概要
日本は島国であり、古代国家成立後は近代まで大規模な異民族の侵入がなかったこと、東アジアにありながらヨーロッパと同様の歴史的発展経緯をたどっていること(具体的には中世が存在する)、中央権力の変遷にもかかわらず古代王朝(皇室)の権威がその後ろ盾として残っていることなどの特徴がある。
日本史の時代区分については、先史時代を除き「平安時代」「室町時代」「安土桃山時代」「江戸時代」という具合に概ね中央政権の所在地や時の政権にゆかりのある土地から名付けている。また、近代以降は元号で分けるのが一般的だが、明治以降の近代日本をひっくるめて「東京時代」という呼称も提唱されている。詳しくは時代タグで。
通史
先史
日本に人が住み出してから、まとまった文字資料がある時代より前を「先史時代」と呼ぶ。
一般的な考古学上の時代区分として(新・旧)石器時代、青銅器時代、鉄器時代といったものがあるが、日本列島の先史文化を表す時代区分としては、旧石器時代以外採用されていない(その理由は縄文時代を参照)。
旧石器時代
人類が列島に住むようになったのは8~9万年前からと推定され、遺物が増えるのは3万年くらい前。このころの人口は1万人未満と考えられ、人口密度は現代日本の1万分の1程度であった(もちろん当時は今のような大都市集中ではないので単純には比べられないが)。1万5000年前に氷河期が終わる頃には日本列島の人々は定住生活に移り、縄文時代に移行する。
縄文時代
縄文文化の最盛期にあたる縄文時代中期(約5000~4000年前)の人々は、温暖で恵まれた環境を背景に各地に巨大集落を営んだ。狩猟採集中心の生活ではあったが、地域によっては栗や粟、稗、豆、イモやヒョウタンなどの栽培も行っており、列島各地の交易も盛んであった。このころの縄文人の人口は日本列島全体で26万人くらいいたと考えられ、関東地方では10万人近くの人が住んでいたと推定されている。これでも現代の首都圏よりは遥かに少ないが、狩猟採集民としては異様に人口密度が高い。
縄文後期には気候の寒冷化により、厳しい生活環境に直面した人々は各地に分散し、一族の結束のため巨大なストーンサークルなどが営まれた。
弥生時代
縄文・弥生の時代は縄文土器と弥生土器の違いではなく、水田稲作農耕の開始で区分されている。これは、縄文土器と弥生土器の土器の厳密な区分が困難なためである。紀元前3世紀ごろで区分していたが、古い時代の水田稲作遺構の発見により弥生時代の開始時期も遡っており、紀元前10世紀にまで遡るとの見解もある。鉄器は農具や戦の道具、青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛など)は豊作を神に祈る祭りの道具として使用されていた。
弥生時代後期の人口は60万人くらい。関東以西では村々を束ねる勢力が生まれ、戦によって国へと成長していく。東北地方でも早い時期から水田稲作が行われていたものの、後の寒冷化等の影響により短期間で放棄。それに伴い人口が激減したらしく、東北中部以北は続縄文文化に逆戻りしたと思われる。
古墳時代
東北地方南部以南で盛んに古墳が作られた時代。古墳とは、古墳時代に築かれた墳丘をもつ墓(墳丘墓)のことをいい、弥生時代や同時代の東アジアで作られた墳丘墓は古墳とは言わない。飛鳥時代に作られた終末期古墳や、7世紀から10世紀に北海道や北東北地方で築かれた蝦夷系墳墓(末期古墳)を古墳とするかどうかは見解が分かれる。
各地の勢力が争う中で近畿地方を拠点とするヤマト王権の優位が固まっていく。畿内では3世紀後半頃から巨大な前方後円墳が作られ、地方に波及していくが、前方後円墳の存在はヤマト王権の拡大を示していると思われている。ヤマトの王が大王(おおきみ)で、その内の一人である第10代崇神天皇は実在が確実とされる最初の天皇ともいわれる。
