ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

源頼朝

みなもとのよりとも

平安時代末期~鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍。
目次 [非表示]

概要編集

平安時代末期から鎌倉時代初期における武将で、河内源氏一門の棟梁。鎌倉幕府の初代征夷大将軍、そして日本史における武家政権の創始者として知られる。


生涯編集

久安3年4月8日1147年5月9日)、河内源氏棟梁の源義朝の三男として熱田神宮大宮司・藤原季範の娘の由良御前との間に尾張国(現在の愛知県名古屋市熱田区)に生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸。乳母は下野小山党小山政光の妻である寒河尼、比企国代官の掃部允の妻である比企尼、山内首藤俊通の妻である山内尼、父義朝の乳母の娘である摩々尼(山内尼と同一視されることも)の四名。三男の頼朝が実質的に嫡男扱いされたのは、兄弟の中で最も母の身分が高かったためとされる。

母の主君で後白河天皇の同父同母姉である統子内親王の皇后宮権少進⇒蔵人として数え年12歳で政界デビューし、彼女の推薦を貰って二条天皇の蔵人となって内昇殿を許される殿上人に加わり、皇太后のお気に入りとして院近臣のスピード出世街道に乗る。

統子内親王が上西門院の院号を貰った際の宴席では蔵人として平清盛を接待しており、この時点で確実に知り合っている。

平治の乱前に由良御前が亡くなり、13歳で平治の乱に参戦するが敗北し父と二人の兄(義平・朝長)は殺された。その後、平頼盛の家人、平宗清に捕らえられ、清盛の温情や統子内親王の根回しにより命は助かり青春時代を流刑人として伊豆国(現在の静岡県)で過ごす。

平治の乱に参戦した際に大臣の息子の定番出世コースである右兵衛権佐に短期間ながら任官しているので、「佐殿」の愛称で呼ばれていた。


正妻は北条政子。政子は頼朝の流刑中にお目付け役としていた在地豪族・北条時政の長女であり、時政の目を盗んで恋仲になって駆け落ちをしたため、時政も渋々結婚を認めたというエピソードが残されている。(曽我物語、源平盛衰記など)


北条政子との間に、大姫、二代将軍・源頼家三幡乙姫)、そして三代将軍・源実朝という四人の子がいる。頼家・実朝兄弟は後に暗殺され、大姫は婚約者・源義高(源義仲の嫡男)の殺害が原因で病を得て亡くなるなど悲劇的な最期を遂げている。


治承4年(1180年)、叔父の源行家から高倉宮以仁王の綸旨を受け、最初は無視したが、追討軍が来ることを知り関東武士を率い挙兵。たまたまこの時期に伊豆目代に任命された山城兼隆をターゲットにすると集まった武士三十名ほどでカチコミをかけ勝利。

続く石橋山合戦こそ敗れるものの、真鶴から海路で安房に逃亡。その後、三浦氏・総州武士団(上総広常・千葉常胤)ら・武蔵武士団(比企尼・畠山重忠・江戸重長・河越重頼など)・小山党(寒河尼・小山朝光)と合流し関東南部を平定、鎌倉に拠点を構える。詳しい史料は少ないもののこの時点で源姓足利氏の足利義兼、新田傍流の山名義範が合流していたとされる。

富士川の戦いにはギリギリだったものの陣を構えるも甲斐源氏に手柄を取られ、勝利とはいかなかった。翌年に梶原景時、熊谷直実が傘下に降る。

丁度この頃に依田で挙兵した木曽義仲が、叔父志田義広や藤姓足利氏と接触し、頼朝にちょっかいをかけ始める。そして義朝の最後を見ていた平賀義信と敵対。依田は平賀の領地であったため、義仲は撤退。信濃からの信頼を失った義仲は武田(甲斐源氏)の協力を得た頼朝と婚姻による停戦を申し込む。

