有徳人(富のある者には人徳があるべきだ、すなわち金持ちには貧乏を救う義務がある)」などである。常識であるため、一揆側はもちろん、自らの借金消滅に驚喜する公家たち(時房の意見は例外的だったらしい)も、調停する幕府も、これらの常識には同意していた(『室町人の精神』)。それゆえ徳政の名のもとに、質物は土倉から整然と取り出され、庶民たちや公家たちへと返されていった。しかし、土倉は当然、対抗策に出る。桜井によれば、利息の上昇や質流れの早期化といった事態が生じ、質物を取り戻すときに後日の補償を誓って貸し渋りを避けようとする公家の姿も見られたとのこと。


戦国時代への道程

8代将軍・足利義政ははじめこそ政務にいそしんでいたが、思うにまかせないことを知り、東山に山荘を構え風雅の道へとのめりこんでいく(東山文化)。政務に倦んだ義政が豪壮な酒宴を開いたり、建築事業に熱中するなか幕府財政は窮乏を極めていた。義政はこの窮状を打破すべく家宝ともいえる文物を切り売りするが、当然ながら一時しのぎにしかならない。そこで義政は明から与えられた勘合貿易の免許状(勘合符)を各地の有力大名(大内氏、細川氏など)や有力寺院に売り払うことを思いついた。もちろんこれは禁じ手である。中国大陸沿岸には各大名の船が殺到し、中には偽勘合符を持つものまで現われた(当然のように明は日本船の来航を禁止した)。この間、次期将軍をめぐる後継者問題が起きた。義政は僧になっていた実弟・義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ後継者に定めるが、あろうことか、ここで正室・日野富子に男子が生まれる。後の9代将軍・足利義尚である。この後継者争いに管領・細川勝元は義尚側に、赤松攻めの功で勢力を伸ばし「六分の一殿」と言われた有力者・山名宗全は義視側につくなど有力大名たちは両者を旗頭にして京を舞台に11年の長きにわたる大乱を起こした。応仁の乱(応仁元年(1467年)~文明9年(1477年))である。この大乱により京の都は焼け野原となり、天皇でさえ野盗の襲撃に怯え、日々の食事に事欠くありさまとなった。その間も義政は大乱を抑えることができず、奉公衆に守られて風雅な暮らしを続けている。幕府の地方政治の基本は京都に居住させた守護に命令を下すことにあった。しかし応仁の乱による混乱によって諸国では国人が守護領を横領する動きが起こり、また在京の出費も厭うた守護たちは続々と帰国していった(桜井英治『室町人の精神』)。桜井によれば、帰国した守護たちは自ら統治の命令を発するようになり、将軍の命令は「日本は悉くもって御下知に応ぜざるなり」となっていく。このように、応仁の乱は戦国時代の始まりではないかともいわれることがある。


さて9代将軍・足利義尚は将軍権力を復興すべく、近江国内の将軍家やその家臣の所領、寺社本社領の横領が発覚した近江守護の六角高頼を征伐する。義尚の狙い通り近江における将軍家の所領は増大し、その後の将軍たちの拠点となった。しかし将軍自らの出陣にもかかわらず六角氏は一年以上もゲリラ戦で抵抗し、延徳3年(1491年)に次の将軍・義材が近江を平定するまで乱を鎮圧することが出来なかった。一説によれば、義尚は母・日野富子との不和から、六角征伐を口実に近江に幕府を移していたともいわれる。延徳元年(1489年)、義尚が酒色の果てに陣没した後に足利義視の子・足利義材が10代将軍となるが、これを排すべく日野富子や細川政元らが起こしたクーデター・明応の政変(明応3年(1493年))が室町幕府にとっての致命傷となった。畠山氏の内紛により畠山義就基家親子と畠山政長の対立が表面化すると義材は政長ら軍勢を従えて畠山親子の討伐に出陣した。この機を狙っていた日野富子・細川政元は京でクーデターを起こし関東公方・足利政知の子・清晃(11代将軍・足利義澄)を擁立し義材方の諸将の屋敷や寺院を襲っていく。このことを知った諸将は続々と引き上げ、中には義材追討軍に加わるものさえ現われた。義材は政長とともに正覚寺城に籠もって追討軍を迎え撃ったが結局は敗れ、政長は自刃、義材は囚われの身となった(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。政元によって義材が幽閉されると奉公衆は解体され、将軍家は軍事力を失ってしまうことになった。この明応の政変こそが戦国時代の始まりだとする見方もある。軍事力を失った将軍が命令を実行するには有力守護大名たちに頼る以外のすべはなく、将軍は彼らの傀儡に過ぎなくなっていったからである。