中国の歴史書から見た倭
漢の歴史書(『漢書』地理志)によれば、紀元前1世紀ごろ、倭(日本)は100ほどのクニに分かれていたとある。また、1世紀半ばの歴史書(『後漢書』東夷伝)には、奴国(現在の福岡県付近)の王が漢に使いを送り、皇帝から金印(漢委奴国王と彫られている。江戸時代に福岡県の百姓が発見した)を与えられたと書かれている。
紀元1~3世紀の西日本には中国(後漢から魏・呉・蜀の三国志{三国}時代)と関係を結ぶ国が現れた。中でも有名なのが卑弥呼の邪馬台国であり、『魏志倭人伝』によれば、景初2年(西暦238年)に倭国からの使者が朝貢に訪れ魏の皇帝から「倭王」に任命されたなどの記述がある。
また当時の日本には数多の小国同士による倭国大乱が終結したばかりで、邪馬台国も卑弥呼の呪術によって諸国を束ねる連合国家の体であったとされる。ただし歴史書の記述を見る限り倭国の位置が九州からさらに南方に連なり会稽のちょうど東で、そこはどう見ても日本ではなく東シナ海の海中であり、事実、中国に残されている地図にもそのあたりに倭国が描かれているなど、記述が史実をどの程度反映しているかは不明である。
また、空白の四世紀と呼ばれる間は、中国の歴史書に日本(倭)に関する記述はない。
その後、『宋書倭国伝』に478年、倭王武が宋の皇帝に使いを送り、倭と朝鮮半島南部の国々の支配者を示す称号を求めたこと、宋の皇帝が安東大将軍倭王に任命したことが書かれていた。
古代
文字が国内で使用され始めた時代から、平安時代末期の院政への移行もしくは武家政権成立までを「古代」と言う。先史時代を古代に含めることや、律令制が崩壊し王朝国家体制が成立する平安時代の中期も中世に含めることもある。詳細は飛鳥時代、奈良時代、平安時代を参照。なお国語学・日本文学史や神道史などの分野では、奈良時代以前の時代を「上代」、平安時代を「中古」と言い区別する。
明治政府は、日本の建国年について『古事記』と『日本書紀』(記紀)の記述を根拠に初代天皇とされる神武天皇の即位年として算出した紀元前660年とした。しかし、初期の天皇の実在性は怪しく、記紀の記述では初期の天皇の在位年数が不自然に長いことからこれが歴史的真実とは思われていない。現代の考古学の知見では、この年代は弥生時代初期である。
飛鳥時代
欽明天皇13年(552年)、あるいは宣化天皇3年(538年)に朝鮮の百済から仏教が伝来。仏教を積極的に受け入れた聖徳太子や蘇我氏による国作りが進み、隋に遣隋使の小野妹子を派遣。
645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)により蘇我氏が倒され、中大兄皇子主導でに唐を模範とした国家建設(大化の改新)がなされたが、663年に白村江の戦い(新羅と唐の連合軍と倭国と百済遺臣による戦い)に敗れ、日本は朝鮮から手を引いたが、唐と新羅の来寇を恐れた朝廷は、西日本各地に防塁を築き、朝鮮式山城を築城した。
天智帝の没後、その弟大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子を倒し(壬申の乱)、専制君主として君臨した天武天皇は、律令制(土地を国家のものとし、戸籍を作り人民を直接支配する制度)の導入を始めた。この代に日本の国家体制が整備され、「天皇」と「日本」の名が生まれたとされる。持統天皇と元明天皇の代に現代に伝わる日本最古の歴史書である『古事記』『日本書紀』も編纂された。当時の日本の人口は500万人程度と推定される。
奈良時代
