曖昧さ回避
- 東アジアの漢姓。中国(ソン)、朝鮮(ソン)、ベトナム(トン)などに見られる。宋姓の人物・キャラクターについては本項目の末尾で取り扱う。
- 周代・春秋戦国時代の諸侯国のひとつ。本項で詳述。
- 南北朝時代の南朝(六朝)のひとつ。→劉宋
- 10世紀から13世紀まで存続した中国の統一王朝。帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。「宋」「宋代」と呼ぶときは多くはこの王朝を指す。本項および北宋・南宋の各記事で詳述。
- 紅巾の乱の指導者劉福通が、白蓮教教主韓林児を擁立した政権(1355年~1366年)。
趙宋
10世紀中盤から13世紀後半まで続いた中国の王朝。金王朝による華北征服以前を北宋、それ以降を南宋と呼ぶ。政治史については北宋、南宋の各記事を参照。
北宋の首都は開封、南宋の首都は臨安であった。北宋と南宋の社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しいため、本稿では両者を包括して記載する。
宋代の社会・経済
唐代までは貴族階級中心だった文化が庶民にまで広がり、当時の世界においては突出した経済大国であった。唐代との都の大きな違いは、街区を細かく区切っていた門(夜には閉められ通行が遮断される)が取り払われ、昼夜を問わず店には人々が集い、路上に屋台が並んでいた事である。
電気やガスが用いられる以前に、この様な営業形態をとりうる経済力は驚くべきことなのだ。
具体的には、食器屋、薬屋、貴金属店が店を並べた。それに加えて、その客を目当てに飲食店、娯楽、風俗店が集まっていた。
都には瓦ぶきの2階や3階建ての建物が建ち並んでいた。また街路が瓦や石の埋め込みにより舗装されていた。
人口の増加により木材の伐採が進み、特に南宋の中心となった長江下流部の森林の多くが失われてしまった。
薪の代替としては、石炭を蒸し焼きにした骸炭(コークス)が使用されるようになった。
骸炭の使用は、その強力な火力により中華料理が今のような形に変化するきっかけとなった。
唐代から茶は庶民まで嗜むものとなっていたが、宋代に庶民の最下層にまで完全に浸透し、「貧民であっても米・塩・茶は毎日欠かすことが出来ない」と言われるまでになった。
宋代の文化
大衆文化と呼べるものが登場した。盛り場では『三国志演義』の源流とも言える講談が演じられた他、切紙・影絵・動物の芸、雑劇(歌を伴う演劇)などが人々を楽しませた。
本格的な出版事業が始まり、多くの人が印刷された本を入手することができるようになった。歴史書や経典、漢詩、受験参考書などのほか、小説も創作され刊行されるようになる。儒学も栄え、朱熹(朱子と尊称される)は自己修養から社会秩序の維持に至るまでを取り扱う壮大な学問体系を組み上げた。
公立医療機関や医師養成学校といった医療制度が確立され、庶民も中国伝統医学の恩恵にあずかることができるようになった。
唐代半ばに誕生した水墨画は宋代が最盛期とされ、また人物画・宗教画から山水画・花鳥画が大いに流行した。
日本との関係
遣唐使の廃止以降公式な日本との国際関係は絶え、平安時代後期には博多や敦賀などを拠点に私貿易が行われていた。
南宋以降、日本の木材が大量に輸出されるようになり、代価として支払われた宋銭の大量流入で日本でも貨幣経済が発達した。
平氏政権が成立すると宋との間で公式な国交が樹立され、鎌倉時代にも引き続き貿易は盛んに行われた。
貿易に伴い宋からは漢方医療や禅宗と共に喫茶の風習が伝わり、その後の日本文化に多大な影響を与えた。特に宋学あるいは朱子学と呼ばれた最新の儒学は、その皇帝中心の中央集権的政治構想によって後醍醐天皇や日野資朝らの倒幕運動に大きく影響した。さらに江戸時代に幕府が朱子学を武士に奨励したことで、その王道を重んじ覇道を卑しむ尊王思想が幕末志士誕生の遠因となっていった。
