閑院宮
かんいんのみや
概要
宝永7年(1710年)、江戸幕府に仕える新井白石は皇統の継承のため朝廷に新たな親王家(宮家)を創設することを提言、太政大臣・近衛基熙も周旋に動き、第113代・東山天皇の第六皇子・直仁親王に所領1000石をもって新たに家を興し創設されることとなった。
その後、皇統は天皇家直系に継承されていたが、安永8年(1779年)、第118代・後桃園天皇が崩御すると、ほかに皇統を継ぐべき人物がいないことから閑院宮家二代・閑院宮典仁親王の第六皇子・師仁親王が即位(第119代・光格天皇)、皇后は後桃園天皇の皇女・欣子内親王を迎えることとなった。
天皇は性格温厚な人となりで知られ、朝廷の儀式の復興と、石清水社や賀茂社の臨時祭の復活に勤め、学問にもはげんだ人物として知られるが、「尊号事件」を起こしたことでも知られる。
幕末まで閑院宮家は続いたが五代・愛仁親王には後嗣がなく、親王の母・吉子を家主同格として相続、明治5年(1872年)、伏見宮邦家親王の子・易宮(後の載仁親王)が相続、昭和22年(1947年)、七代・春仁王の皇籍離脱により「閑院家」となった。
現存する天皇家は光格天皇を祖としていることから、閑院宮家の系統でもある。
「尊号事件」
「尊号一件」とも。光格天皇は自身の即位後、父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」号を贈ることを幕府に諮ったが、幕府は「禁中并公家諸法度」に反するとしてこれに反対、一時、朝廷との関係が悪化する事態となった。
老中・松平定信をはじめとする幕閣は、「たとえ後高倉院(平安時代末期、第86代・後堀河天皇の父・守貞親王)や後崇光院(室町時代、第102代・後花園天皇の父・伏見宮貞成親王)の前例があろうと、名分を乱すことは許されない」として反対したが、水面下では天皇の叔父である関白・鷹司輔平に書簡を贈り、朝幕関係悪化に歯止めをかける配慮を示し、寛政3年(1791年)には朝廷も尊号賦与を断念する姿勢を見せ、事態は沈静化するかと思われた。
しかし、輔平に代わって一条兼良が関白に就くと問題が再燃し幕府に尊号賦与を要求、翌寛政4年(1792年)、督促が重なったことに業を煮やした幕府は議奏、武家伝奏に江戸下向を命じて処断、尊号賦与を阻止する強硬手段に出た。しかし、その一方で幕府は典仁親王に1000石を加増し、朝廷を慰撫する策も講じている。
また、幕府が殊更にこれを阻止した手前、時の11代将軍・徳川家斉の父・徳川(一橋)治済を大御所待遇とすることが出来なくなってしまった(大御所の称号は将軍を退いた先代に与えられるものとされていたが、家斉は父・治済を江戸城に迎え入れる大義名分としてこの前例を覆すことを画策していた)。
元々尊号一件の原因となったのは、御三卿筆頭・田安家の出身である老中・松平定信と、これ以上の権力拡大を目指す一橋家2代・一橋治済の対立によるものが大きいという説があり、即ち「治済の大御所待遇を防ぐ名分として、典仁親王への尊号賦与を強硬に反対したのではないか」とも言われている。
1884年(明治17年)、閑院宮典仁親王は明治天皇の高祖父ということもあって「慶光天皇」の̪諡号と「太上天皇」の尊号を贈られたが、「歴代天皇」の代数には加えられていない。