和銅3年(710年)、文武天皇により平城京に遷都、盛んに遣唐使を派遣して唐から様々な技術や文化、制度を導入、吉備真備や阿倍仲麻呂、玄昉などの留学生を派遣し、鑑真をはじめとする構想や技術者も招聘した。仏教を中心として天平文化が花開き、東大寺と大仏が作られた。しかし、天皇や貴族と癒着した仏教の興隆により道鏡などの僧侶の政治介入も多くなった。
平安時代
延暦13年(794年)、仏教寺院の肥大化した権力を厭った桓武天皇により平安京に遷都。この時代には朝廷の軍事力はほぼ機能しなくなり、「弓馬の士」と称された騎馬兵力が武士として成長していく。伝教大師最澄は唐に渡って仏教を学び天台法華宗を開き、同じく唐に入った弘法大師空海は真言密教をもたらした。10世紀までに律令制の人別支配が崩れ、中世的な土地私有(荘園)が成立、土地課税制に移行する(王朝国家)。10~11世紀は藤原氏の摂関政治と国風文化の最盛期であった。地方では平将門、藤原純友が相次いで反乱を起こしたが(承平天慶の乱)、これを追討した藤原秀郷・平貞盛・源経基が後の武家の祖となった。
平安中期から後期の10世紀から12世紀の間、日本の人口はほぼ600万人で横ばいであったと推定される。その中でも平安京の人口が圧倒的に大きく10万人以上の大都市(当時としては)であった。
中世
平安時代末期の平氏政権成立から織田信長・豊臣秀吉による天下統一までを「中世」と言う。
平安時代
平安末期の11世紀頃、上皇による院政が始まり、時を同じくして中央政治に武家が台頭。治天の君の白河法皇の院政下で平氏が力をつけ、1160年代に平清盛が院政を停止して初の武家政権を興すも、源平合戦を経て源頼朝率いる源氏が勝利した。
平安末期は社会不安を背景に、釈迦の死後1500年が経過したとされた永承7年(1052年)を元年とする末法思想が流行。これは(平安仏教のような貴族ではなく)武士・庶民を主な担い手とする浄土宗・浄土真宗などの鎌倉仏教の興隆につながった。
鎌倉時代
頼朝が平家を滅ぼした文治元年(1185年)、頼朝は諸国への守護・地頭職の設置・任免権を与えられる。そして建久3年(1192年)には征夷大将軍の宣下がなされ、東国を中心とした武家政権(鎌倉幕府)が成立した。幕府は頼朝の死後、有力御家人の集団指導体制(十三人の合議制)に移行するが、激しい権力争い妻の北条政子、舅にあたる北条時政、北条義時ら北条氏の一族が実権を握る。北条氏主導の幕府は承久の乱(後鳥羽上皇が義時を成敗しようとして返り討ちにあったもの)で朝廷に勝利したのを期に全国に支配権を及ぼすようになった。この承久の乱の前年には3代将軍・源実朝が暗殺され、将軍職は長らく空位となっていたが、頼朝の遠縁の親戚関係に当たる三寅を将軍に就任させ、頼経の子・頼嗣以降は宗尊親王などの皇族将軍を擁立するが、4代以降の将軍は傀儡に過ぎず、北条氏の惣領(得宗)が権力を独占した。
文永11年(1274年)、および弘安4年(1281年)元(蒙古)が九州に2度にわたり襲来。御家人たちの奮戦により撃退したが、御家人に「恩賞」を与えることができなかった幕府への不満はつのり、幕府は「永仁の徳政令」を発令するが、困窮する武士はますます増加し、御家人から脱落して支配層に反抗する者も現れるようになった(悪党)。
元弘3年/正慶2年(1333年)、流罪先の隠岐から脱出していた後醍醐天皇が護良親王や楠木正成、赤松則村ら悪党と結んで挙兵(元弘の乱)。これを鎮圧するために幕府から派遣された足利高氏(後の足利尊氏)が逆に後醍醐側についたことにより幕府は崩壊した。後醍醐は天皇親政で過去の朝廷政治を復権させようとした(建武の新政)が、政治の混乱から武士たちの離反を招く。北条残党の蜂起(中先代の乱)の鎮圧を期に、尊氏は今度は後醍醐帝に反旗を翻した(建武の乱)。
