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日本史

にほんし

日本の歴史。日本人の立場から見た「国史」 先史時代({新、旧}石器・青銅器・鉄器)、古代(大和時代{古墳時代・飛鳥時代}・奈良時代・平安時代)、中世(平安末期・鎌倉時代・室町時代{南北朝時代、戦国時代})、近世(戦国末期・安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新・第二次世界大戦)、現代(第二次世界大戦~)に分かれている。
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概要編集

日本国および日本列島および関連地域の歴史に関するタグ。


日本島国であり、古代国家成立後は近代まで大規模な異民族の侵入がなかったこと、東アジアにありながらヨーロッパと同様の歴史的発展経緯をたどっていること(具体的には中世が存在する)、中央権力の変遷にもかかわらず古代王朝(皇室)の権威がその後ろ盾として残っていることなどの特徴がある。


なお、この項目の時代区分について詳しくは時代タグで。


また、○○時代とは生活の特徴から名付けたり、政治の中心地から名付けたり、元号から名付けたりする方法である。


概略編集

先史編集

日本にが住み出してから、まとまった文字資料がある時代(概ね大和時代)以前を「先史時代」と呼ぶ(古代よりも前)。詳細は縄文時代弥生時代、を参照。先史時代は考古学によって、その時期に使用された道具の材料から、(新・旧)石器時代、青銅器時代、鉄器時代と分けられる。ただし、鉄や青銅などが伝わった時期は地域によって差があるため、その時代区分も地域によって異なる。


(新・旧)石器時代編集

人類の誕生と進化、日本列島に住み始めた人々編集

人類が日本列島に住むようになったのは8~9万年前からと推定され、遺物が増えるのは3万年くらい前。この頃はもっぱら狩猟採集をするいわゆる旧石器時代(打製石器を使い始める)であった。現在よりも海面が低く、大陸と地続きだった氷期の日本列島に、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が移動した。それを追って、新人が来る(1946{昭和21}年に岩宿遺跡{群馬県}から日本で初めて打製石器が発見される{相沢忠洋さん発見}。また、金取遺跡{岩手県}では約9万年前と考えられる地層から打製石器が発見され、山下洞窟{沖縄県那覇市}では約3万年前と考えられる人骨の化石も見つかる。このことから、日本に旧石器時代が存在していたことが分かる)。

氷期の終わりと農耕の始まり編集

約1万年前に最後の氷期が終わり、地球が暖かくなる(温暖化する)と、寒い気候に適していた大型の動物が減っていった。狩りや漁、採集だけでは食料が足りなくなった人類は、素早い動物を狩るため弓矢を使うようになる。また、野生の小動物を飼いならして増やす牧畜を行うとともに、よく実のなる野生の植物を栽培する農耕を始める。このころには、石を磨いて作った磨製石器や、粘土を焼いた土器が作られるようになる。この時代を、新石器時代と言う。

縄文時代も新石器時代に含まれる


縄文時代(約1万数千年前~紀元前3世紀)編集

東日本を中心に約1万2000年の長きにわたり縄文文化が栄える。縄文時代の人々は、狩猟採集の傍らや粟、稗、豆、イモヒョウタンなどの栽培を営み、列島各地の交易も盛んとなった。縄文土器が発達して食料事情も改善。豊かな精神文化も育まれ、縄文土偶も種類を増した。

三内丸山遺跡(青森県):縄文時代最大級の遺跡


青銅器時代鉄器時代編集

弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)編集

水田作や金属技術が大陸より本格的に伝播し、本州以南の各地で稲作が行われた(朝鮮半島や中国から北九州にやってきた渡来人が伝える)。また、稲作には多くの人々の協力が必要で、ムラ(集落)を形成した。縄文土器よりデザインがシンプルな弥生土器が使用される(薄くて硬く、シンプルなデザイン)。これまで稲作が開始されたのは弥生時代以降(紀元前5世紀~紀元前4世紀)とされていたが、福岡県板付遺跡や佐賀県菜畑遺跡などで稲作の痕跡が発見されており、原始的な作物の栽培はここから始まったとされる説もある(近年、土器に付いたお焦げ{炭化米}の科学的な分析によって、弥生時代の始まりは、これまでよりも古い10世紀と考える説も出ている。その場合、縄文・弥生の時代区分にも影響がでる可能性がある)。青銅器鉄器が伝来する。青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛など)は豊作を神に祈る祭りの道具として使用されていた。

