実在した大名の水野忠邦
1794年(寛政6年)6月23日~1851年(嘉永4年)2月10日。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。
江戸時代後期の幕府老中。12代将軍徳川家慶時代の1841年から1843年まで天保の改革を主導していた。
出世のために家臣や領民の迷惑を顧みずに唐津藩から老中就任への近道である遠州浜松藩への転封を望むなど手段を選ばない側面があった。唐津藩から遠州浜松藩への移動は実封10万石も開きがあったため、事実上の大減俸であった。更に国替えの費用も膨大であったことから反対者も多く、家老が諫死を遂げる程であったが、実現させている。事実この国替えで水野忠邦の名は幕閣に知れ渡る事となり、老中就任への足掛かりとなった。
本人は指導力と明晰さを持った人物だったが、性格は苛烈できつい一面もあったとされる。年貢の取り立ても過酷で後々まで恨まれたという。
その後は大坂城代や京都所司代などの重職を歴任。1828年に西の丸老中に就任し、次期将軍徳川家慶の側近格としての立場が確定。家慶政権下では老中首座となる。しかし、徳川家斉は老齢なれど健在で、大御所に退いても実権を手放さなかったため、実質的な主導権は家斉の死後まで待たなければならなかった。
政策の詳細は天保の改革を参照。
天保の改革は他の三大改革同様に財政赤字の緩和と再建を目指したが、同時に日本近海に出没していた欧米勢力に対する海防政策の強化も含まれている。忠邦はこの状況に強い危機感を持っており、幕藩体制の強靭化を目指した。
倹約令や人返しの法(江戸への流入者を帰村させる)、株仲間(独占的な商工業者の同業組合)の解散などを実行したが、理想論に寄った改革は多くの反発を招く。倹約の規制は非常に幅広く「銭湯の値段から豆腐の大きさ」まで定られ、「法令雨下」と揶揄される程に矢継早かつ多岐に及んだ。しかし、これらの政策は最終的には物価引き下げには繋がらないばかりが、株仲間解散による物流網の痛撃は物価高騰を招き、江戸市内は深刻な大不況に陥るなど江戸市民を酷く苦しめる事となる。
そして、江戸や大阪等の大都市周辺の領地を直轄とし大名や旗本に領地替えを行わせようとした「上知令」は転封を強要される譜代家臣、転封により藩札等の暴落や貸し倒れを恐る商人や豪農など、官民総勢による猛反発により中止されるに至り、幕閣内でも反水野派が台頭する原因となる。結局は改革は失敗した上に自らの腹心であった鳥居耀蔵にも裏切られてしまい、自身も1843年に老中の職を罷免される。
老中罷免後、水野が行った政策の多くは撤回された。しかし、江戸城本丸が火災で焼失。後任の老中首座・土井利位は再建費用の捻出に失敗すると、失脚の翌年に水野は再び老中首座に返り咲く。しかし、政務に対する意欲が著しく削がれており、再び改革に乗り出す事は無かった。それどころか、まるで木偶人形みたいだと揶揄される程までにぼんやりとした日々を過ごしたため、重要な仕事を任される事も無くなっていく。ただし、失脚時に自身を裏切った鳥居などのかつての側近達への報復はきっちりと行っている。
結局は改革時のかつての側近達の不正が発覚すると、1845年に水野は再度老中を失職。本領1万石と加増1万石を没収され、山形藩への懲罰転封を命じられる。
この際に領民の借金返済を無視して移ろうとしたため、浜松一揆と呼ばれる大規模な暴動が発生した。この事件は「もし上知令が実施されていたら引き起こされていたであろう混乱の縮図」ともいえる光景であり、自身が強行しようとした上知令が結局は実現不可能な施作だったと立案者自身が証明する皮肉な事件となった。なお、結局忠邦は借財を返済しなかったため、後任の藩主が支払いを行っている。これは忠邦は「民衆の生活苦や立場を軽視していた」事を物語る。
嘉永4年(1851年)の2月10日に失意のままに死去した。享年58。日本と幕府を救うためと信じて天保の改革を始めてから、わずか10年後の事だった。2年後には黒船来航が控えており、江戸時代終焉の足音はすぐそこまで迫っていた。
改革の失敗者であり、民衆にも多大な負担をかける事になった水野忠邦の評価は芳しくない。改革後期には民衆からも相当憎悪されていたようで、「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ」や「水の泡」と笑われ、失脚時には江戸市民達が忠邦の私邸に集団投石を行ったという逸話も残る。
しかし、改革の必要性に迫られたのは、前将軍徳川家斉の長年に渡る放蕩や財政悪貨などの問題は既に手がつけられない状況になりつつあった事。また、欧米諸国のアジア進出とアヘン戦争でイギリスにアジア最大の大国であった清帝国があっさり敗北した事実は幕府にも伝わっていたため、防衛体制の迅速な強化の必要性を感じて強引な政策を行なってしまう程の焦りを感じるのは無理もない事であった。そもそも忠邦が実権を握った時点で「出来ることを、出来るだけするしかない」という状況であったため、失敗はある意味必然。その責任全てを忠邦に押し付けるのは酷かもしれない。
また、天保の改革時代に忠邦の苛烈な倹約令に対して立ち向かったのは江戸北町奉行を勤めた遠山の金さんこと遠山景元であった。景元は幕命には従いながらも町民の生活を著しく害する命令を無視。忠邦が芝居小屋の廃止を推し進めた際には景元が浅草猿若町への小屋移転に留めた結果、存続を許される事になった。これに感謝した関係者が景元を讃える意味も込めて名奉行「遠山の金さん」を上演し、現在も有名なドラマとして、景元も名奉行像が残されている。ある意味、忠邦は遠山の金さんが生まれるきっかけを作った人物でもあった。
ちなみに祖父の水野忠鼎は広島藩主浅野宗恒の次男で、唐津藩主水野忠任の養子に入った人物であり、忠邦は血統上では豊臣政権の五奉行筆頭であった浅野長政の男系子孫にあたる。忠鼎の正室は享保の改革を主導した老中、水野忠之の曾孫であり、彼女と忠鼎の間に忠邦の父、忠光が生まれたことで水野監物家の血統は女系で維持された。祖父は忠邦の家督相続の時点では存命しており、父よりも長生きしている。
祖父は女系では、前田利家、徳川秀忠、結城秀康、松平忠直らの子孫にあたる。
「大江戸ロケット」の水野忠邦
アニメ版オリジナルキャラクター。老中首座。露出魔で故意に下半身を露出しモザイクをかけられる。
反対派を黙らせるための武力を欲し、鳥居・遠山のロケット計画に飛び付いた。二発目のロケット打ち上げと自分の老中罷免の前夜、ご隠居から貰った「若返りの薬」を屋敷の池に捨てていた所を眼に襲われ気絶させられた。
「ラヴヘブン」の水野忠邦
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。
年貢の取り立てが厳しかった事で、家臣達から後年まで恨まれる結果を生んだ事を後悔している。