通常は天皇を守る藩屏(守護者)として機能しているが、皇位にもしものことがあれば、男系によって皇位を継承するために設けられている世襲の親王家である。
第102代後花園天皇は、宮家の1つ伏見宮家の、第119代光格天皇は閑院宮家の出身である。
現存する宮家
秋篠宮
次期当主:悠仁親王
2020年(令和2年)現在の皇室において次期当主が存在するのは秋篠宮家のみであるが、今上天皇に男子がいない現状では将来的に秋篠宮家の長系に属する男子が天皇に即位する立場にある。
常陸宮
戦後、最初に誕生した宮家。正仁親王妃華子との間に子供はいないため、絶家することが確定している。
三笠宮
当主(代行):崇仁親王妃百合子(実質的な代行業務は寬仁親王第1女子彬子女王が行う)
次期当主であった第1男子寬仁親王は2012年(平成24年)に、当主であった崇仁親王(大正天皇第4皇子)は2016年(平成28年)に薨去しており、2020年(令和2年)現在、正式な後継が不在の状態であり絶家が確定している。崇仁親王は満100歳没と、記録の確かな皇族(臣籍降下したものを除く)としては最長寿の皇族であった。
高円宮
当主(代行):憲仁親王妃久子
当主であった憲仁親王(三笠宮崇仁親王第3男子)は2002年(平成14年)に薨去しており、絶家が確定している。
戦後すぐの皇籍離脱以後は大正天皇の子、昭和天皇の弟にあたる3家のみであったが、後に昭和天皇家から常陸宮家、三笠宮家から桂宮家、高円宮家、今上天皇家から秋篠宮家が独立した。ただし桂宮家は2014年(平成26年)に絶家した。
かつて存在した宮家
秩父宮
大正天皇の第2皇子雍仁親王が創設したが、1995年(平成7年)雍仁親王妃勢津子の薨去により絶家。2020年(令和2年)現在、秩父宮ラグビー場等にその名が残されている。
高松宮
元々は有栖川宮家であり、熾仁親王もここの出身。1913年(大正2年)に威仁親王の薨去により、大正天皇の第3皇子宣仁親王が高松宮に改称し祭祀を継承したが、2004年(平成16年)宣仁親王妃喜久子の薨去により絶家した。
桂宮
崇仁親王の第2皇子宜仁親王が独身のまま創設(2代目の桂宮家)したが、2014年(平成26年)に薨去し、絶家した。
この他、戦前には小松宮家、華頂宮家などが断絶した。
四世襲親王家(四大宮家)
伏見宮、桂宮(旧)、閑院宮、有栖川宮の四家を指す。
狭義の世襲親王家はこの四家とされる。何れも江戸時代以前に成立し、皇室本家に万一のことがあった場合に次の天皇を出すために家系が温存された四つの宮家のこと。
これ以外にも室町時代以前に存在した宮家や、南北朝以降の南朝系の宮家などがあったが、南北朝合一以降、南朝系の宮家は根絶やしにされ、戦国時代には伏見宮家一家のみが残った。
その後桃山時代に誠仁親王(陽光太上天皇)の子で、後陽成天皇の弟にあたる智仁親王が八条宮を設立。これは親王が豊臣秀吉の猶子として関白職の継嗣として定められていたが、秀吉の実子・鶴松が産まれたために約束が解かれ、その代わりに宮家を立てることとなったものである。
続いて江戸時代に入ると、後陽成天皇の第7皇子の好仁親王が高松宮(旧)を創設。徳川宗家も含め武家各家とも関係を深めた。なお、好仁親王には子が無かったため、大甥(兄・後陽成帝の孫、後水尾天皇の第8皇子)の良仁親王が継承し、花町宮(花町殿)を名乗る。
親王はその後践祚して後西天皇となるが、皇室の後継ぎは異母弟で、兄後光明天皇の養子となっていた識仁親王(後の霊元天皇)と決まっていたため、識仁親王が成長するまでの中継ぎであった。実子は皇位を継がず、宮家を継承。更に有栖川宮へと名を改めている。
