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宮家

みやけ

日本において、宮号を賜った皇族の一家のこと。
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通常は天皇を守る藩屏(守護者)として機能しているが、皇位にもしものことがあれば、男系によって皇位を継承するために設けられている世襲の親王家である。
第102代後花園天皇は、宮家の1つ伏見宮家の、第119代光格天皇閑院宮家の出身である。

現存する宮家

秋篠宮

当主:文仁親王
次期当主:悠仁親王
現在の皇室において次期当主が存在するのは秋篠宮家のみであるが、皇太子家に男子がいない現状では将来的に秋篠宮家の長系に属する男子が天皇に即位する立場にある。

常陸宮

当主:正仁親王

三笠宮

当主(代行):崇仁親王妃百合子(実質的な代行業務は寬仁親王第一女子彬子女王が行う)
次期当主であった寬仁親王は2012年に、当主であった崇仁親王は2016年に薨去しており、現在正式な後継が不在の状態である。崇仁親王は満100歳没と、記録の確かな皇族(臣籍降下したものを除く)としては最長寿の皇族であった。

高円宮

当主(代行):憲仁親王妃久子

戦後すぐの皇籍離脱以後は大正天皇の子、昭和天皇の弟にあたる3家のみであったが、後に昭和天皇家から常陸宮家、三笠宮家から桂宮家、高円宮家、今上天皇家から秋篠宮家が独立した。ただし桂宮家は2014年に断絶した。

皇籍離脱した十一宮家

終戦直後の1947年(昭和22年)10月14日、連合軍最高司令官総本部(GHQ)の意向により、大正天皇直系に当たる秩父宮家高松宮家三笠宮家を除いて、直宮家でない十一宮家は皇族の身分を離れることになった。財産は一部を除いて没収されたため、その後数奇な運命をたどった旧宮家も存在する。

伏見宮家

十一宮家の本家に当たる宮家であり、約400年の歴史を有する。
北朝3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王が創設者。第3代貞成親王の子が御花園天皇であり、天皇の弟が第4代貞常親王である。家紋は裏菊で、皇室本家の菊紋とは表裏一体である。江戸時代の四世襲親王家のうち唯一戦後まで同じ血統で存続していた。

山階宮家

伏見宮邦家親王の第一王子、晃親王によって創設された。
晃親王は邦家親王14歳の時の庶子であり、長く仏門にあった。山階鳥類研究所は山階宮家によって創設された。宮家の本家は既に断絶しているが、筑波家などの分家がある。

賀陽宮家

久邇宮朝彦親王の第二王子(第一王子は死産)、邦憲王によって創設された。
親王は病弱であったために久邇宮の継嗣から外れたものの、後に宮家創設が認められた。宮家の名はかつて朝彦親王が一時期名乗った宮号に由来する。現当主の賀陽正憲氏は元宮内庁の役人で、皇籍復帰の対象にあげられたことがある。

久邇宮家

伏見宮邦家親王の第四王子、中川宮朝彦親王が創設者。
中川宮の時代は世襲親王家ではないため、親王が創設までに名乗った宮号は個人としての宮号で、この久邇宮の創設でやっと一家を持つことを許された。
父の伏見宮同様、多くの宮家が分家している。皇族の復籍問題で名前があげられる賀陽宮家・東久邇宮は共に久邇宮家の分家である。また昭和天皇の皇后、香淳皇后はこの宮家の出身である。

梨本宮家

伏見宮邦家親王の弟にあたる守脩親王によって創設、その後久邇宮朝彦親王の第四王子、守正王によって継承された。
守正王の娘が朝鮮王室の最後の当主、李王垠の妃である方子女王。宮家は離脱後間もなくの守正王薨去で断絶、「梨本家」としては守正王の甥で久邇宮別家出身にあたる龍田徳彦元伯爵が継承したが、更にその死後は龍田氏の実子ではなく、皇室と無縁の養子が後を継いだ。

朝香宮家

久邇宮朝彦親王の第八王子、鳩彦王によって創設された。
現在も男系で続いている宮家の一つで、また旧邸宅が美術館となり、同館の特別顧問を務めているためか、戦後も比較的安定した生活を続けている。同家に限らず、邸宅がプリンスホテルの抵当に入っている宮家などは、堤康次郎らの援助で生活が安定している家が多い。

東久邇宮家

久邇宮朝彦親王の第九王子、稔彦王によって創設された。
稔彦王は、皇族としては唯一の首相経験者である。また、首相経験者として生没年が明確なものとしては世界一長生きした人物(満102歳没)でもある。皇族出身者としては2013年に甥にあたる東伏見慈洽氏に記録を破られている。稔彦王の第一王子盛厚王に、昭和天皇の第一皇女成子内親王(今上天皇の姉)が嫁いだため、双系継承の面で見れば明治天皇以降で最も長子に近い血統を有する。現当主は盛厚王の第一王子信彦王(東久邇信彦)、昭和天皇の初孫でもある。稔彦王が大変長命であった反面、盛厚王と成子内親王夫妻は早くに亡くなり、祖父から孫に継承された。

北白川宮家

伏見宮邦家親王の第二王子、嘉言親王が聖護院宮として、次いで第十三王子智成親王、続いて第九王子、能久親王によって継承された。現在の家系は能久親王の子孫。
能久親王は戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟に担がれ、東武皇帝または東武天皇として即位したという説があった。そのためか弟が宮家を創設しても暫く能久親王は謹慎させられたという。後に台湾出兵時に現地のマラリアに感染して死去。
戦前は悲劇の宮家として知られ、歴代当主が皆早死にする家系と言われた。現当主道久王は3歳で家を継承、10歳で皇籍を離脱したが、幸いにも21世紀の今も存命である。ただし男子の跡継ぎはいない。

竹田宮家

北白川宮能久親王の第一王子、恒久王によって創設された。
王は能久親王の庶子であったことから、独立している。二代目の恒徳王はスポーツの宮様の愛称で知られ、後にIOC委員などを務めた。恒徳王の三男がJOC会長・IOC委員の竹田恒和氏、その長男が竹田恒泰氏である。

閑院宮家

東山天皇の第六皇子、直仁親王によって創設され、明治になって家系が断絶すると伏見宮邦家親王の第十六王子、載仁親王が継承した。
四世襲親王家の一つで、現在の皇室のルーツでもある(旧閑院宮の男系として存続しているのは現皇室成員のみ)。閑院宮家自体は離脱後の1987年に当主の薨去で断絶している。

東伏見宮家

伏見宮邦家親王の第十七王子、依仁親王が創設した。
親王は長兄である山階宮晃親王の養子となったが、後に八兄である小松宮彰仁親王の養子となる。兄といっても、晃親王とはなんと51歳も年の離れた兄弟であった。小松宮を継承する予定だったが、仲の悪さから新たに東伏見宮を創設し独立した。継承者はおらず、戦前の親王の薨去で既に断絶が確定していた。
皇籍離脱後間もなく親王妃の薨去で断絶したが、生前より養育していた久邇宮出身の邦英王が既に戦前に東伏見伯爵として祭祀を継承していたため、以後はそちらが実質的な後継となる。後の京都仏教会の長で、皇族史上最高齢を記録した東伏見慈洽僧侶(2014年に103歳で逝去)である。

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