室町時代
湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り京都を制圧した足利尊氏は、光厳天皇を擁立(北朝の成立)して延元元年(1336年)に室町幕府を開いた。一度は北朝に譲位した後醍醐帝は吉野に逃れて新たな朝廷を作り、南北朝分裂となり対立が続いた。
足利義満が南北朝統一を主導し、日明貿易(勘合貿易)で明との公式外交を再開し、「日本国王」の称号を受ける。義満の死後、室町幕府の政治力は将軍が若くして亡くなったり、国内各地で反乱が起きたりして弱体化してしまう。くじ引きで選ばれた6代将軍足利義教は、失われた幕府権力を強化しようと恐怖政治を推し進めるが、最期は守護大名の赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)。一方で、この時期は鎌倉時代に中国から伝わった占城稲の栽培が西国を中心に広まり、稲の裏作として麦などを作付ける二毛作も普及。全国の人口は1000万人を突破した。
幕府権力の弱体化により、各地の「守護大名」(令制国単位で設置された軍事指揮官・行政官である守護が室町時代に司法権の追加など権限を強化され、世襲となり有力豪族となったもの)が力を増し、度々抗争を繰り広げた。関東では28年にわたる享徳の乱により戦国時代に突入する。つづいて起こった応仁の乱で畿内における幕府の権威も失墜し、わずかに京都周辺に影響力を及ぼすのみとなった。
各地では斎藤道三や北条早雲といった新興の戦国武将が出現し、下剋上も相次いだ。戦国大名たちは天下統一を目指して相争っていた…というイメージがあるが、必ずしも全ての戦国大名が天下取りの意欲を持っていたわけではない。
この時代には、日本人が西洋人(主にポルトガル人やスペイン人)と直接接触するようになった。天文12年(1543年)火縄銃が伝来。6年後の天文18年(1549年)にはキリスト教が伝来し、安土桃山時代の南蛮貿易の隆盛に繋がっていく。
近世
永禄11年(1568年)の織田信長の上洛から日米和親条約による開国までを「近世」と言う。分権的であった中世に対し、強力な統一政権が確立した時代である。織田政権は地方の戦国大名による政治機構と変わりがないとみなし、豊臣政権からを近世とすることもある。
安土桃山時代
多くの有力な戦国大名は、一応は室町将軍の臣下として振舞った。信長も時の将軍であった足利義昭を奉じて上洛したが、ほどなくして義昭を京都から追放、一般的にはこれが室町幕府の滅亡とされる。しかしその信長も全国統一を目前に明智光秀の謀反(本能寺の変)で倒される。朝廷としては天下人となった信長に対し、関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの推挙をしたいという意向があったが、はたして信長自身はどのような政権構想を抱いていたのか永遠の謎となってしまった。
光秀を討った豊臣秀吉が清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者としての地位を固め、天正18年(1590年)には関東の後北条氏を討って(小田原攻め)、全国支配を固めた。
天正13年(1585年)、秀吉は正親町天皇から関白に任じられ、天正19年(1591年)甥にして養子であった秀次に関白職を譲った後も太閤として実権を握り続けた。天正16年(1588年)刀狩(農民から刀や鉄砲などの武具を奪う政策)と、天正17年(1589年)以降の日本全土の統一的単位による検地(いわゆる太閤検地)を行い、近世武家政権の礎を築いた。
