国家の君主が、その地位を後継者(皇太子など)に譲り渡すこと。
「生前退位」と呼称するものもいるが、これは不敬な呼称で大変失礼な言い方であり、この「譲位」が正しい言い方である。
また、譲位により位を譲った天皇は『太上天皇』と呼ばれる。
日本
飛鳥時代
日本においてもっとも古い譲位は飛鳥時代にさかのぼる。第35代皇極天皇(女帝)は皇位争いのさなかにあって妥協の産物として即位、女帝の治世は蘇我氏の専横とこれに反対する中大兄皇子(後の天智天皇)ら皇族と中臣鎌足ら反主流派貴族の対立が先鋭化、645年、「乙巳の変」において中大兄皇子、中臣鎌足らは天皇の御前で蘇我入鹿を殺害、蘇我氏を滅亡させた。このクーデターにショックを受けた皇極天皇は弟・軽皇子(孝徳天皇)に譲位、これが日本史上、初めて天皇が「譲位」した例で、以後、即位した天皇の約半数は皇太子に譲位することとなった。
壬申の乱
671年12月、天智天皇が崩御すると皇太弟・大海人皇子と天智天皇の子・大友皇子の間に皇位争いが起こり、672年、軍事衝突に発展、戦いは大海人皇子(天武天皇)が勝利し、大友皇子は命を失うこととなった。ここで問題になるのは大友皇子の生前の地位で、中には即位していたのではないかとの説もあった。明治3年(1870年)、明治政府は大友皇子に「弘文天皇」との称号を贈り、現在、皇統にもその名を連ねている。こうすることによって叔父の天武天皇が甥の「弘文天皇」に天皇位を強制的に「譲位」させたとの解釈も成り立っている。
平安時代
平安時代になると藤原摂関家は娘を時の天皇に娶せることによって天皇家の外戚となって政権を総攬した。これによって藤原氏は利用価値のなくなった天皇を血のつながりの濃い皇子に「譲位」させ、朝廷の実権を握りつづけた。
治天の君
治暦4年(1068年)、藤原摂関家と血のつながりが薄い後三条天皇が即位し実権を握ると、それまでの「譲位」の条件も変質した。天皇の子である白河法皇は摂関家の勢力を徹底的に排除、鳥羽天皇、後白河天皇は譲位後も実権を握りつづけ(院政)、平家の滅亡後も朝廷の実権を握っていた後鳥羽上皇が「承久の乱」で敗れて隠岐に流されるまで鎌倉幕府と対等に渡りあった。
明治維新まで
これ以降も朝廷内において上皇・法皇による院政は行われたが全国に波及することはなく、現在のところ、文化14年(1817年)、光格天皇が恵仁親王(仁孝天皇)に譲位したのが最後となっている。
平成時代
平成28年(2016年)8月8日、明仁天皇は「高齢と健康不安によるお言葉」を表明、譲位について国民による議論を求められた。
平成29年(2017年)6月16日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を公布。これによって、天皇は平成31年(2019年)4月30日に退位、翌日の5月1日に皇太子徳仁親王が新天皇として即位し、元号も令和に改められることとなった。
退位の儀式「退位礼正殿の儀」は、憲法で定める国事行為として行うとした。しかし、伝統に則ると譲位の宣命後は速やかに次の天皇に三種の神器を継承することになっていたが、国民に分かりやすい形にするため「退位の礼」と「剣璽等承継の儀」を分離した。このことに対して一部保守勢力からは反発があった。
また、政府は天皇が自分の意思で位を譲るのでなく、本法によって退位するという立場を採るため「譲位」ではなく「退位」という表現で統一する方針となったが、これについても「不敬」として反発があった。
退位礼正殿の儀は以下の通りに行われた。
日時:2019年4月30日17時~17時10分