更に江戸時代中期、皇統の断絶を危惧した新井白石により更なる宮家の増設が提案され、東山天皇第6皇子の直仁親王によって閑院宮家が創設、これで4世襲親王家体制が完成した。この閑院宮家から光格天皇が出ており、現在に至るまでその血筋が続いている。
その後、後西天皇の血統は孫までで断絶し、以後は霊元天皇の皇子・職仁親王が継承、以後はその血筋で大正時代まで続いた。
八条宮の血統は長く続かず、断絶に伴い常磐井宮→京極宮→桂宮と改称するが、末期には殆ど夭折の当主ばかりであった。しかし宮家最大の資産(石高3000で、摂関家の近衛家を抜いて公家・皇族で最多、他に桂離宮などの施設)を有する宮家としてあくまで続いている宮家として扱った。しかし明治時代を最後に空主のまま、皇室典範の施行により正式に断絶している。
閑院宮家は天皇輩出後も初代の血筋が続いたが、江戸末期に当主が早世して後継ぎが途絶え、伏見宮家から養子が出て継承されている。
4世襲親王家は天皇の後継ぎ不在時に代わりの者を輩出するという設立目的を果たしたと言えるが、現在もその血筋が初代の系統である家は伏見宮家のみであった。
皇籍離脱した11宮家
終戦直後の1947年(昭和22年)10月14日、連合軍最高司令官総本部(GHQ)の意向により、大正天皇直系に当たる秩父宮家、高松宮家、三笠宮家を除いて、直宮家でない11宮家は皇族の身分を離れることになった。財産は一部を除いて没収されたため、その後数奇な運命をたどった旧・宮家も存在する。
伏見宮
11宮家の本家に当たる宮家であり、約400年の歴史を有する。
皇籍離脱までは「世襲宮家の中で一番格上の家系」と見做されてる事が多かった。
北朝3代崇光天皇の第1皇子、栄仁親王が創設者。第3代貞成親王の子が御花園天皇であり、天皇の弟が第4代貞常親王である。家紋は裏菊で、皇室本家の菊紋とは表裏一体である。江戸時代の四世襲親王家のうち唯一戦後まで同じ血統で存続していた。
2020年(令和2年)現在、26代目当主伏見博明氏には女子3名しかいないため男系断絶が確定。分家である華頂侯爵家(華頂宮家の祭祀を華族として継承)、伏見伯爵家には男子がいるとされる(博明氏本人を除き男系子孫で最も長系にあたるのは、華頂家当主で日本映画製作者連盟事務局長の華頂尚隆氏)。
山階宮
伏見宮家第20代当主邦家親王の第1王子、晃親王によって創設された。
晃親王は邦家親王14歳の時の庶子であり、長く仏門にあった。山階鳥類研究所は山階宮家によって創設された。宮家の本家は既に断絶しているが、筑波家などの分家がある。
男系子孫で最も長系にあたる筑波家の現当主・筑波常遍氏は真言宗僧侶で勧修寺長吏(初代・晃親王も元は勧修寺の門跡)。常遍氏の弟・和俊氏は神職で掌典次長(宮内庁→内廷掌典職)。
北白川宮
伏見宮邦家親王の第9王子、嘉言親王が聖護院宮として、次いで第13王子智成親王、続いて第9王子、能久親王によって継承された。現在の家系は能久親王の子孫。
能久親王は戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟に担がれ、東武皇帝または東武天皇として即位したという説があった。そのためか弟が宮家を創設しても暫く能久親王は謹慎させられたという。後に台湾出兵時に現地のマラリアに感染して死去。戦前は悲劇の宮家として知られ、歴代当主が皆早死にする家系と言われた。
2018年(平成30年)に当主であった北白川道久氏が81歳で薨去したことにより絶家した。男系の続く分家では竹田宮家の他に小松侯爵家(小松宮家の祭祀を継承)などがあり、小松家当主の小松揮世久氏は前伊勢神宮大宮司。
