天保の改革は、老中水野忠邦が主導した改革である。
かねてより幕政の改革は模索されていたが、将軍・徳川家慶はまだ実権を大御所である徳川家斉に握られており、そこへもってきて家斉が奢侈を尽くした生活を送っていたため幕府の財政がひっ迫していた。
家斉が死去してからは正式に実権が家慶へ移行し、老中・水野忠邦による天保の改革が始まった。
1841年には物価引き下げを意図し、商品の自由取引を認めた株仲間解散令を発令したが、かえって混乱を招き、物価は上昇した。
1842年にはアヘン戦争が勃発し、清がイギリスに敗北したことで1825年に出していた異国船打払令を撤回して天保の薪水給与令を発令した。
この頃には庶民に厳格な娯楽取締令を出している。寄席や芝居が禁止され、歌舞伎役者や噺家は一時江戸を追放されていた。彼らは天保の改革消滅後にまた江戸に戻ることが許された。
1841年には倹約令を出し、菓子や木綿の着物、初物などの贅沢品を禁止した。翌年には娯楽取締令の延長で、為永春水の『春色梅児誉美』、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』を発禁処分とした。
1843年には人返しの法を発令することで百姓の出稼ぎを禁止し、江戸に流入した貧民を強制的に帰村させ、荒廃した農村の復興や江戸周辺地域の治安維持を狙ったが、江戸を追い出された農民がやくざ者となってしまい、却って江戸の治安は悪化し、結局この政策も失敗に終わった。
また、忠邦は人返しの法と同時期に上知令を出そうとした。これは江戸ならびに大阪周辺の地域の直轄化を意図したものであったが、大名や旗本、農民の猛反対にあって撤回せざるをえなくなり、これによって水野の政治生命は絶たれ、老中を解任された。水野の後釜には後の老中首座・阿部正弘が据えられた。