秀吉は明朝征服の野望を抱いて二度の朝鮮出兵に踏み切るが、目的を果たせず秀吉が死亡したことで撤退した。朝鮮出兵の失敗と、文禄4年(1595年)秀次に謀反の濡れ衣を着せて切腹に追い込んだことは、豊臣政権の亀裂を決定的にし、秀吉死後に政権が瓦解する要因となった。
慶長3年(1598年)の秀吉の死により、徳川家康・前田利家・石田三成ら有力大名の抗争が激化し、争いは家康派と反家康派の対立軸に集約されていく。慶長5年(1600年)、家康を総大将とする東軍は関ヶ原の戦いで石田・毛利輝元ら西軍を下した。
江戸時代
関ヶ原の勝利で強力な権力を手に入れた家康は慶長8年(1603年)に江戸に幕府(江戸幕府)を開いた。徳川家は全国を諸侯を通じて統治する封建制を基本としつつも、室町幕府や鎌倉幕府と異なり諸藩・朝廷に直接強力な支配力を及ぼす幕藩体制を布いた。豊臣家は慶長19~20年(1619-1615年)の大坂の陣で滅ぼされ、徳川家にとって脅威となりえる勢力は国内から消えた。
幕府は寛永14年から15年(1637~1638年)の島原の乱も鎮圧し、キリシタンを国内から一掃。鎖国を完成し、支配を盤石なものとした。以降、幕末までの200年以上にわたり平和な時代が続き(天下泰平)、江戸・大坂・京都を中心に庶民文化が花開いた。特に江戸は18世紀初頭には100万人を超えたと考えられ、当時は世界一の大都市であった。
なお、蝦夷地には15世紀ごろより蠣崎氏が進出し、アイヌとのコシャマインの戦いで支配権を確立。江戸時代には蠣崎氏の流れをくむ松前藩に支配された。また琉球王国は1609年に薩摩藩の侵攻を受け、王国は維持されるが薩摩藩の付庸国(属国)化された。
日本の人口は室町時代から増加が続き、関ヶ原の戦いの頃で1700万人程度だったが、江戸時代前期の17世紀前後に急増。18世紀前半の享保年間あたりで3000万人弱に達するが、以降は農地の開拓の余地が少なくなったことにより、幕末までほとんど変わらなかった。
近代
嘉永7年(1854年)の開国から第二次世界大戦終結までを「近代」と呼ぶ。日本が西洋主導の帝国主義的な国際社会に参入し、近代化に邁進した時代である。詳細は日本近代史および幕末、明治、大正、昭和史を参照。
幕末
19世紀半ば、相次ぐ天災や財政難で幕府は疲弊し、その権力は揺らぎ、勤皇の風潮のなか朝廷の権威が再び上がっていく。幕府は嘉永6年(1853年)の黒船来航により翌年の日米和親条約締結(いわゆる開国)を強いられる。さらに安政5年(1858年)の日米修好通商条約(日本はこの条約で関税自主権を喪失した、いわゆる不平等条約)締結は、もはや幕府に外国と対抗する能力がないことを示すものであり、志士と呼ばれる排外的テロリストたちの活動が激化した。内戦を回避し公議政体を確立しようとした徳川慶喜は、慶応3年(1867年)に日本の統治権を朝廷に返還すると宣言(大政奉還)。にもかかわらず、薩長の思惑で戊辰戦争が起こされ、幕府は完全に瓦解してしまった(明治維新)。
明治時代
薩長主導の政府は「復古」と「近代化」の二面性があったが、後者を重視する勢力が優位に立ち急速に西洋化へと舵を切る。政府は明治4年(1871年)に廃藩置県を断行し、300弱の藩を廃止して国直轄の府県とした。琉球藩の残っていた沖縄でも明治12年(1879年)に廃藩置県を実施して沖縄県とし、中央集権体制に組み込んだ。
新政府は欧米からの新しい文化を強力に摂取し、これを文明開化と称した。急速な近代化に抵抗する西南戦争などの士族反乱を鎮圧し、これへの反発として起こった自由民権運動に対する懐柔として明治23年(1890年)には帝国議会を作り、同年には大日本帝国憲法を公布して立憲国家としての体裁を整えた。並行して工業化と富国強兵政策を進めて日清戦争・日露戦争に勝利し、幕府が列強と結んだ不平等条約を改正して欧米と対等な国家となった。日清戦争で台湾を、日露戦争で朝鮮を統治下に置き、本格的な帝国主義国家への道を踏み出した。
