生没年 承応3年(1654年)~享保17年(1732年)8月
第108代・後水尾天皇の第十九皇子。羽林家・園家13代当主・園基音の娘・国子を母として生誕。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)という。第109代・明正天皇は異母姉、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇は異母兄にあたる。
即位から譲位まで
生後間もなく四兄・後光明天皇の養子とされ皇位継承者とみなされるが、直後に天皇は崩御、朝廷は識仁親王が成長するまでの間、式部卿を務めていた八兄・良仁親王が皇位を継承をすることとなった(後西天皇)。
寛文3年(1663年)、後西天皇の譲位を受けて即位。貞享4年(1687年)、第四皇子・朝仁(あさひと)親王に譲位(第113代・東山天皇)、仙洞御所において院政を開始した。
政治姿勢
幕府に対して強硬な姿勢をとることが多く、貞享元年(1684年)に退位の意向を示したときには5代将軍・徳川綱吉から慰留されたほか、幕府の意をくむ関白・近衛基熙とも対立、幕府の介入を招いて院政の停止を余儀なくされ、東山天皇に政務をゆだねることとなった。
その後、息子の中御門天皇に皇位を譲っていた東山上皇が急死したことから、院政の再開を求められている。6代将軍・徳川家宣の病死の後、後継として息子の鍋松が残されていたが、将軍家の後継者は必ず父の将軍から名前を与えられて元服をしなければならない、というルールがあった。困った幕閣は朝廷に相談した結果、将軍よりも上位者である天皇か上皇であれば差支えが無いという結論に達し、霊元上皇が鍋松に「徳川家継」という名前を授けて無事7代将軍に就くことが出来た。形式的とは言え霊元上皇が家継の後見人になったことから、幕府と朝廷との間で関係強化を進める動きが高まり、上皇の第13皇女である八十宮吉子内親王を家継の婚約者とすることになった(なお、この時家継は7歳、吉子は2歳)。しかし、家継はわずか8歳で病死し、皇女の将軍家への降嫁は14代将軍・徳川家茂の時代まで先送りにされることになった。
事績
有職故実に明るいことで知られる。太嘗祭をはじめとする朝廷儀礼の復活に力を尽くし、諸記録類を整理した『法皇八十御賀記』を撰したほか、歌道にも励んでいる。
享保17年(1732年)8月崩御、月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。
諡号
諡号としては本来、「幽」や「霊」は中国でも国を傾けた君主に対して贈られる、きわめて縁起の悪い諡号として忌避されているが、霊元天皇は国を滅ぼしたわけでも、傾けたわけでもない。
これには天皇の意思が反映されており、みずから神話時代(欠史九代)の第7代・孝霊天皇から「霊」と第8代・孝元天皇から「元」を選び、諡号とされたそうである。
皇統
- 典侍:坊城房子 ー 坊城俊広の娘
・憲子内親王 ー 近衛家熙室
- 典侍:小倉実起の娘
・済深法親王
・朝仁親王(第113代・東山天皇)
・福子内親王 ー 伏見宮邦永親王室
・永秀女王
・梅宮
・勝子内親王
・清宮
- 掌侍:愛宕福子 ー 愛宕通福の娘
・寛隆法親王
・綱宮
- 掌侍:五条庸子 ー 五条為庸の娘
・三宮
・尭延入道親王
・台嶺院宮
- 掌侍:東久世博子 ー 東久世通廉の娘
・徳宮
・力宮
- 後宮:西洞院時良の娘
・知光院宮
- 後宮:五条経子 ー 五条為庸の娘
・常磐井宮
・性応法親王
・文喜女王
・元秀女王
- 後宮:今城定淳の娘
・一乗院宮尊賞法親王
・文応女王
- 後宮:入江伊津子 ー 入江相尚の娘
・嘉智宮
・留宮
- 後宮:倉橋泰貞の娘
・峯宮
- 後宮:松室敦子 ー 松室重敦の娘
・吉子内親王
・尭恭法親王
- 後宮:南相忠の娘
・八重宮
- 後宮:松室仲子 ー 松室重仲の娘
・尊胤法親王
余談
後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子であると同時に羽林家12代当主・園基任の孫にあたる。霊元天皇は後水尾天皇の第十九皇子であると同時に羽林家13代当主・園基音の孫にあたる。このことから後光明天皇は基任にととって孫であると同時に霊元天皇は曾孫ということになる。歴史上よくあることだが、これらの事実から後光明天皇にとって霊元天皇は異母弟であると同時に従甥であるというややこしい血縁関係になっている。
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