竹田宮
北白川宮能久親王の第1王子、恒久王によって創設された。
王は能久親王の庶子であったことから独立している。二代目の恒徳王はスポーツの宮様の愛称で知られ、後にIOC委員などを務めた。本家当主は竹田恒正氏で日本ゴルフ協会会長。恒徳王の三男がJOC会長・IOC委員の竹田恒和氏、その長男が竹田恒泰氏である。恒徳王の元に産まれた三男子全員に男子孫がある。
宮家・華族として分家した家が他になく、竹田宮家の成員は他家に嫁いだ者を除き全員が竹田姓である。
久邇宮
中川宮の時代は世襲親王家ではないため、親王が創設までに名乗った宮号は個人としての宮号で、この久邇宮の創設でやっと一家を持つことを許された。
父の邦家親王同様、多くの宮家が分家している。皇族の復籍問題で名前があげられる賀陽宮家・東久邇宮は共に久邇宮家の分家である。また昭和天皇の皇后、香淳皇后はこの宮家の出身(2代当主邦彦王の第1王女)であり、現当主久邇邦昭氏と上皇は従兄弟の関係に当たる。
邦昭氏は2023年現在皇籍離脱した旧宮家成員で最長寿の男性で、元伊勢神宮大宮司、神社本庁統理。また次期当主である久邇朝尊氏は現大宮司で、親子でこの職に就いたことになる(創設者の朝彦親王も神宮の祭主をつとめた)。
華族としての分家に久邇侯爵家、東伏見伯爵家(東伏見宮の祭祀を継承)。他に宇治伯爵家、龍田伯爵家があるが、これらは2代・邦彦王の弟で別に一家を持つことを許された多嘉王の末裔である。
賀陽宮
久邇宮朝彦親王の第2王子(第1王子は死産)、邦憲王によって創設された。
親王は病弱であったために久邇宮の継嗣から外れたものの、後に宮家創設が認められた。宮家の名はかつて朝彦親王が一時期名乗った宮号に由来する。
宮家としての末裔は3代・賀陽邦寿氏の逝去で(旧典範の規定に従えば)断絶した形となったが、宮家成員の男子の多くが未成年(2代・恒憲王には弟はいないが、6人の男子がいた)ため華族としての分家が無く、邦寿氏の甥である賀陽正憲氏が継いでいる形となっている。正憲氏は元・宮内庁の役人で、皇籍復帰の対象にあげられたことがある。
前述の通り宮家・華族として分家した家が他になく、賀陽宮家の成員は他家に嫁いだ者を除き全員が賀陽姓である。
朝香宮
久邇宮朝彦親王の第8王子、鳩彦王によって創設された。
現在も男系で続いている宮家の一つで、また旧邸宅が美術館となり同館の特別顧問を務めているためか、戦後も比較的安定した生活を続けている。
分家は音羽侯爵家であるが戦前に断絶している。
東久邇宮
久邇宮朝彦親王の第9王子、稔彦王によって創設された。
稔彦王は皇族としては唯一の首相経験者である。また首相経験者として生没年が明確なものとしては世界一長生きした人物(満102歳没)でもある(皇族出身者としては2013年(平成25年)に甥にあたる東伏見慈洽氏に記録を破られている)。
稔彦王の第1王子盛厚王に、昭和天皇の第1皇女成子内親王(今上天皇の姉)が嫁いだため、双系継承の面で見れば明治天皇以降で最も長子に近い血統を有する。なお盛厚王の第1王子信彦王、信彦王の長男で現当主の征彦氏は、それぞれ昭和天皇の初孫、初曾孫である。
他に分家として粟田侯爵家、多羅間家、壬生伯爵家、寺尾家などがある。なお粟田家を除き元々あった他家への養子入りによってこの姓となった者であり、他の成員は全て東久邇姓を名乗る。
東伏見宮
伏見宮邦家親王の第17王子、依仁親王が創設した。
