守、護と言う漢字はともに守ることを意味し、対象を守る事を意味する。
軍事指揮官・行政官概要
原型は平安時代に賊を掃討し捕えるためにおかれた令外官・追捕使。後白河法皇が源頼朝に守護の設置と任免権を認めたことにより、幕府のシステムとして組み込まれる。
鎌倉幕府における職務は厳しく限定されていた。すなわち第一に、「御家人の大番催促」こと京都警護を輪番制で御家人たちに勤めるよう指示すること。第二に、「謀反人の追捕」すなわち幕府や朝廷に反逆したものを捕らえること。第三に、「殺害人の追捕」すなわち戦争時以外の殺人事件の捜査と犯人逮捕となる。これら3つの職務をまとめて大犯三箇条と呼ぶ。御成敗式目では、強盗・山賊・海賊などの追補も追加されている。しかし、それ以外の地方の行政や司法については守護は介入できず荘園領主と御家人に委ねられていたようだ。
室町幕府では権限が拡大する。「刈田狼藉の検断」、つまり他人の田の稲を勝手に刈り取ったのかそれとも自分の田を正当に刈ったのかに関する訴訟を守護が裁くことになった。これはつまり、所領に関する司法権を守護が獲得し、自らの所領を守れるかどうかが守護次第になったということである。また「使節遵行」も守護の権限になった。所領に関する幕府の裁定を現地で執行する際に、使者を派遣するのが守護の職務となったのである。すなわち幕府が所領を裁定しても守護が同意しなければ効力が発生しなくなったことになる。これらの権限によって、守護は一国の国人たちの所領を左右できるようになり、国内の武士たちの多くを実質的な家臣として従えた守護大名となっていった。
この制度は安土桃山時代まで続いたが、応仁の乱以降は幕府の守護任免権が各国に及ばなくなり、守護大名たちは下克上によって退場するかもしくは戦国大名に変質していくかの道を選ぶことになる。