傀儡から滅亡へ

その後の歴代将軍は京を追われて流浪したあげく、各地の有力大名に推戴されて京都に戻れば政治的に利用され、有力者と対立すれば追放されることを繰り返し、名目上存続しているようなありさまとなった。将軍の権威低下は将軍権力の後ろ盾で地位を維持していた守護大名にも影響し、自らの実力で領地を維持する戦国大名が守護大名に代わって各地に割拠し始めた。13代将軍・足利義輝は畿内の有力大名三好長慶と協調することで京都に帰還し、各地の戦国大名の抗争を調停することで権威を高めようとする。義輝による調停は効果的だったらしい。義輝は長尾景虎武田信玄や、毛利元就大友義鎮の抗争に積極的に介入し、数多くの講和を成立させている。上杉謙信織田信長が上洛して拝謁するなど、優れた政治手腕で将軍権威を回復させていった義輝は、「天下を治むべき器用あり」(『穴太記』)に評価されるまでになった。しかし、永禄7年(1564年)、義輝と協調していた長慶が亡くなると、翌永禄8年(1565年)、幕府の実権を掌握した三好三人衆松永久秀に有能過ぎる将軍は邪魔であると判断され殺されてしまう(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。

義輝弑逆後、三好三人衆と松永久秀によって将軍として擁立させたのは12代将軍・足利義澄の孫・足利義親(足利義栄)だった。しかし、義栄の権力基盤は義輝以上に脆弱だった。理由としては「三好一族」として政権の維持を目的とする三好三人衆と義栄を利用して「下克上」を果たしたい松永久秀との思惑のちがいだった。両者の対立によって義栄は将軍になることはできたものの京に入ることもできずに摂津にとどまらざるをえなかった。そうこうしているうちに、織田信長と手を結んだ義輝の弟・義昭が上洛してくると、松永久秀は信長の軍門に下り、義栄は三好三人衆ら畿内の諸将に援軍を求め、信長との対決に備えた。

しかし、このとき義栄は腫れ物を患っていた。そして、義栄は治療の甲斐もなく亡くなり、将軍でありながら一度も入京することもなく生涯を終えることとなった。(没年がちがうという説や、讃岐で亡くなったとの説もある)(榎本秋『歴代征夷大将軍一覧』)

一方、織田信長によって将軍となった足利義昭は、一時は蜜月の時を迎えるが実権が信長の手にあることに不満を抱き、各地の大名に「信長追討」を命ずる書状を送り、反抗の意思を示した。天正元年(1573年)、義昭は反・信長の兵をあげて槙島城に籠もったが結局は降伏し、信長によって追放されたことで二百数十年続いた幕府はついに滅亡した。


統治組織

室町幕府とは何を為した組織であろうか。鎌倉幕府ならば「御恩と奉公」であって武士に軍事・警備等の活動をさせて所領を与えるだけだが、室町幕府には全国の庶民を統治するという行政の役割が現れてくる(本郷和人「足利尊氏」『人物を読む日本中世史』)。本郷によれば、この役割は北条時頼の撫民政策を参考にし、有能な行政官である足利直義を中心に形成されていったという。実際、例えば直義らが作成した幕府の基本法の『建武式目』には、武士たちの綱紀粛正をはかる条文に加えて、「土倉(現代でいう銀行に相当する)を発展させ、貴人から貧民までの急用に貢献させること」といった経済政策や、「貧しい者の起こした訴訟でも真摯に取り上げること」といった社会政策まで登場する。金融政策としては延暦寺禅宗五山の庇護下にある土倉を振興し、日明貿易で入手した銭を流通に投ずる。幕府の守護神、石清水八幡宮の油座(西日本の商品流通の相当部分を抑えていたらしい)をはじめ、の商人たちを保護して特権を与えて全国の商品流通に貢献させる。社会政策の代表は、先述の歴史で述べた徳政令である。ならば道路の改修といった公共事業は?室町時代の主流は「勧進」であった。寺社が主導して寺院の修善や橋や道路の建設等を目的とした募金活動である。もちろんただカネを寄越せでは集まらないので、田楽を興行して観客を集め、利益から工事費用を捻出するのである(勧進田楽、勧進猿楽)。南北朝時代以降、京都でも地方でもさかんに興行された(榎原雅治「むすびあう地域」『村の戦争と平和』)。例えば、将軍の尊氏や関白・二条良基等が見物した貞和五年の田楽は、四条橋の架橋のための勧進田楽であった。室町の文化は、同時に公共事業でもあったわけだ。