荒神谷遺跡(島根県出雲市):大量の青銅器(銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個)が発見された。一か所に埋められた理由は、はっきりしていない。

また、鉄器は武器工具として使用されていた。


また、村々を束ねる勢力が生まれ、によってへと成長していく。(大陸から伝来した稲作の拡大により、土地や水をめぐる争いが発生。周辺のムラをまとめるクニが出現する。)

吉野ケ里遺跡(佐賀県):物見やぐらを備え、や深いに囲まれた大きな

集落。防衛機能が備えられている。(このような周囲に濠を巡らせた集落のことを環濠集落という。集落の規模は約250×250m、濠の幅は容易には渡れない約6~8mが標準。)また、矢が刺さったあとが残る人骨も発見される。

これは、争いにより一つのムラが周辺のムラを併せてクニになった様子を示している。


中国の歴史書から見た編集

の歴史書(『漢書』地理志)によれば、紀元前1世紀ごろ、(日本)は100ほどのクニに分かれていたとある。また、1世紀半ばの歴史書(『後漢書』東夷伝)には、奴国(現在の福岡県付近)の王が漢に使いを送り、皇帝から金印(漢委奴国王と彫られている。江戸時代に福岡県の百姓が発見した)を与えられたと書かれている。

紀元1~3世紀の西日本には中国後漢から魏・呉・蜀の三国志三国}時代)と関係を結ぶ国が現れた。中でも有名なのが卑弥呼邪馬台国であり、『魏志倭人伝』によれば、景初2年(西暦238年)に倭国からの使者が朝貢に訪れ皇帝から「倭王」に任命されたなどの記述がある。

また当時の日本には数多の小国同士による倭国大乱が終結したばかりで、邪馬台国も卑弥呼の呪術によって諸国を束ねる連合国家の体であったとされる。ただし歴史書の記述を見る限り倭国の位置が九州からさらに南方に連なり会稽のちょうど東で、そこはどう見ても日本ではなく東シナ海の海中であり、事実、中国に残されている地図にもそのあたりに倭国が描かれているなど、記述史実をどの程度反映しているかは不明である。

また、空白の四世紀と呼ばれる間は、中国の歴史書に日本(倭)に関する記述はない

その後、『宋書倭国伝』に478年、倭王武がの皇帝に使いを送り、倭と朝鮮半島南部の国々の支配者を示す称号を求めたこと、の皇帝が安東大将軍倭王に任命したことが書かれていた。


本州弥生時代に突入したときの北海道と沖縄>編集

・北海道などの北の地域:東北地方でも早い時期から水田稲作が行われていたものの、後の寒冷化等の影響により短期間で放棄。それに伴い人口が激減したらしく、東北中部以北は続縄文文化に逆戻りしたと思われる。北海道では、シカなどの狩りや、鮭などの漁が行われていた。

・沖縄などの南西諸島:貝塚文化畑作が中心)で生活していた(サンゴ礁での漁など)。稲作はしていない。

しかし、この時代の北と南の地域は決して孤立していたのではなく、さまざまな地域と活発に交流をしていた。沖縄や奄美のサンゴ礁で採れる巻き貝腕輪に加工され、北海道にまで運ばれたものもある。装飾品などに使われるヒスイ(翡翠)や、鋭く割れて狩りや物を切るために使われた黒曜石も広い地域から出土しており、交易が盛んに行われていたことが分かっている。