一方で、宋では扇子や日本刀、螺鈿など日本産の工芸品が珍重され、中国の工芸品にも影響を及ぼした。当時の評価は、欧陽脩の詩、『日本刀歌』にも窺える。日本文化もまた中国へ影響を与え始めていたのだ。
関連タグ
宋(春秋)
現在の河南省に存在した諸侯国。周代から春秋戦国にかけて、紀元前11世紀から紀元前3世紀まで存続した。
沿革
殷の帝乙の長子・啓は庶子のため王位を継承せず、微に封じられて微子啓と呼ばれた。温厚な人物で、弟の紂王(帝辛)の暴政を何度も諫めた。
紀元前1051年、周の武王(文王の次男)が殷に対して革命を起こす。微子啓は和睦を主張したが紂王に容れられなかった。そのため殷の祖廟を絶やさないよう同母弟の仲衍と共に微に帰った。
殷の紂王は牧野の戦いに敗れ首都・朝歌(河南省)に撤退し、焼身自殺した。
管叔鮮(文王の三男)が管に封ぜられて諸侯となり、殷の遺民を統治する任を与えられた。
革命後2年で崩御した武王の後継には武王の子・成王が選ばれ、周公旦(文王の四男)が摂政となった。管叔鮮は蔡叔度(文王の五男)、霍叔処(文王の八男)と共に反乱(三監の乱)を起こして3年に亘り戦うが破れ、殷の遺民の半分が微子啓に与えられ宋国となった(もう半分は康叔(文王の九男)が衛に封じられ衛国となる)。
前王朝の王統に繋がる国のため、最高位の公爵が与えられた。都は商丘。
紀元前651年、宋公となった襄公は、斉の桓公が主催する会盟に度々参加した。
紀元前643年、桓公が死去すると斉は内乱状態になる。襄公はかつて宋に留学していた縁がある太子昭を推し立てて斉へと赴き、昭を斉の孝公とした。
紀元前639年、斉・楚と会盟し、諸侯の盟主となることを楚の成王に認められた。襄公は更に楚・陳・蔡・許・曹を集めて会盟を行うが、これを不快に思った楚の成王に監禁され、盟主としての面目をつぶされる。
紀元前638年、一旦謝罪し解放してもらった襄公は泓水で楚と決戦を行った(泓水の戦い)。
- 楚軍が河を渡ろうとした時、これを好機ととらえた宋の宰相が何度も攻撃許可を求めたが襄公は許可しなかった。その結果、河を渡り終え隊列を整えた楚軍に叩きのめされ、宋軍は惨敗した。後に「何故許可を出さなかったのか」と聞かれて襄公は「君子は人の弱みに付け込んで戦いに勝つような事はしないものだ」と答えた。この逸話から、身の程知らずのつまらない仁を「宋襄の仁」と呼ぶようになった。
この時、諸国放浪中だった晋の公子・重耳が宋を訪れ、襄公は国君の礼を持って迎え、80頭の馬を贈り歓待した。
紀元前637年、重耳は晋の文公となる。
紀元前632年、晋の文公は宋への恩義を忘れず、楚に攻められた宋を救援するため軍を発する。楚の成王は分が悪いと見て軍を引き上げたが、令尹の子玉は退かず晋軍と決戦した。文公は城濮の地でこれを打ち破り(城濮の戦い)、中原の覇者となった。
紀元前488年、鄭が晋から離反し、宋の景公は皇瑗を派遣して鄭に侵入させた。さらに曹を包囲し、翌年に曹を滅ぼす。
紀元前486年、鄭軍が雍丘を包囲し、景公は皇瑗を派遣して鄭軍を撃退させた。
紀元前481年、景公は寵愛した桓魋の増長に悩まされ、粛清を図る。桓魋は曹に入って反乱を起こした。景公は向巣を派遣して曹を攻めさせたが、向巣は桓魋に寝返る。桓魋は衛に逃れ、向巣は魯に亡命した。
紀元前385年、宋は韓の攻撃を受け、宋の悼公は捕らえられ殺害された。
紀元前328年、偃が兄の剔成君をクーデターで追放し、君位を簒奪し宋の康王となる。宋君としては最初で最後の王号を名乗った。
紀元前296年、滕に出兵して滅ぼす。自信をつけた康王は恐怖政治を行い、国内外から「宋の桀」と呼ばれた。
紀元前286年、宋は斉・魏・楚の連合軍に敗れ、康王は殺され、宋は滅亡した。領地は戦勝国により3分された。