幕末以来、日本内地の人口は爆発的に増え(大正9年(1920年)の第1回国勢調査では約5600万人、昭和42年(1967年)に1億人を超えた)、農村部に滞留した過剰な人口が、20世紀前半の日本の移民送り出しや侵略戦争などの対外進出の後押しとなった。
大正時代
日露戦争後、明治末期から大正期の都市部では大正浪漫などと言われる大衆文化が成熟し、市民の政治参加を求める大正デモクラシーと大衆運動が国内で高まった。国際社会では第一次世界大戦に参戦。日本は特需景気で沸くとともに、同戦争に参戦を果たして列強の一員となった。ロシア革命とソ連建国に対しては大正7年(1918年)からシベリア出兵を行ったが、無残な失敗に終わった。大正12年(1923年)、東京を関東大震災が襲い、昭和の不景気の遠因となった。
昭和初期
昭和に入ると日本は世界恐慌に巻き込まれ、軍部が台頭。昭和6年(1931年)関東軍は満州事変を起こして満州国を建ててしまい、中国はもちろん米英とも決定的対立を起こした日本は国際的孤立を深める。さらに昭和12年(1937年)、関東軍の独走により日中戦争が勃発。日本はナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアと枢軸国として組み、大東亜共栄圏の建設を目指して第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)へ突入する。
現代
日本史では昭和20年(1945年)の終戦以降を「現代」と区分する(世界史的には1989年以降とするのが一般的)。詳細は昭和史、高度経済成長期、安定成長期、バブル期、平成などを参照。
連合国への完膚なきまでの敗戦により、日本はアメリカ合衆国を中心とする連合国軍に占領され、明治以降獲得した海外領土を喪失した。ただし、同じ敗戦国でも政府が瓦解して4国に分割支配されたドイツとは異なり、日本本土では(樺太・沖縄など一部が分離されたものの)GHQの間接統治下で日本政府が存続した。終戦時の日本の人口は7200万人程度だったが、戦災により農地・インフラが荒廃した状況下で外地からの引き揚げ・復員により人口が急増、飢えに苦しむ日本人にアメリカは食糧支援を行った。昭和22年(1947年)に日本国憲法が施行され、住民が選挙で地方行政のトップを選ぶ首長公選制が導入、国民主権の政治体制がスタートした。この頃から激化した米ソ冷戦は直接ソ連と対峙する日本にも大きな影響を与え、GHQは占領初期の民主化政策を見直すようになった(逆コース)。昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争は日本に特需景気をもたらし、敗戦の痛手から急速に復興を遂げた。昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和会議で名目上独立を回復するも、同時に結ばれた日米安保条約(旧条約)によって在日米軍の駐留が続いた。
昭和30年(1955年)ごろから、日本は年率実質GNP成長率10%前後という高度経済成長期に突入する。日本人の生活スタイルは激変し、昭和39年(1964年)の東京オリンピックや昭和45年(1970年)大阪万博を経て、日本は世界第二位の経済大国となった。昭和47年(1972年)には沖縄が本土復帰。同年には中華人民共和国との間の国交正常化が図られ、戦後処理にも一区切りがついた。昭和48年(1973年)のオイルショックの痛手も短期間で乗り切り、国際社会における日本の経済的・文化的存在感はかつてないほど増大した(安定成長期)。