・黒曜石の主な原産地:長野県の和田峠など。刃物として用いられた。

・ヒスイの主な原産地:新潟県の姫川。  装飾品として用いられた。


古代編集

文字が国内で使用され始める古墳時代から、天皇貴族を中心に政治が行われた平安時代までを古代と言う。詳細は大和時代古墳時代飛鳥時代}、奈良時代平安時代を参照。なお国語学・日本文学史や神道史などの分野では、奈良時代以前の時代を「上代」、平安時代を「中古」と言い区別する。


古墳時代(紀元3~6世紀末まで)編集

古墳が盛んにつくられた時期を指す。

3世紀後半頃から有力者達(豪族大王)の巨大な古墳が作られる。古墳とは、その地域を支配していた有力者たちの墓であると考えられている。

古墳の種類>

・円墳:丸い形をしているもの

・方墳:四角い形をしているもの

前方後円墳:円墳と方墳を組み合わせたもの。方墳の方向が前。

・帆立貝式古墳:文字通りホタテ貝のような、長方形と丸を組み合わせた古墳。


各地の勢力が争う中で近畿地方を拠点とするヤマト王権の優位が固まっていく。ヤマトの王が大王(おおきみ、後の天皇といわれる存在となる)で、その内の一人である第10代崇神天皇は実在が確実とされる最初の天皇ともいわれ、少なくともこの頃に皇室は存在していたと考えられている。


明治政府は、日本の建国年について『古事記』と『日本書紀』(記紀)の記述を根拠に初代天皇とされる神武天皇の即位年として算出した紀元前660年とした。しかし、初期の天皇の実在性は怪しく、記紀の記述では初期の天皇の在位年数が不自然に長いことからこれが歴史的真実とは思われていない。現代の考古学の知見では、この年代は弥生時代初期である。

6世紀に朝鮮百済から仏教が伝来。飛鳥聖徳太子(厩戸王)や蘇我馬子による国作りが進み、遣隋使小野妹子を派遣。聖徳太子と蘇我馬子の死後は蘇我蝦夷・入鹿親子が権力を掌握し、聖徳太子の子・山城大兄王を滅ぼした。645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)により蘇我蝦夷・入鹿親子が倒され、中大兄皇子主導で大化の改新によるを模範とした国家建設がなされたが、663年に白村江の戦い新羅と唐の連合軍と倭国と百済遺臣による戦い)に敗れ、倭国は朝鮮から手を引いたが、唐と新羅の来寇を恐れた朝廷は、西日本各地に防塁を築き、朝鮮式山城を築城した。


天智帝の後継争いの壬申の乱(天智帝の子の近江の大友皇子と天智帝の弟大海人皇子の戦い)に勝った天武天皇は天智帝の事業を引き継いで律令制(成文法をもって統治するシステム、特徴的なのは土地国家のものとし、戸籍を作り人民に土地を貸与する代わり兵役および年貢の義務を課す制度)の導入を始めた。この頃に、日本の国家体制が整備され、天皇」と「日本の名が生まれたとされる。『古事記』『日本書紀』も編纂された。


8世紀初には文武天皇により平城京遷都、盛んに遣唐使を派遣して唐から様々な技術文化、制度を導入、吉備真備阿倍仲麻呂玄昉などの留学生を派遣し、鑑真をはじめとする構想や技術者も招聘した。仏教を中心として天平文化が花開き、東大寺大仏が作られた。しかし、天皇や貴族と癒着した仏教の興隆により道鏡などの僧侶の政治介入も多くなった。道鏡は称徳天皇の信頼が厚く、宇佐八幡宮の信託を捏造して即位しようとしたが、和気清麻呂によりその計画は頓挫し、道鏡は下野国に配流された。


8世紀末、平安京に遷都。律令制が崩れ出し、荘園制寺院などの権力者が土地を私有し、管理は有力者が指定したものが行うシステム)が起こり、藤原氏摂関政治(天皇を補佐する役割である摂政および関白独占することにより、権力を維持するシステム)が成立。貴族達の政治とともに、国風文化が成長。地方では平将門藤原純友といった地方豪族から発展した武士達が出現し、中世への動きが始まる。