親王は長兄である山階宮晃親王の養子となったが、後に8兄である小松宮彰仁親王の養子となる。兄といっても、晃親王とはなんと51歳も年の離れた兄弟であった。小松宮を継承する予定だったが、仲の悪さから新たに東伏見宮を創設し独立した。継承者はおらず、戦前の親王の薨去で既に絶家が確定していた。
皇籍離脱後間もなく親王妃の薨去で絶家したが、生前より養育していた久邇宮出身の邦英王が既に戦前に東伏見伯爵として祭祀を継承していたため、以後はそちらが実質的な後継となる。後の京都仏教会の長で、皇族史上最高齢を記録した東伏見慈洽僧侶(2014年(平成26年)に103歳で逝去)である。
梨本宮
伏見宮邦家親王の弟にあたる守脩親王によって創設、その後久邇宮朝彦親王の第4王子、守正王によって継承された。
守正王の娘が朝鮮王室の最後の当主、李王垠の妃である方子女王。宮家は離脱後間もなくの守正王薨去で絶家、「梨本家」としては守正王の甥で久邇宮別家出身にあたる龍田徳彦元伯爵が継承したが、更にその死後は龍田氏の実子(龍田氏は妻子を置いて単独で守正王未亡人の伊都子氏(元王妃)に養子縁組したため、龍田氏の長男は今でも龍田姓である)ではなく皇室と無縁の養子が後を継いだ為、実質絶家となる。
守脩親王、守正王共に男子が産まれなかったため宮家としての分家は無い。龍田家は現存しているが前述の通り血統上は久邇宮家の別家扱い(守正王の弟の血筋)である。
閑院宮
東山天皇の第6皇子、直仁親王によって創設され、明治になって家系が断絶すると伏見宮邦家親王の第16王子、載仁親王が継承した。
四世襲親王家の一つで、現在の皇室のルーツでもある(旧・閑院宮の男系として存続しているのは現・皇室成員のみ)。
閑院宮家自体は離脱後の1988年(昭和63年)に当主純仁氏の薨去で絶家している。純仁氏には兄がいたが夭折しており、現皇室と分かれて載仁親王が継承して以降の分家は無い。
女性宮家
皇位継承問題の際に、出される策の一つとして女性宮家が挙げられる。女性皇族は、婚姻後皇籍を離脱することになっている。2020年(令和2年)現在の皇室典範上、皇族の減少に伴いご公務の負担も増加するため、内親王・女王が婚姻しても皇室に留まり宮家を創設して活動するというものである。2020年(令和2年)現在の三笠宮家や高円宮家は当主たる親王が薨去されその妃が当主代行を務めているため、女性宮家とは言わない。
女性宮家は皇族の減少を食い止めるとともに、皇統が安定するという一方で、内親王と夫(王配)との間に産まれた子供の身分や終身宮家にするか一定期間の宮家とするかなどの制度上の問題や、延いては女系天皇の誕生に拍車を掛けるなど保守勢力からの反発もある。
宮家に準じる扱いをされた家系
白川伯王家
花山天皇の孫・延信王を始祖とする源氏(花山源氏)だが、神祇官(朝廷の祭祀を司る役所)の長官である神祇伯は、代々、この白川伯王家から出す慣習が有り、明治維新までは、伯王家出身の神祇伯は非皇族でありながら皇族にしか宣下されない「王」号を宣下された。
李王家
明治時代に朝鮮半島が日本の植民地となって以降、李氏朝鮮の王族が日本において「華族と皇族の中間」的な特別な扱いを受けた。
終戦まで「健康上の問題などの特別な理由無き限り、男子は軍務に就く義務を有する」など、宮家を含めた皇族に準ずる権利・義務を有した。
なお、李氏朝鮮の王族およびその子孫の中でも、このような扱いを受けたのは本家(王族)と2つの分家(公族)であり、まとめて「王公族」とも呼ばれた。
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