昭和64年(1989年)の昭和天皇崩御により元号は「平成」へと変わる。冷戦は同年のヤルタ会談で終結、ソ連も平成3年(1991年)に崩壊したことで国際政治はアメリカ一極体制へと向かう。同時に昭和末期より続いていたバブル景気は崩壊し、日本は長い不況へ突入する。
21世紀に入ると、ソ連崩壊後に後退していたロシア連邦が存在感を盛り返すとともに、中国、インドなど新興国の台頭が顕著になる。日米同盟を通じて後ろ盾としてきたアメリカ合衆国の覇権は弱まり、日本の経済的衰勢とあいまって一部の文化分野を除き国際的存在感は薄れる一方である。長引く少子化により日本の人口は平成20年(2008年)に1億2808万人でピークを迎え、以降、加速度的に人口が減り始める。
平成31年(2019年)4月30日に明仁上皇が一世一元の制のもと初めての譲位。翌5月1日には皇太子徳仁親王が126代目天皇として即位し、元号も一ヶ月前に発表された「令和」に変わり現在へ至る(なお、ピクシブ百科事典で「現代」のページが消されていることについては、外部サイトの記事を参照)
別の日本史
日本列島には異民族ないし本土とは別の政権下に入った地域集団が存在し、これらもまた、日本史の一部である。この項目ではそれらに関し記述する。
蝦夷と隼人
蝦夷(エミシ)は古代の東北地方にいた人々。平安期頃までアテルイをはじめ朝廷に反抗し続けたが、徐々に帰属していった。後に蝦夷(エゾ)と呼ばれるアイヌとの関係は不明だが、一応区別されて考えられている。
熊襲(クマソ)や隼人( ハヤト )は九州にいた海洋民と思われる人々で、神話では朝廷に反抗し続けた勇猛な部族として伝えられている。多くは朝廷に服属して、軍事官職を意味する名になったり、鹿児島男子の呼び名にもなった。
蝦夷の末裔の多くは百姓になったが、一部は東国武士に連なっていった。また、後世には山々を漂泊する人々が蝦夷や熊襲の末裔に結びつけられたりもしている。
アイヌと北海道
本州が弥生期・古墳期に移行したあとも、気候の関係上続縄文時代と呼ばれる縄文文化が続いた、7世紀から本州の影響を受けて、擦文式土器と畑作農耕を行う擦文文化に移行する。石狩平野などでは古墳(後期古墳)も作られた。同時代のオホーツク海沿岸には、樺太から移住した民族によると思われるオホーツク文化が存在した。
アイヌ文化が成立したのは鎌倉期の前後と思われる。本州の和人や北方民族との交易が盛んとなり、本州から鉄器や漆器や農作物が簡単に手に入るようになったため、擦文文化の担い手は土器作りをしなくなり、交易のための狩猟採集生活に特化したアイヌ文化に変化した。
室町時代には「道南十二館」と呼ばれる和人豪族たちが道南に定着しアイヌと交易を行っていたが、コシャマインの戦いと呼ばれるアイヌ蜂起を機にその中の蠣崎氏が覇権を確立し、江戸期に松前藩による蝦夷地支配に変化。アイヌはシャクシャインの戦いをはじめ何度も反乱を起こしたが鎮圧され、アイヌは和人の影響下で暮らすこととなる。一方で、松前藩はアイヌとの交易の利益を独占するため、蝦夷地への和人の入植を阻止した。
江戸時代後期にはロシアの艦船が近海に出没。幕府は国防への危機感から松前藩から支配権を取り上げて直轄地とし、道南以外の沿岸部にも和人の進出が進んだ。幕末から明治にかけ、松浦武四郎はアイヌ語をもとに北海道の地名を付け、その足跡は樺太を含む蝦夷地の隅々まで及んだ。
明治以降、北海道内陸部の和人による開拓が急速に進み、それまでアイヌが営んでいた狩猟採集生活は困難となり、アイヌ文化は廃れていく。戦後はアイヌ語を話す人は稀になったが、独自文化を持つ先住民族として保存運動が高まった。
