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南朝

ちゃんちょうまたはばいたおおよびなんちょう

南朝とは、国内に王朝およびそれを戴く政権が二つある状態において、南方に位置する側を指す名称。日本の他、中国やベトナムでもこの名称が用いられた。
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日本の南朝

延元元年(1336年)に後醍醐天皇吉野朝廷を開いてから、元中9年(1392年)に後亀山天皇北朝後小松天皇譲位するまで存続した。


南朝の成立は、後醍醐天皇の理念によって主導されている。天皇が鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を行った際の理念は、延喜・天暦の治と呼ばれた醍醐天皇村上天皇が親政を行っていた時代の理想的な政治を復古することにあった。しかし単純な復古主義ではなく、天皇の「朕が新儀は未来の先例たるべし」という立場によっていた。すなわち、万事前例を重んじる公家たちに対して、前例なき政策(新儀)を果敢に行って中国を参考にして天皇の権力を至高化するものであった(新田一郎『太平記の時代』)。具体的には公家の人事における家格制度と官司請負の廃止、所領授与権の天皇一元化等が挙げられる。湊川の戦いで建武政権の軍が足利尊氏に敗れて天皇はいったん退位を余儀なくされるが、光明天皇に渡した三種の神器は偽物であると宣言して吉野で朝廷を再建した。こうして北朝と南朝が並立することになった。その背景にはこういった理念があったと考えられる。

後醍醐天皇没後の南朝の理念を主導したのは北畠親房である。親房は家格を無視した後醍醐帝の人事を批判して歴史的な官職秩序の尊重を求めているが、能力による人材登用を重んじる点については帝の理念を引き継いでいる。また北朝の天皇は三種の神器を持たない即位であったと正統性を否定し、『神皇正統記』を著して神話の世界以降の皇統の連続性に大義を求め、軍事行動の度に恩賞を求める武士たちの価値観を「商人の所存」と切り捨てた(新田一郎、同書)。

後南朝

前述の通り、後亀山天皇の譲位によって南北朝合一は果たされたものの、この時結ばれた「北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)から交代で天皇を出す(両統迭立)」という約束はその後も果たされる事はなく、以降も20年以上に亘って北朝系により天皇位が独占されるという状態が続く事となった。
こうした流れに対する反発から、北畠氏など反室町幕府の勢力が後亀山上皇や、南朝の後胤を擁して起こした南朝復興運動、そしてそれに伴い樹立された政権・皇室を指すのが「後南朝」である。

後南朝勢力は15世紀初めから後半にかけて度々朝廷・幕府に反旗を翻しているが、中でも有名な事件としては嘉吉3年(1443年)に発生した「禁闕の変」が挙げられる。嘉吉の変に端を発したの幕府内外の混乱に乗じて引き起こされたこの一件で、後南朝勢力は禁裏より三種の神器の一つである神璽の奪取に成功しているが、長禄元年(1457年)に主家再興を悲願とする赤松氏遺臣らによって神璽は奪還され、後南朝勢力も手痛い打撃を蒙る事となる(長禄の変)。
やがて応仁の乱の最中、南朝皇胤の一人が山名宗全らの要請を受ける形で西軍側の天皇として迎えられる(西陣南帝)も、東西両軍の和睦交渉が進むに従ってこの南朝皇胤も西軍から放擲され、後南朝勢力も16世紀に入るまでには歴史の表舞台から姿を消していったのである。
もっともその後も民間伝承・伝説の域を出ないものの、後南朝の流れを汲む勢力が各地に現れては消えを繰り返していたようで、近世以降も熊沢天皇(熊沢寛道)のように後南朝の末裔を称する人物が度々現れている。

中国の南朝

中国では北魏が華北を統一した439年から589年のによる中国統一までの時代に、華南に興亡した以下の4王朝を指す。

(劉氏)
(南斉/蕭氏)

(氏)

それに先立つ(三国時代の)が南遷して成立した東晋(司馬氏)も含めて六朝ともいう。

ベトナムの南朝

ベトナムにおける南朝は、16世紀前半に分裂した黎朝(前黎朝)のうち、北中部のタインホアを中心に勢力を構えた王朝を指す。
北部の東京(現在のハノイ)を拠点とした北朝(莫朝)との60年に亘る抗争の末、1592年に南朝が北朝を降し一応の再統一がなされた(後黎朝)が、その後も南朝の中核を担っていた鄭氏と阮氏との間で、長きに亘って内紛が続く事となる。

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