ピクシブ百科事典

そう

ほぼ10世紀中盤から13世紀後半まで続いた中国の王朝のこと。
目次[非表示]

用例

1. 春秋戦国時代の諸侯のひとつ。
2. 南北朝時代南朝六朝)のひとつ。
3. 10世紀から13世紀まで存続した王朝。Pixivではほぼこちらに関するタグとなっているため、本項目で説明。

概要

960年に趙匡胤が建国。978年にその弟、趙匡義が中国統一を成し遂げた。
金王朝による華北征服以前を北宋、それ以降を南宋と呼ぶ。

代までは貴族階級中心だった文化が庶民にまで広がり、当時の世界においては突出した経済大国となった。
一方で唐末から五代期に頻発した将軍達の軍閥化を警戒するあまり、兵士の社会的地位は低くされ質は著しく劣化したため、軍事的には弱体で北方の異民族の脅威に常に晒されていた。

北宋と南宋の社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しいため、本稿では区別せず両者を包括して記載する。

政治

宋代は文治主義を採り、貴族層の消滅によって、皇帝独裁が確立し、平民から成長した士大夫層が社会の中枢を担った。
慢性的な財政赤字が続いたこともあり、政争による混乱も続いた。

社会

北宋の首都開封、南宋の首都は臨安であった。
唐代との都の大きな違いは、街区を細かく区切っていた門(夜には閉められ通行が遮断される)が取り払われ、昼夜を問わず店には人々が集い、路上に屋台が並んでいた事である。
電気ガスが用いられる以前に、この様な営業形態をとりうる経済力は驚くべきことなのだ。



具体的には、食器屋、屋、貴金属店が店を並べた。それに加えて、その客を目当てに飲食店娯楽風俗店が集まっていた。
都にはぶきの2階や3階建ての建物が建ち並んでいた。また街路が瓦や石の埋め込みにより舗装されていた。

また、大衆文化と呼べるものが登場した。盛り場では『三国志演義』の源流とも言える講談が演じられた他、切紙影絵・動物の芸、雑劇(歌を伴う演劇)などが人々を楽しませた。

本格的な出版事業が始まり、多くの人が印刷された本を入手することができるようになった。歴史書や経典、漢詩、受験参考書などのほか、小説も創作され刊行されるようになる。儒学も栄え、朱熹朱子と尊称される)は自己修養から社会秩序の維持に至るまでを取り扱う壮大な学問体系を組み上げた。

公立医療機関や医師養成学校といった医療制度が確立され、庶民も中国伝統医学の恩恵にあずかることができるようになった。



唐代半ばに誕生した水墨画は宋代が最盛期とされ、また人物画・宗教画から山水画・花鳥画が大いに流行した。

人口の増加により木材の伐採が進み、特に南宋の中心となった長江下流部の森林の多くが失われてしまった。
の代替としては、石炭を蒸し焼きにした骸炭(コークス)が使用されるようになった。
骸炭の使用は、その強力な火力により中華料理が今のような形に変化するきっかけとなった。

唐代からは庶民まで嗜むものとなっていたが、宋代に庶民の最下層にまで完全に浸透し、「貧民であっても米・塩・茶は毎日欠かすことが出来ない」と言われるまでになった。

日本との関係

遣唐使の廃止以降公式な日本との国際関係は絶え、平安時代後期には博多敦賀などを拠点に私貿易が行われていた。
南宋以降、日本の木材が大量に輸出されるようになり、代価として支払われた宋銭の大量流入で日本でも貨幣経済が発達した。
氏政権が成立すると宋との間で公式な国交が樹立され、鎌倉時代にも引き続き貿易は盛んに行われた。

貿易に伴い宋からは漢方医療や宗と共に喫茶の風習が伝わり、その後の日本文化に多大な影響を与えた。特に宋学あるいは朱子学と呼ばれた最新の儒学は、その皇帝中心の中央集権的政治構想によって後醍醐天皇日野資朝らの倒幕運動に大きく影響した。さらに江戸時代幕府が朱子学を武士に奨励したことで、その王道を重んじ覇道を卑しむ尊王思想が幕末志士誕生の遠因となっていった。

《日本刀歌》



一方で、宋では扇子日本刀螺鈿など日本産の工芸品が珍重され、中国の工芸品にも影響を及ぼした。当時の評価は、欧陽脩の詩、『日本刀歌』にも伺える。日本文化もまた中国へ影響を与え始めていたのだ。

関連タグ

(前王朝)←  → 金王朝/,モンゴル帝国(後王朝)
水滸伝 チンギス・ハーン

pixivに投稿された作品 pixivで「宋」のイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 2761

コメント