中世編集

永暦元年~永禄11年(1160年~1568年)平安時代末期の平氏政権成立から戦国時代末期までを「中世」と言う。詳細は平安時代鎌倉時代南北朝時代室町時代戦国時代)を参照。


平安末期の11世紀頃、上皇による院政が始まり、時を同じくして中央政治に武家が台頭。治天の君白河法皇の院政下で平氏が力をつけ、1160年代に平清盛が院政を停止して初の武家政権を興すも、源平合戦を経て源頼朝率いる源氏が勝利した。


これにより鎌倉幕府が始まり、承久の乱後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時成敗しようとして返り討ちにあったもの)で朝廷に勝利し、武家政権を固め、全国に支配を及ぼした。この承久の乱の前年には3代将軍・源実朝が暗殺され、将軍職は長らく空位となっていたが、頼朝の遠縁の親戚関係に当たる三寅を将軍に就任させ、頼経の子・頼嗣以降は宗尊親王などの皇族将軍を擁立するが、4代以降の将軍は傀儡に過ぎず、頼朝と縁戚の北条氏が権力を掌握していた。


二度も襲来したモンゴル軍(実際にはモンゴル=元を中核に、元の属国となった高麗や南宋の敗残兵による連合軍)を食い止めたが(元寇)、武士に「恩賞」を与えることができなかった幕府は弱体化。幕府は「永仁の徳政令」を発令するが、困窮する御家人はますます増加し、蒙古襲来以前から得宗(北条家の嫡流)による専制への不満も徐々に高まっていった。同時期には宗教界でも既成仏教に対抗して鎌倉仏教が興った。


14世紀、後醍醐天皇武将達と共に幕府を倒し天皇親政で過去の朝廷政治を復権させようとした建武の親政を始めたが、冷遇された武士たちの離反を招き、足利尊氏が光厳天皇を擁立(北朝の成立)して室町幕府を開いた。から逃れた後醍醐帝は吉野に朝廷を作り、南北朝分裂となり対立が続いた。


足利義満が南北朝統一を主導し、日明貿易(勘合貿易)でとの公式外交を再開し、「日本国王」の称号を受ける。この頃、義満の代に北山文化、足利義政の代に東山文化が生まれた。


室町時代後期には各地の「守護大名」(単位で設置された軍事指揮官・行政官である守護室町時代に司法権の追加など権限を強化され、世襲となり有力豪族となったもの)が力を増し、関東では28年にわたる享徳の乱が勃発、戦国時代に突入する。つづいて畿内で起こった応仁の乱で幕府の権威は衰微し、わずかに京都周辺に影響力を及ぼすのみとなった。


16世紀から各地では武田信玄上杉謙信といった多くの戦国武将が出現し、天下統一を目指して下克上の戦乱が続いた。ヨーロッパとの南蛮貿易が始まり、火縄銃キリスト教が伝来した。


近世編集

永禄11年~嘉永7年(1568年~1854年)織田信長の上洛から日米和親条約による開国までを「近世」と言う。詳細は安土桃山時代江戸時代を参照。


信長中部近畿を中心に勢力を増して室町幕府の将軍足利義昭を奉じて上洛したが、ほどなくして義昭を京都から追放、一般的にはこれが室町幕府の滅亡とされる。しかしその信長も明智光秀によって本能寺の変で倒れ、光秀を倒した豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた。


秀吉は刀狩(農民から鉄砲などの武具を奪う政策、一揆の防止策とも)と検地(いわゆる太閤検地、土地を改め権利をわかりやすくし、単位を統一した)を行い、近世武家政権の礎を築いた。を目指して二度の朝鮮出兵に踏み切るが、目的を果たせず秀吉が死亡したことで撤退した。


秀吉の死により豊臣政権の跡目争いが発生したが関ヶ原の戦い石田三成を倒した徳川家康は、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いた。豊臣家も大阪の陣で倒し、徳川家にとって脅威となる勢力を完全に消した。全国を諸侯を通じて統治する封建制を基本としつつも、室町幕府や鎌倉幕府と異なり諸藩・朝廷に直接強力な支配力を及ぼす幕藩体制を布いた。