とはいえ、これは幕府の御膝元・京都や首都圏たる畿内での話である。室町幕府が全国の武士と庶民を直接支配したわけではない。将軍の御内書(将軍の命令書のこと)といえども、管領や守護等の副状がなければ、一般に効力を発揮しなかった。それゆえ、武士たちに所領を奪われた公家や寺社が幕府に訴えても、所領返還を命じる将軍の御内書は手に入っても守護の副状が入手できず(何せその所領を奪った武士は守護の家臣であることが多い)泣き寝入りする事例が続発した。やはり室町幕府は守護の権力が大きい地方分権政治だったのである。政治的な意思決定については、次に挙げる表にあるような管領以下の組織が平時の政務を分掌し、軍勢の出動や関東・九州など遠隔地の重要事態については、有力守護大名の会議が開かれて将軍の諮問に答えていたらしい(本郷和人「三宝院満済」同書)。義満・義持・義教の三代に側近として仕えた真言宗僧侶三宝院満済はこの大名会議の結論と将軍の意向との間に立って調整する一種の「黒衣の宰相」であり、義持と義教時代前期に渡る平和な時代を支えていた。本郷はこの平和をもたらした満済と大名会議の政治について、「事なかれ主義」とぶっちゃけた評価をしつつも、彼らがもたらした「天下万民安堵」を評価している。


将軍幕府全体を統率する。
奉公衆将軍直属の軍事力
奉行衆将軍直属の顧問・文官
管領将軍を補佐し中央政府を統括。細川・斯波・畠山各氏から選んだ(三管領)
評定衆所領の訴訟や恩賞・寺社・外交など行政一般を担当した合議機関。下部実務組織としては、訴訟担当に引付衆、その他行政はそれぞれ奉行を置いた。
政所主に財政を担当。長官は政所執事、伊勢氏が世襲。伊勢宗瑞(北条早雲)は伊勢氏の一族であり、幕府から命じられて関東平定に派遣されたといわれている。
問注所訴訟一般や公文書記録を担当、長官は執事
侍所都の警備や刑事裁判を担当。長官は侍所所司、赤松、一色、山名、京極各氏から選んだ(四職)。
鎌倉公方関東八州を治める。足利尊氏の子・足利基氏が初代。
関東管領鎌倉公方を補佐する。上杉氏が世襲。北条氏康に追われた上杉憲政は越後の長尾景虎に身を寄せ、彼を養子として上杉政虎(後の上杉謙信)を名乗らせ関東管領職を譲っている。
鎌倉府関東八州を統括する役所の名。幕府同様に政所や侍所等が置かれた。
九州探題九州の軍事を担当
守護各国の軍事・行政を担当

先述の通り、地方行政は守護が軍事・裁判・徴税など大きな権限を持っていた。これは建武政権で政策の諸国における実施を国司・守護に委ねたことから始まるらしい(新田一郎『太平記の時代』)。細川・山名・大内・斯波・赤松といった有力大名は複数の国の守護を兼ね、足利将軍家の支配は守護の任免などを通じた間接的なものに留まっていた。しかし、鎌倉幕府以来の御家人たちも独立性が強く、必ずしも守護に従順とは限らなかった。彼らは国人と呼ばれ、将軍の奉公衆になったり団結して「一揆」と呼ばれる独自の政治勢力になって守護と対立したりもした(山田邦明『室町の平和』)。一国まるまる与えては守護が強大化しすぎる時は、郡単位で守護(分郡守護)を置くこともあった。例えば、細川一族の強大化を警戒した幕府は、摂津守護細川頼元に7郡のみを与え、6郡は赤松家と山名家に分割し、また近江国では守護六角氏に対して江北5郡の軍事指揮権や徴税権の一部を京極氏に分割して与えた(今谷明「鎌倉・室町幕府と国郡の機構」『日本の社会史 権威と支配』)。今谷はこのような守護の地域分割は30国56郡を数えるとする。また、義満・義持・義教らの歴代将軍はしばしば逆らう守護らを滅ぼしている(それぞれ明徳の乱、上杉禅秀の乱、永享の乱など)。このように守護といえども、将軍や国人の意向を無視して政治ができたわけではない。このような守護連合政権たる室町幕府の全体像としては、守護大名が領国経営に専念できるような適度の勢力間制御と平和をもたらす中央政権こそが、室町幕府であったという評価もある(本郷恵子『将軍権力の発見』)。