樺太
樺太南部には樺太アイヌ、中北部にはウィルタ、ニヴフが居住した。大戦後、ソ連軍が千島や樺太を占領し、日本人と共存していたアイヌ人やウィルタを追い出した。現在、樺太アイヌ・千島アイヌやウィルタの末裔の多くは北海道や首都圏に居住している。
琉球と沖縄
琉球諸島(沖縄県と奄美群島)の住民の祖先は古墳期~平安期に九州から南下した人々が主体となっているとされるが、彼らがいわゆる大和民族に属するかは微妙な問題である。琉球諸島の住民と本土住民は民族的に明らかに同系であるが、異なる政権下にあった時代が長いからである(沖縄の近代史は「日本人」としての日本帰属を強く求めてきた歴史であり、編集者は本土住民と同一民族とみなすべきと考えるが、異論は認める)。
琉球諸島の住民は長らく縄文文化の段階(貝塚文化)にあったが、12世紀から按司( あじ )という豪族達がいくつもグスク城を築いた。14世紀には北中南の三山王国が成立。15世紀前半に中山の尚氏(第一)が統一し、尚氏による2つの王朝(15世紀半ばに王族のクーデターにより第二尚氏王朝が成立)による琉球王国ができる。
琉球王国は現在鹿児島県に属する奄美群島も支配下に置き、大陸や東南アジアとの中継交易で栄えたが、16世紀後半には諸外国の直接貿易が主流となったために衰退の道をたどった。17世紀には薩摩藩の出兵を受け薩摩の支配下に入る。この時期は薩摩と清の間の中継貿易と、黒砂糖生産などの農業が発展し、今ある沖縄文化はこの頃に形成された。
幕末には黒船が琉球にも来航。近代日本は明治7年(1874年)の台湾出兵(琉球住民が台湾で殺害されその責任を清に求めようとしたが責任を取らなかったため日本は台湾に出兵)を機に、琉球を「沖縄県」として内地の府県に編入。その後も琉球文化は独自の色を濃厚に残し、空手などが本土にも伝播し、また日本統治下に入った台湾との交流も盛んになり、沖縄そばなどの新しい食文化も生まれた。戦争において沖縄戦で壊滅的な破壊を被り、多くの県民が犠牲になった。
戦後は米軍が沖縄を奄美群島と一緒に日本から切り離して統治し、沖縄本島には軍事基地が多く作られた。米軍支配に住民の不満は高まり、日本復帰運動が燃え上がった。奄美は昭和28年(1953年)に日本に復帰し、沖縄も昭和47年(1972年)に日本へ復帰。復帰後の県民の生活水準は目覚ましく向上したが、基地問題は未だ続いている。
関連タグ
日本史・古典
全体 | 日本、日本国、日本人、日本文化、天皇、民俗学、古典、歴女、日本刀、甲冑、家紋、神道、仏教 |
---|---|
古代 | 日本神話、古事記、日本書紀、万葉集、紫式部、源氏物語、清少納言、枕草子、和泉式部、百人一首、束帯、狩衣、十二単、陰陽師、御伽草子、竹取物語、平家物語、鳥獣戯画 |
戦国 | 忍者、キリシタン、太平記 |
江戸 | 御三家、元禄赤穂事件(忠臣蔵)、おくのほそ道、南総里見八犬伝、能、能楽、狂言、茶道、曽根崎心中、四谷怪談、葛飾北斎、浮世絵、春画、鳥山石燕、歌舞伎、女形、舞妓、花魁、遊女、寺子屋、大奥 |
幕末 | 新撰組(新選組)、坂本龍馬、篤姫 |
近代 | 日本近代史、和洋折衷、大正浪漫(大正ロマン)、レトロ、 ハイカラ、日本軍、東京オリンピック、太陽の塔、大阪万博 |
近代創作
- 戦国
全体 | 大河ドラマ | 時代劇 |
---|---|---|
漫画・アニメ | 小説・ライトノベル | ゲーム |
- 江戸
全体 | 時代劇 | 時代小説 |
---|---|---|
漫画・アニメ | ゲーム | 舞台 |
- 近代
漫画・アニメ | 小説・ライトノベル | ゲーム |
---|---|---|