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光格天皇

こうかくてんのう

江戸時代の第119代天皇。閑院宮家の出身で、現在の皇統の祖となった。
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在位中の元号は安永、天明、寛政、享和、文化。まさに江戸時代の文化の爛熟期である。中世以来絶えていた朝廷の儀式の多くを復興させ、皇室の権威の復権につとめた。


生誕と天皇践祚編集

明和8年(1771年)、閑院宮典仁親王の第六王子として生誕、諱を師仁、のち兼仁(ともひと)という。誕生後すぐに聖護院宮忠誉入道親王のもとに預けられ、ゆくゆくは聖護院門跡を継いで出家することを期待されていた。


安永8年(1779年)10月、第118代・後桃園天皇22歳で崩御すると還俗、天皇の養子となって践祚、皇后に後桃園天皇・唯一の皇女・欣子内親王を迎えることで皇位を継承した。


尊号事件編集

光格天皇が皇位に就くことができず、摂政、大臣以下の地位に留め置かれていた実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしたところ、江戸幕府は「禁中並公家諸法度」を理由に反対、一時関係が悪化した事件である。

当時、幕府は11代将軍徳川家斉の時代で、実権は老中首座・松平定信が握っていた。天皇の意向を受けた定信は、「たとえ後高倉院や後崇光院の前例があろうと、名分を乱すことは許されない」として強く反対し、幕閣の意見も朝廷の申し出を認めないことで一致した。

幕府は表向き朝廷の意向に異を唱えたが、水面下では定信が天皇の叔父にあたる関白鷹司輔平に書簡を宛てて真意を伝えるなど、朝幕関係の悪化に歯止めをかけるべくさまざまな配慮を見せ、寛政3年(1791年)、朝廷はいったん尊号賦与を断念する姿勢を見せている。

しかし、関白に一条輝良が就任すると状況は一変、朝廷は再び尊号の賦与を主張、翌寛政4年(1792年)、朝廷は幕府に申し入れを行い、再三にわたり回答を督促する行為に出た。そこでやむなく幕府は尊号賦与の延期を伝え、議奏・武家伝奏の江戸下向を命ずる厳しい態度に出た。結局、幕府の処断により尊号賦与は阻止されたが、同時に典仁親王には千石加増も認め、幕府は一定の配慮を朝廷に見せた。


なお、維新後の明治17年(1884年)、閑院宮典仁親王は明治天皇の高祖父にあたることから「慶光天皇(きょうこうてんのう)」と諡号と「太上天皇」の尊号が贈られた。


仁孝天皇に譲位、崩御編集

文化14年(1817年)、天皇は第六皇子・恵仁親王(後の仁孝天皇)に譲位してのち、天保11年(1840年)11月に崩御、後月輪陵(京都府東山区)に葬られた。存命中に皇位を譲った例は、現在の明仁上皇陛下までおよそ200年もの間存在しなかった。


天保12年1月27日(1841年2月18日)、朝廷は62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。


皇統編集


補足編集

現存する天皇家は光格天皇を祖としている。出身であった閑院宮家は「旧皇族」として昭和22年(1947年)に皇籍離脱となった。


TwitterをはじめとしたSNSでは、「旧皇族現在の天皇家の600年前の親戚である・宮家創設は600年ほど遡る」などというコメントを見かけるが、血筋を考えればこれは大きな誤りである。


関連タグ編集

朝廷 天皇 上皇 江戸幕府 閑院宮

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