寿永2年(1183年)、先に上洛した木曽義仲追討の命を後白河法皇から受け、異母弟・源範頼義経兄弟率いる軍勢を派遣、これを破る。範頼・義経兄弟はさらに西国に落ち延び、勢力を盛り返しつつあった平家追討のため出陣、文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすことに成功した。その後、平家討伐に最大の功績を挙げた異母弟・義経との対立が表面化、義経は叔父行家と共謀し頼朝追討の命令を引き出すことに成功するも、畿内の武士は既に義経によって潰されており、さらに助けたとして見返りが全然無い奴に損得にシビアな武士が着いてくる筈もなく、日本各地を逃げ回ることに。頼朝は義経を逃しつつ、寺社に匿わせて、義経逮捕を口実に全国の荘園や国、寺社の領地に守護・地頭を置くことを後白河院に承諾させた。建久3年(1192年)、征夷大将軍に就任。

将軍就任から約7年後の建久10年1月13日1199年2月9日)、相模川橋供養を終えた帰路で発病し、死去。享年53(満51歳没)。死因については、落馬事故の後遺症説、糖尿病などの病気説、さらには北条氏による暗殺説も唱えられているが、真相は今なお闇に包まれている。近年の文献による研究では、酒宴の多さが祟って内臓を患った可能性が指摘されている。


人物編集

能力・性格編集

政治的能力、人材掌握力が高く、日本史における組織作りの天才と言われており、その手腕は後世の徳川家康が手本としたほどである。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されているが、その一方で、人格的には猜疑心(特に身内に対して)が強く「冷酷な政治家」と評される場合が多い。これは頼朝が弟の義経や範頼を死に追いやったこと、さらに源義高や一条忠頼、安田義定・義資父子らへの仕打ち、義経を討ち取り恭順の意を示した藤原泰衡を滅亡へと追いやったことのイメージが影響している。ただし『吾妻鏡』などの当時の歴史書には欠落が多く(後に天下を取った北条氏寄りに改竄されたとされる)、死因含めて頼朝の詳細についてはいまだ謎が多い。

また当時の関東圏は、荒くれ者の猛者が犇めき合い鎬を削り合う物騒な土地柄であり、余所者の頼朝が面従腹背の精強な野心家である坂東武者たちを屈服させるには、ある程度の恐怖統治も必要だった事情も考慮すべきだろう。

毒舌家としても有名で、自分への態度が良くない御家人に対して容姿や性格などの特徴を挙げた上で痛烈に非難したとされる。逆を言えば、相手の特徴を隅々まで把握できるほどの観察眼の高さが窺える。


容姿編集

書籍などの記述には「年齢より大人びている」「背は高くないが容貌優美で威厳がある」「顔が大きく、容貌は美しい」などと記されており、少なくとも当時の感覚では美形であったことは間違いないようだ。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりはやや長身である。


教科書や歴史書などに載っている有名な神護寺の肖像画は、実は足利直義の肖像画であるという説が近年有力になりつつある。これは肖像画の画法が南北朝時代のものであることや、人物の服装が鎌倉時代よりも後の時代であることなどが理由。最近ではタイトルを「・源頼朝像」と改題し注釈入りで紹介される他、掲載を見送るケースも存在する。甲府善光寺蔵の木像が生前の姿に一番近いと言われており、垂れ目・垂れ眉の老け顔が特徴で、一般の頼朝像とは大きくイメージが異なる。

