ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

生没年 承応3年(1654年)~享保17年(1732年)8月


第108代・後水尾天皇の第十九皇子。羽林家園家13代当主・園基音の娘・国子を母として生誕。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)という。第109代・明正天皇は異母姉、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇は異母兄にあたる。


即位から譲位まで

生後間もなく四兄・後光明天皇の養子とされ皇位継承者とみなされるが、直後に天皇は崩御、朝廷は識仁親王が成長するまでの間、式部卿を務めていた八兄・良仁親王が皇位を継承をすることとなった(後西天皇)。

寛文3年(1663年)、後西天皇の譲位を受けて即位。貞享4年(1687年)、第四皇子・朝仁(あさひと)親王に譲位(第113代・東山天皇)、仙洞御所において院政を開始した。


政治姿勢

幕府に対して強硬な姿勢をとることが多く、貞享元年(1684年)に退位の意向を示したときには5代将軍・徳川綱吉から慰留されたほか、幕府の意をくむ関白近衛基熙とも対立、幕府の介入を招いて院政の停止を余儀なくされ、東山天皇に政務をゆだねることとなった。


その後、息子の中御門天皇に皇位を譲っていた東山上皇が急死したことから、院政の再開を求められている。6代将軍・徳川家宣の病死の後、後継として息子の鍋松が残されていたが、将軍家の後継者は必ず父の将軍から名前を与えられて元服をしなければならない、というルールがあった。困った幕閣は朝廷に相談した結果、将軍よりも上位者である天皇か上皇であれば差支えが無いという結論に達し、霊元上皇が鍋松に「徳川家継」という名前を授けて無事7代将軍に就くことが出来た。形式的とは言え霊元上皇が家継の後見人になったことから、幕府と朝廷との間で関係強化を進める動きが高まり、上皇の第13皇女である八十宮吉子内親王を家継の婚約者とすることになった(なお、この時家継は7歳、吉子は2歳)。しかし、家継はわずか8歳で病死し、皇女の将軍家への降嫁は14代将軍・徳川家茂の時代まで先送りにされることになった。


事績

有職故実に明るいことで知られる。太嘗祭をはじめとする朝廷儀礼の復活に力を尽くし、諸記録類を整理した『法皇八十御賀記』を撰したほか、歌道にも励んでいる。


享保17年(1732年)8月崩御、月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。


諡号

諡号としては本来、「幽」や「霊」は中国でも国を傾けた君主に対して贈られる、きわめて縁起の悪い諡号として忌避されているが、霊元天皇は国を滅ぼしたわけでも、傾けたわけでもない。

これには天皇の意思が反映されており、みずから神話時代(欠史九代)の第7代・孝霊天皇から「霊」と第8代・孝元天皇から「元」を選び、諡号とされたそうである。


皇統

栄子内親王二条綱平

・憲子内親王 ー 近衛家熙

・済深法親王

・朝仁親王(第113代・東山天皇

・福子内親王 ー 伏見宮邦永親王

・永秀女王

京極宮文仁親王

・梅宮

・勝子内親王

・清宮

・寛隆法親王

・綱宮

・三宮

・尭延入道親王

・台嶺院宮

・徳宮

・力宮

・知光院宮

常磐井宮

・性応法親王

・文喜女王

・元秀女王

・一乗院宮尊賞法親王

・文応女王

・嘉智宮

・留宮

・峯宮

  • 後宮:松室敦子 ー 松室重敦の娘

有栖川宮職仁親王

・吉子内親王

・尭恭法親王

  • 後宮:南相忠の娘

・八重宮

  • 後宮:松室仲子 ー 松室重仲の娘

・尊胤法親王


余談

後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子であると同時に羽林家12代当主・園基任の孫にあたる。霊元天皇は後水尾天皇の第十九皇子であると同時に羽林家13代当主・園基音の孫にあたる。このことから後光明天皇は基任にととって孫であると同時に霊元天皇は曾孫ということになる。歴史上よくあることだが、これらの事実から後光明天皇にとって霊元天皇は異母弟であると同時に従甥であるというややこしい血縁関係になっている。


関連タグ

江戸時代 江戸幕府 後水尾天皇


皇位

第111代第112代第113代
後西天皇霊元天皇東山天皇

関連記事

親記事

歴代の天皇 れきだいのてんのう

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 292

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました