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概要

日本史の時代区分のひとつ。徳川将軍家による江戸幕府日本を統治していた時代。
一般的には徳川家康征夷大将軍に任命された1603年から大政奉還がされた1868年までを指す。
このうち、黒船来航の1853年以降を特に幕末という。

いわゆる「時代劇」で扱われるのはだいたいこの時代であり、特に11代将軍徳川家斉が実権を握っていた文化・文政期とその前後が舞台となることが多い。

ただし、江戸時代といっても長く、時代によって服装などの風俗がかなり変化している。江戸時代前期の元禄期を舞台にした『水戸黄門』や、中期の享保期を舞台にした『暴れん坊将軍』が、江戸後期の風俗を描いているのは、時代考証的にはおかしい(もっともこの2作品に関しては、設定自体が荒唐無稽であるが...)。

時代の移り変わり

前史

後北条氏討伐後、豊臣秀吉によって家康は本拠としていた三河(愛知)から後北条氏の勢力圏だった関東への移封を命じられた。家康は当時未開の地として知られた江戸を築き、江戸城を中心とした都市開発に着手。風水にも長けた僧侶・天海の指揮のもとに江戸が作られた。

前期(慶長~元禄あたり)

慶長8年(1603年)に江戸幕府が創設されると、江戸に徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ物資や人が次々に流入。町人を呼び寄せて、町が急速に拡大した。慶長20年(1615年)の大坂冬の陣で豊臣氏が滅ぼされると、経済の中枢機能は海運の要衝の地である大坂に置かれた。2代将軍・徳川秀忠は武家を統制する「武家諸法度」、朝廷公家を統制する「禁中並公家諸法度」、寺社仏閣を統制する「寺社諸法度」を発布して支配体制を確立、3代将軍・徳川家光の頃には各藩と幕府との強固な関係となる幕藩体制を構築し、豊臣秀吉の朝鮮出兵により破綻した朝鮮王朝との外交関係を修復、中国(、滅亡後には清帝国)、朝鮮王朝、オランダ以外の外国との国交を禁じ貿易を統制したいわゆる鎖国を完成させた。

大坂冬の陣で戦国の世が完全に終わってからも、しばらくは戦国時代の荒々しい気風を残した社会であった。幕藩体制確立のために農民には重税が課せられ、諸藩および公家には強力な統制が敷かれたが、幕府による大名家取りつぶし政策は大量の浪人を生み出し、社会不安はいや増した。寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱は領主による重税に耐えかねた農民が一揆を起こし、これに主家を失った浪人が加わったことで鎮圧に半年を要し、一揆軍・幕府軍ともに多くの死傷者を出すに至った。また、慶安4年(1651年)には幕政に不満をもつ軍学者・由井正雪ら多くの浪人による討幕の謀議が発覚し鎮圧する事件も起こった(慶安の変)。これ以降、幕府はむやみに藩の取りつぶしを行わないこと、無理な年貢の取立てを戒める政策に転換し、日本が「天下泰平」を謳歌する穏やかな社会となったのは、施政方針が「文治政治」に改められた4代将軍徳川家綱・5代将軍徳川綱吉以降のことである。

この時期は、前代の安土桃山時代に引き続く人口の急増と大開拓の時代であり、測量や土木技術の発達を背景に、幕府や諸藩の支援もあって、農民たちの主導で湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われ、低湿地の耕地化が進んだ。特に幕府のお膝元である関東平野は幕府の肝いりで利根川東遷事業という一大プロジェクトが行われ、それまで雑木林や荒れ地、湿地帯だった関東平野の多くは、江戸時代に急速に農地化した。また大坂を拠点に全国を結ぶ北前船などの水運が整えられ、離れた地方からなどの物資が大量に移入できるようになり、江戸・大坂・京都の三都が大都市に発展、金座・銀座・銅座が貨幣を鋳造して貨幣経済が発展しはじめたのもこのころである。開拓と水運の整備により、奥羽地方などそれまで辺境だった地域でも米の生産が急上昇して、その経済が潤い文化の発展に繋がった。

中期(宝永~安永あたり)

幕府並びに諸藩の財政難が深刻化し、各地で立直しのための藩政改革が進められた。ちなみに幕府の財政難に関しては、貿易対価の支払いによる金銀の海外流出の対策として勘定奉行の荻原重秀が行った貨幣改鋳によってインフレが起こり、元禄時代の好景気を現出した一方、税額がほとんど変わらなかったことが大きな原因である。6代将軍徳川家宣のもと将軍侍講の新井白石と側用人の間部詮房の取り組んだ「正徳の治」はこの是正に取り組んだものであるが、貨幣改鋳を行ったことでデフレを発生させてしまい、失敗している。

幕府及び各藩の改革で最も成功し、後世の模範とされたものが享保元年(1716年)に就任した8代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」であった。吉宗は財政改革の一環として増税を断行しているが、同時に貨幣改鋳による金融緩和政策をとったので反発を抑えることができた。この頃には農業の発展により米の流通量が十分に増えており、その値崩れも著しかったため、吉宗はそれまでの米作偏重を改めて菜種綿花養蚕サツマイモサトウキビなど飢饉対策作物や商品作物の生産を奨励。これは現金収入が得られる農民たちはもちろん、米価低迷に喘ぐ武士たちからも大いに歓迎された(武士は給料を米でもらうので、米価下落は実質的に賃下げと同じことになってしまうため)。木綿砂糖などの物資の不足は密貿易の原因ともなっており、商品作物の国産化はまさに一石三鳥の政策であった。商品作物の生産には大量の肥料が必要になるため、この頃から蝦夷地房総でとれたニシンイワシ肥料として西日本まで流通するようになった。この改革は幕府財政の安定化には大いに役立ったが、幕藩体制の根幹である米本位の経済体制からはついに脱却できず、治世の後期まで米価対策に悩み続けた吉宗は「米公方」とあだ名されるようになってしまった。

また、享保の改革で広まった施策として、その年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する検見法から、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免法への移行がある。さらに商品作物の生産が盛んな村では他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が広まるなど、貨幣経済が農村にも浸透していく。

社会の安定を背景に、庶民にまで教育が普及し民間の文化が栄えた。幕府や諸藩の学問奨励政策もこれに資した。幕府の統制下で海外の最新の情報や技術も輸入され、蘭学が知的階層に受け入れられる。一方で儒教を基にして朱子学・陽明学が官民ともに学ばれ、実務的な農学、趣味と実益を兼ねた和算の研究、日本の独自性を見つめ直す国学運動も盛んになった。

江戸・大坂・京都を中心に商業や流通が整備され、地方でも各藩の殖産興業政策によって、現代につながる地場産業や地域独自の文化が熟成されていった。東北地方を中心に飢饉は時折起こったものの、この時期には国内外を含めて戦乱は起こらず、まさに「天下泰平」の時代が確立された。

後期(天明~嘉永あたり)

中期に引き続き民間の文化が興隆し、江戸が京都・大阪を上回る文化の中心地として発展する。農漁村部では、貨幣経済の浸透により地主や網元への資本集積が続き貧富の差が拡大(この頃から日本は初期資本主義に入りはじめたという説もある)。日本近海ではロシアや欧米列強の船舶が出没し、対外警戒感が高まった。

幕府・諸藩の財政難傾向は続き、9代将軍徳川家重と10代将軍徳川家治に取り立てられた田沼意次は、商人に株仲間と呼ばれるカルテルを結成させそこから徴税する施策を講じて一定の成果を上げたが、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火、疫病の流行、各藩の失政(稲作の過剰な奨励や備蓄米を流用して飢餓輸出を強行するなど)が重なったことによって、「天明の大飢饉」と言われる未曽有の大飢饉が発生してしまう。天明6年(1786年)の家治の死を機に、田沼は失脚した。この飢饉で藩内でひとりの死者も出さなかった白河藩主・松平定信(8代将軍・徳川吉宗の孫)が老中に就任して田沼の施政を全否定する「寛政の改革」を断行したが、過度の締め付けにより文化・経済が停滞したうえ、財政立て直しの面でもさほどの成果を上げることはなかった。寛政5年(1793年)、財政問題をめぐって11代将軍徳川家斉と対立を深めた定信は失脚した。

定信失脚後も松平信明など「寛政の遺老」たちにより基本的な施政が引き継がれるも、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国のレザノフが蝦夷地を襲撃(文化露寇)し、蝦夷地開発は喫緊の課題となった(この時期、幕府は蝦夷地の統治権を松前藩から取り上げ直轄化している)。加えて将軍徳川家斉は天井知らずの漁色家であり、膨張する支出から幕府財政は火の車となっていった。この時代は文化14年(1817年)の信明の死で一区切りが付き、文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を登用して幕政に当たらせ、その弛緩した施策は化政文化の最盛期をもたらした半面、腐敗、綱紀の乱れが生じ幕府財政の悪化に拍車がかかった(大御所時代)。1841年(天保12年)の家斉の死を経て、12代将軍・徳川家慶のもと老中・水野忠邦が享保・寛政の両改革を手本に「天保の改革」に取り組むが、流通の混乱と不況の悪化を招いただけであり、狙いの財政立て直しも成功しなかった。

このように幕府の改革は、旧態依然の質素倹約令で民間の活動を押さえつけようとしたことから失敗するものが多く、幕府の権威は緩やかに落ちていく。

幕末(安政~慶応)

嘉永6年(1853年)、ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航、老中・阿部正弘はオランダから得た情報で来航を予期していたにもかかわらずほとんど対策をとることがかなわず「国書」のみを受け取り、返事は翌年に持ち越すこととなった。阿部は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めたが、妙案はなかった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。
嘉永7年(1854年)、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府は折衝を重ね「日米和親条約」の締結し、安政5年(1858年)には大老・井伊直弼孝明天皇の勅許を得ずに「日米通商修好条約」を締結するに至った。軍事力が圧倒的に劣ることを考えれば、幕府の外交方針はやむを得ないものであったが、「天皇の許しを得ずに条約を結んだこと」「戦いもせずに外国に屈したこと」が尊王攘夷派の怒りを買い、幕府はその対策に窮していくことになる。
大老・井伊直弼は尊王攘夷派を弾圧したが(安政の大獄)、安政7年(1860年)、江戸城・桜田門外で水戸・薩摩両藩の浪士に襲撃されて暗殺された(桜田門外の変)。
この事件以降、幕府は緩やかに衰退していく。京の都は攘夷派の志士により治安が乱れ、治安組織として新選組が創設され、会津藩主・松平容保は「京都守護職」に就いて京の治安は会津藩と新選組にゆだねられることになる。
その間、文久2年(1862年)には薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が殺傷される「生麦事件」が起き、それが原因で「薩英戦争」が、文久3年(1863年)、文久4年(1864年)には長州藩が攘夷を実行してその報復を受ける「下関戦争」が勃発、両藩は軍備のちがいに大敗を喫した。
しかし、この敗戦は攘夷がもはや時代遅れの空論であることを両藩に知らしめ、両藩は軍備の近代化に着手することとなった。
慶応2年(1866年)、2度目の「長州征伐」を前に薩長両藩は秘密裏に同盟を締結(薩長同盟)、幕府軍は思わぬ長州軍の反撃にあい敗北を喫し、14代将軍・徳川家茂が陣中で病没したことで撤退する。
同年12月には幕府寄りだった孝明天皇が崩御、15歳の睦仁親王が即位する(明治天皇)。
慶応3年(1867年)、事態は幕府に不利になっていく。政治的に孤立を深める15代将軍・徳川慶喜は同年10月に大政奉還を決断し京を離れるが、慶応4年(1868年)1月、薩長両軍と旧幕府軍との間で戦いが起き旧幕府軍は敗北(鳥羽伏見の戦い)、慶喜はこの戦いの結果を見ることもなく江戸へと帰り寛永寺に謹慎、同年4月11日、江戸城は無血開城、明治天皇は「五箇条の御誓文」を宣布、旧暦1月1日にさかのぼって明治に改元し江戸時代は終焉を迎えた。

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