幕府の徳川家光の代に島原の乱をきっかけに鎖国を完成し、幕藩体制は一応の完成を遂げる。いくつかの例外を除き基本的に天下泰平の社会が続き、安定した経済と産業が発展し、江戸大坂京都を中心に庶民文化が花開いた。


なお、蝦夷地には15世紀ごろより蠣崎氏が進出し、アイヌとのコシャマインの戦いで支配権を確立。江戸時代には蠣崎氏の流れをくむ松前藩に支配された。また琉球王国は17世紀初めに薩摩藩の侵攻を受け、王国は維持されるが薩摩藩の属国化された。


近代編集

日本近代史昭和史も参照。

嘉永7年~昭和20年(1854年~1945年)の開国から第二次世界大戦終結までを「近代」と呼ぶ。詳細は日本近代史および幕末明治大正昭和史を参照。


19世紀半ば、相次ぐ天災や財政難で幕府は疲弊し、その権力は揺らぎ、勤皇の風潮のなか朝廷の権威が再び上がっていく。黒船来航と開国によって時代は幕末を迎え志士達が活躍。徳川慶喜によって日本の統治権を朝廷に返還する大政奉還がなされる。にもかかわらず、薩長の思惑で戊辰戦争が起こり、幕府は完全に瓦解し、同時にの時代の終わりも決定的となり、明治維新を迎えた。


主導の政府は「復古」と「近代化」の二面性があったが、後者を重視する勢力が優位に立ち急速に西洋化へと舵を切る。政府は明治4年(1871年)に廃藩置県を断行し、300弱のを廃止して国直轄のとした。琉球藩の残っていた沖縄でも明治12年(1879年)に廃藩置県を実施して沖縄県とし、中央集権体制に組み込んだ。


新政府は欧米からの新しい文化を強力に摂取し、これを文明開化と称した。急速な近代化に抵抗する西南戦争などの士族反乱を鎮圧し、これへの反発として起こった自由民権運動に対する懐柔として1890年には帝国議会を作り、同年には大日本帝国憲法を公布して立憲国家としての体裁を整えた。並行して工業化富国強兵政策を進めて日清戦争日露戦争に勝利し、幕府が列強と結んだ不平等条約を改正して欧米と対等な国家となった。日清戦争で台湾を、日露戦争で朝鮮を統治下に置き、帝国主義国家への一歩を踏み出した。


幕末以来、日本内地の人口は爆発的に増え(江戸時代中期~後期の日本の人口はおよそ3000万人であったが、大正9年(1920年)の第1回国勢調査では約5600万人、昭和42年(1967年)に1億人を超えた)、農村部に滞留した過剰な人口が、20世紀前半の日本の工業化と都市化、対外進出の後押しとなった。


日露戦争後、明治末期から大正期の都市部では大正浪漫などと言われる大衆文化が成熟し、市民の政治参加を求める大正デモクラシーと大衆運動が国内で高まった。国際社会では第一次世界大戦に参戦。日本は特需景気で沸くとともに、同戦争に参戦を果たして列強の一員となった。ロシア革命ソ連建国に対してはシベリア出兵を行ったが、こちらは日露戦争とうってかわって無残な失敗に終わった。大正12年(1923年)、東京関東大震災が襲い、昭和の不景気の遠因となった。


昭和に入ると日本は世界恐慌に巻き込まれ、軍部が台頭。昭和6年(1931年)関東軍満州事変を起こして満州国を建ててしまい、中国はもちろんとも決定的対立を起こした日本は国際的孤立を深める。さらに昭和12年(1937年)、関東軍の独走により日中戦争が勃発。日本はナチス・ドイツファシストイタリア枢軸国として組み、大東亜共栄圏の建設を目指して第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)へ突入する。


現代編集

日本史では昭和20年1945年)の終戦以降を「現代」と区分する(世界史的には1989年以降とするのが一般的)。詳細は昭和史高度経済成長期バブル期平成などを参照。


連合国への完膚なきまでの敗戦により、日本はアメリカ合衆国を中心とする連合国軍に占領され、明治以降獲得した海外領土を喪失した。アメリカ主導のGHQ統治の下で改革が進められ、昭和21年(1946年)に日本国憲法を公布。敗戦の痛手から急速に復興を遂げ、戦後の冷戦下、昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和会議で名目上独立を回復するも、同時に結ばれた日米安保条約(旧条約)によって在日米軍の駐留が続き、引き続きアメリカ合衆国の影響下に置かれた。


米国の庇護でソ連と対峙する冷戦体制下、高度経済成長期を経て日本人の生活スタイルは激変し、東京オリンピック大阪万博を経て、日本は世界第二位の経済大国となった。昭和47年(1972年)には沖縄が本土復帰。同年には中華人民共和国との間の国交正常化が図られ、戦後処理にも一区切りがついた。昭和48年(1973年)のオイルショックの痛手も短期間で乗り切り、国際社会における日本の経済的・文化的存在感はかつてないほど増大した。昭和末期の昭和61年(1986年)には未曽有の好景気「バブル景気」が始まる。


昭和64年(1989年)の昭和天皇崩御により元号は「平成」へと変わる。冷戦は同年のヤルタ会談で終結、ソ連も平成3年(1991年)に崩壊したことで国際政治はアメリカ一極体制へと向かう。同時に昭和末期より続いていたバブル景気は崩壊し、日本は長い不況へ突入する。


21世紀に入ると、ソ連崩壊後に後退していたロシアが存在感を盛り返すとともに、中国インドなど新興国の台頭が顕著になる。日米同盟を通じて後ろ盾としてきたアメリカ合衆国の覇権は弱まり、日本の経済的衰勢とあいまって日本食一部の文化分野を除き国際的存在感は薄れる一方である。長引く少子化により日本の人口は2008年に1億2808万人でピークを迎え、以降、加速度的に人口が減り始める。


平成31年(2019年)4月30日に明仁上皇が一世一元の制のもと初めての譲位。翌5月1日には皇太子徳仁親王が126代目天皇として即位し、元号も一ヶ月前に発表された「令和」に変わり現在へ至る(なお、ピクシブ百科事典で「現代」のページが消されていることについては、外部サイトの記事を参照)


別の日本史編集

日本列島には異民族ないし本土とは別の政権下に入った地域集団が存在し、これらもまた、日本史の一部である。この項目ではそれらに関し記述する。


蝦夷と隼人編集

蝦夷(エミシ)は古代の東北地方にいた人々。平安期頃までアテルイをはじめ朝廷に反抗し続けたが、徐々に帰属していった。後に蝦夷(エゾ)と呼ばれるアイヌとの関係は不明だが、一応区別されて考えられている。


熊襲(クマソ)や隼人( ハヤト )は九州にいた海洋民と思われる人々で、神話では朝廷に反抗し続けた勇猛な部族として伝えられている。多くは朝廷に服属して、軍事官職を意味する名になったり、鹿児島男子の呼び名にもなった。


蝦夷の末裔の多くは百姓になったが、一部は東国武士に連なっていった。また、後世には山々を漂泊する人々が蝦夷や熊襲の末裔に結びつけられたりもしている。


アイヌと北海道編集

詳細はアイヌ松前藩を参照。


本州が弥生期・古墳期に移行したあとも、気候の関係上続縄文時代と呼ばれる縄文文化が続いた、7世紀から本州の影響を受けて、擦文式土器と畑作農耕を行う擦文文化に移行する。石狩平野などでは古墳(後期古墳)も作られた。同時代のオホーツク海沿岸には、樺太から移住した民族によると思われるオホーツク文化が存在した。


アイヌ文化ができたのは鎌倉期頃と思われる。本州の和人や北方民族との交易が盛んとなり、鉄器や農作物が簡単に手に入るようになったため、北海道の住民は農業土器作りから撤退し、擦文文化から交易のための狩猟採集生活に特化したアイヌ文化に変化した。


室町時代には「道南十二館」と呼ばれる和人豪族たちが道南に定着しアイヌと交易を行っていたが、コシャマインの戦いと呼ばれるアイヌ蜂起を機にその中の蠣崎氏が覇権を確立し、江戸期松前藩による蝦夷地支配に変化。アイヌはシャクシャインの戦いをはじめ何度も反乱を起こしたが鎮圧され、アイヌは和人の影響下で暮らすこととなる。一方で、松前藩はアイヌとの交易の利益を独占するため、蝦夷地への和人の入植を阻止した。


江戸時代後期にはロシアの艦船が近海に出没。幕府は国防への危機感から松前藩から支配権を取り上げて直轄地とし、道南以外の沿岸部にも和人の進出が進んだ。幕末から明治にかけ、松浦武四郎アイヌ語をもとに北海道の地名を付け、その足跡は樺太を含む蝦夷地の隅々まで及んだ。


明治以降、北海道内陸部の和人による開拓が急速に進み、それまでアイヌが営んでいた狩猟採集生活は困難となり、アイヌ文化は廃れていく。戦後はアイヌ語を話す人は稀になったが、独自文化を持つ先住民族として保存運動が高まった。


樺太編集

樺太南部には樺太アイヌ、中北部にはウィルタ、ニヴフが居住した。大戦後、ソ連軍が千島や樺太を占領し、日本人と共存していたアイヌ人やウィルタを追い出した。現在、樺太アイヌ・千島アイヌやウィルタの末裔の多くは北海道や首都圏に居住している。


琉球沖縄編集

詳細は琉球王国沖縄県奄美群島沖縄戦を参照。


琉球諸島(沖縄県と奄美群島)の住民の祖先は古墳期~平安期に九州から南下した人々が主体となっているとされるが、彼らがいわゆる大和民族に属するかは微妙な問題である。琉球諸島の住民と本土住民は民族的に明らかに同系であるが、異なる政権下にあった時代が長いからである(沖縄の近代史は「日本人」としての日本帰属を強く求めてきた歴史であり、編集者は本土住民と同一民族とみなすべきと考えるが、異論は認める)。


琉球諸島の住民は長らく縄文文化の段階(貝塚文化)にあったが、12世紀から按司( あじ )という豪族達がいくつもグスクを築いた。14世紀には北中南の三山王国が成立。15世紀前半に中山の尚氏(第一)が統一し、尚氏による2つの王朝(15世紀半ばに王族クーデターにより第二尚氏王朝が成立)による琉球王国ができる。


琉球王国は現在鹿児島県に属する奄美群島も支配下に置き、大陸や東南アジアとの中継交易で栄えたが、16世紀後半には諸外国の直接貿易が主流となったために衰退の道をたどった。17世紀には薩摩藩の出兵を受け薩摩の支配下に入る。この時期は薩摩との間の中継貿易と、黒砂糖生産などの農業が発展し、今ある沖縄文化はこの頃に形成された。


幕末には黒船が琉球にも来航。近代日本は明治7年(1874年)の台湾出兵(琉球住民が台湾で殺害されその責任をに求めようとしたが責任を取らなかったため日本は台湾に出兵)を機に、琉球を「沖縄県」として内地の府県に編入。その後も琉球文化は独自の色を濃厚に残し、空手などが本土にも伝播し、また日本統治下に入った台湾との交流も盛んになり、沖縄そばなどの新しい食文化も生まれた。戦争において沖縄戦で壊滅的な破壊を被り、多くの県民が犠牲になった。


戦後は米軍が沖縄を奄美群島と一緒に日本から切り離して統治し、沖縄本島には軍事基地が多く作られた。米軍支配に住民の不満は高まり、日本復帰運動が燃え上がった。奄美は昭和28年(1953年)に日本に復帰し、沖縄も昭和47年(1972年)に日本へ復帰。産業が少ない沖縄は観光を中心に発展したが、基地問題は未だ続いている。

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