税制・財源は、鎌倉時代から続く貫高制が基本で、守護・国人・荘園領主たちの税収を支えた。貫高制とは農業の未発達もあり年貢を貨幣()で換算し、たび重なる小競り合いに必要な軍費を賄い、軍役を行うためにも必要な徴税法として発達したものであった。幕府は守護・国人の税収の一部を段銭(農地税)・棟別銭(家屋税)として全国的に集め、また倉役(土倉営業税)、酒屋役(酒屋営業税)、関銭(関所通行税)、津料(船の入港税)、抽分銭(日明貿易の輸入税)といった商工業への課税を財源にしていた。


応仁の乱以降は、京都の混乱が地方に波及し、守護大名の一族が領国で相続争いを繰り広げるようになる。将軍の守護任免権が無視され、実力で守護の地位を奪い合うようになったわけである。領地を守るのが武力だけとなると、国人たちもいっそう盛んに一揆を組んで協力して武力で領地を守り自治を進めるようになった(国一揆)。山城国一揆や加賀の一向一揆のように守護を追い出して一国を一揆が治める事例も出てきた。後の毛利家も安芸国人一揆が発展したものであり、毛利元就と家臣たちが(形式的には)平等に署名した唐傘連判状が遺っている。また、守護の地位とて将軍の後援がない以上、部下の守護代以下の家臣たちが取って代わることができる時代となった(有名な例としては斯波氏にとって代わった尾張の織田氏がよく知られている)。すなわち下剋上である。逆に守護大名の中からも今川や武田に代表されるように、幕府の権威に頼らず独自の法度を制定し国人たちを纏め上げることで領国経営を行っていく例も出始め、ますます幕府の影響力は低下した。こうして時代は戦国時代へと動いていった。


また各地の守護大名は独自に関所を作って通行料を徴収するとともに、他国からの間者(スパイ)を摘発することに力を入れていた。しかし、関所は同時に他国との流通を阻害することから商業経済の発展を目指すうえで大きな障害にもなっており、商人からの税収は限られたものともなっていた。そこに現れたのが織田信長である。信長は家臣の反対を押し切って関所を廃止し、商品流通を自由にする楽市・楽座という画期的な制度を支配地に広めた。この制度によって間者の流入は避けられなかったかもしれないが流通経済は飛躍的に発展し、商人から徴収した莫大な税金は信長にとって大きな財源となった。また、それまで商業における自治組織であった「座」は、閉鎖的な特権で支えられた平等主義(分かりやすく言えばムラ社会)で零細商人たちの利益を守っていた。織豊政権から江戸幕府に引き継がれた楽市・楽座は、座の特権を否定して商売の自由競争化を進め、経済の発展を促した。反面、競争を生き残った御用商人を代表とする大商人に利益が集中し、いわゆる江戸時代の「悪徳商人越後屋」的な大商人像の誕生へと繋がっていく。


室町幕府歴代征夷大将軍の一覧

  1. 足利尊氏
  2. 足利義詮…尊氏の嫡男(三男)。
  3. 足利義満…義詮の嫡男(三男)。
  4. 足利義持…義満の嫡男(三男)。
  5. 足利義量…義持の嫡男。
  6. 足利義教…義満の子(四男または五男)。
  7. 足利義勝…義教の長男。
  8. 足利義政…義教の五男。
  9. 足利義尚…義政の嫡男(長男)。
  10. 足利義材→義稙…義教の十男・義視の子。『義稙』は一度、京を追われた義材が将軍に返り咲いた時の名。
  11. 足利義澄…義教の四男・政知の子。
  12. 足利義晴…義澄の子(長男または次男)。
  13. 足利義輝…義晴の嫡男(長男)。
  14. 足利義栄…義澄の次男・義維の長男。
  15. 足利義昭…義晴の次男。

文献

「看聞御記」(伏見宮貞成親王・日記)

「樵談治要」、「文明一統記」(一条兼良が足利義尚に送った政道指南書)

「陰徳太平記」、「平嶋記」


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