源頼朝と平重盛


逸話編集

  • 英雄色を好むの例に漏れず、彼も相当な女好きだった。特に流人時代から「亀の前」と言う美女を愛したが、正妻の北条政子亀の前を宿泊させた伏見広綱の屋敷を焼き討ちし、伏見氏を流刑と言う某ギリシャ神話カップル真っ青の所業を起こした。それでも、頼朝は色々な女の子と付き合ったらしいどういうことなの…。ただし政子もこれは容認していたらしく、亀の前事件の後も大きくことを荒立ててはいない上に、実朝を産んだ年齢から相性は良かった模様。
    • この亀の前事件だが、頼朝の浮気も要因としてあるが、それ以上に時政の後妻である牧の方の存在が大きい。政子とそう歳の変わらない牧の方と長年北条を取り仕切ってきた政子の戦いであることが大きく、むしろこの事に調子に乗って通い続けたこと、それを牧の方が公然と言ってしまったことにより、表沙汰になってしまい、結果上記のことに発展。伏見氏は元々の領地(旧領)に流罪なので割は食ったが、それなりの結果である。一番の被害者は牧の方の兄(または父)である牧宗親である。(当時としては最上級の恥辱である、帽子を脱がされ、髷を人前で切られるという所業にあったいる)。
    • これに起こった時政は無断で伊豆に帰るも、頼朝・政子からはガン無視を食らっている。
    • のちにこのエピソードは石川さゆりの代表曲「天城越え」のモデルになっている。
  • 以仁王の令旨による挙兵の初戦「石橋山の戦い」にて十倍の兵の差(吾妻鏡)に大敗するが、敗走中に鎧武者を一撃で倒し、矢羽まで埋まっただの、あの平安時代のモビルスーツに並ぶ強弓使いだったと伝わっている。
  • 平家物語」では殆ど空気だが、「平治物語」ではしばしば見せ場がある。長兄・義平の影に隠れているが郁芳門の戦いで弓の腕の冴えを見せ、落武者狩りを斬り捨てるなど年少ながら武勇のほどを見せている。
  • 「保暦間記」と言う書物によれば、義経や行家に壇ノ浦の戦いで結果として平家と運命を共にすることとなった幼帝・安徳天皇の亡霊に祟られて死んだと言う。陳和卿と言うの工人からも「罪業深き人」と言われた事もあり、存命時から冷酷さを流布されていたと言われている。
    • 宋の人間からも身内に対して敵以上に冷酷な頼朝はやはり異常に見えたのであろう。
  • 武士を優遇したと思われがちだが、文治元年(1185年)に部下の玉井四郎助重が武力を行使した悪事を働いた上に朝廷の仲裁を聞かなかった時には激怒し、「綸命に違背するの上は、日域に住すべからず。関東を忽諸せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべし」(勅令に背くならば日本国の臣に非ず。幕府の命に従わぬならば御家人としての保護は与えぬ。速やかに出て行くが良い) と申しつけたこの事から、頼朝の武士に対する統率がいかに厳しかったがわかる。
  • なお、その玉井は建久元年(1190年)に上洛警護の重職に復帰しているので、追放は無かったとも、或いは終身刑の流罪を与えたのでは無かった(重い罪ならば死刑が当たり前の時代)と言う解釈もできる。だが、それを根拠にして「お上を批判する者は出て行け!」と言いだす人も少なくない…。
  • この様に部下に対しては罰を与えて反省を促す方針だったが逆に身内には敵以上に徹底的なまでに容赦が無く、弟の源義経を始め(理由はあれど)同門である木曾義仲も抹殺している。
  • 一方で親馬鹿な所もあり、長男の源頼家が鹿狩りで獲物をしとめたときには政子に報告の伝令まで出し、「武士なら当たり前のこと」と窘められる人情味のある一面を持っていた。
    • しかし娘の大姫の急死からより体調不良を拗らせ元から強かった懐疑心を更に強めており、晩年の不調に繋がったという。もっともこれも身内に容赦の無い自分自身が原因であり、大姫の婚約者だった源義仲の嫡男・源義高を処断し打首にしたことで、大姫が精神的ショックで病弱になったことに起因する(つまりは自業自得以外の何でもない)。
  • 死因の1つに「北条家による暗殺説」が出たのもこの「身内に関しては徹底的に容赦が無い」故だったと思われる(実際。身内に関しては余地も容赦も無く殺していく頼朝に対して北条家が「明日は我が身」と思うのは自然である)。ちなみにこの説は現在はほとんど否定されており、北条家の屋台骨は『頼朝の嫁の実家』しかなく、頼朝が急死した際も北条は大慌てであった(頼朝が死ねば、北條家は頼朝の跡継ぎの頼家との関係を強化していた比企家に権力を奪われる公算が大きくなるため。実際、それが原因で数年後には比企氏の変がおきた)。
    • しかし源氏を粛正し終わり幕府が安泰になった頼朝が次の粛正対象を最早用済みとなった北条家と比企家の2家に定める可能性は決して否定出来ず、『比企家がやっていたのは結局、取らぬ狸の皮算用でしかなかった』とも言える。

源頼朝が登場する作品編集

ますらお 火の鳥乱世編 遮那王義経 修羅の刻 リョウ 源平伝NEO イザヤカク



関連タグ編集

平安 鎌倉 鎌倉時代 鎌倉幕府 征夷大将軍 歴史創作

関連記事

親記事

鎌倉幕府 かまくらばくふ

子記事

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

pixivに投稿された小説 pixivで小説を見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 739047

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました