概要
天正10年6月13日、羽柴秀吉は明智光秀を山崎の戦いで破り、主君・織田信長の敵を討った。本能寺の変よりわずかに10日あまり後の事である。
光秀討伐こそ成ったものの、織田家を総監督していた信長、並びに家督を相続し二代目として采配を振るっていた織田信忠が揃って自刃した事により、織田家中では早急に織田家の後継者と、遺領の配分を決める必要に迫られた。これを目的として清洲城にて開催された合議こそが、世に言う「清洲会議(清須会議)」である。
直接的な参加者は秀吉の他、当時摂津国を任されていた池田恒興、山崎の戦いにおいて秀吉の麾下で参戦した丹羽長秀(若狭国)、そして対上杉戦の総指揮官である柴田勝家、この4名で行われたと一般的には認知される。これら4名の他、信長の遺子である織田信雄・織田信孝、そして信長の同盟者であった徳川家康も、この合議の決定に委任する旨誓紙を交わしている。
織田家の宿老には上記4名の他にも、当時上野国を任されていた滝川一益がいたが、会議直前に後北条氏との合戦に破れ、信濃を経て領国・伊勢へと敗走を余儀なくされていた。一益はこうした身の上を恥じて自ら合議に参加しなかったとも、あるいは織田の勢力を関東より後退させた責任を取らされる形で参加を拒まれたとされる。また、近年の新説として情報伝達のタイムラグを考慮して、会議に出席した4名は後北条氏が攻め込んで一益と戦っているのは知っていたが、敗戦は知らなかった。つまり、会議の参加よりも最前線での戦いを優先させようとして召集の対象から外していたとする説も出されている。
※なお、会議の内容は後世の史料に書かれている内容であり、同時代に直接、会議の内容を書いた記録は存在しない。参加者たちが後に書状で断片的に述べている事や、周囲の人々が日記などに書きとどめた噂などから推測するしかないのである。このため、実際に清洲会議でどのような内容の会議が行われたかは、今もって不明な部分が多い事に留意されたい。
会議の内容
後継者問題
通説によれば、まず織田家の後継者問題を巡って議論が紛糾したとされる。本来ならば信長の次男である北畠信雄が、信長の嫡子で変時点での当主でもあった織田信忠の同母弟である事から、織田家後継者の第一候補と目されていた。
しかしこれに待ったをかけたのが、織田弾正忠家の家老格であった柴田勝家である。勝家は、山崎の戦いで大将を務め父の仇を討ち、周囲の評判もよかった信長の三男・神戸信孝を後継者として推薦した。
両者とも自らが後継者と主張し議論が紛糾する中で、羽柴秀吉が推したのが三法師、後の織田秀信であった。織田信忠の庶長子にして、信長の孫でもある三法師はこの時まだ3歳に過ぎず、三法師を推す秀吉と信孝を推す勝家との間で対立が生じるも、参加者のうち池田恒興と丹羽長秀がこれに賛同した事により、織田家の家督は三法師に与えられたとされる。
・・・しかし、上記した経緯は必ずしも実情を反映しているとは言い難い。というのも近年の研究成果から、元々信長や信忠に万が一の事があった場合、三法師が家督を継承するという方針は既に信長の存命時からの既定路線であった事が明らかにされつつあり、前述の経緯において対立した秀吉と勝家も含め、家中では合意を得られていたものであったという。そもそも合議の場が清洲城とされたのも、当時三法師が滞在していた事によるところが大きい。
ここで争点となったのは誰を織田家の後継者と定めるか、ではなく「三法師成人までの名代を誰とするか」という事であろう。血縁上でいえば信雄の方が三法師に近しいが、光秀討伐において功があったのは信孝であり、どちらかを立てるにしても家中の納得を得られないのは必定であった。結果として、家督後継者の三法師を信雄・信孝が共同で後見、さらに傅役として堀秀政を付属させ、秀吉ら4重臣はこれを補佐するという体制が、この合議の末に形作られたと見られている。
領地再分配
織田家の領地のうち、新当主の三法師は近江坂田郡と安土城を相続。また尾張は信雄に、美濃は信孝にそれぞれ与えられた他、彼らの弟で秀吉の養子でもあった羽柴秀勝も丹波(光秀の旧領)を相続している。
家臣団については、まず勝家には元々の越前の他北近江3郡、そして秀吉の居城であった長浜城を獲得。長秀も若狭の他に近江の2郡、恒興は摂津3郡を新たに得ている。しかし最も大きな加増となったのは秀吉であり、それまでの本拠である長浜城や北近江を勝家たっての希望で手放した代わりに、河内・山城の2カ国を得る格好となったのである。結果、秀勝の相続した丹波と併せて実に28万石もの加増となり、この時点で家中における勝家との力関係は逆転した。
他方で、一益ら諸将の撤退により空白地帯となってしまった甲斐・信濃・上野の3カ国については、当初これらの奪還を方針として掲げていたものの、家康からの旧武田領国進出の申し入れもあり、結果としてこれを容認する事となった。しかしこれにより不利益を被る格好となった一益らへの対応はこの合議の場では決まらず、さらに代替の所領要求の申し入れも先送りとされた事で、一益にとっては遺恨の残る形となってしまった。
また上述の通り尾張を継承した信雄と、美濃を与えられた信孝との間では、後に木曽川の流路変更に伴う国境線の変更を巡って確執が生じた。ここで興味深いのは、通説では信孝を後継者に推挙したはずの勝家が信雄の意見を支持し、一方で信孝の側に立ったのは秀吉という点であろう。これについては信孝を支持する事で、見返りとして当時岐阜に留められていた三法師を、先の合議での決定通りに安土へ移さんとする目論見が秀吉にはあったとも見られているが、結果的には信雄の主張が認められるに至っている。
清洲会議確定事項
氏名 | 織田家としての立場 | 安堵、加増された領土 |
---|---|---|
織田信雄 | 信長次男 | 尾張一国 |
織田信孝 | 信長三男 | 美濃一国 |
織田信包 | 信長実弟 | 伊賀一国と北伊勢 |
羽柴秀勝 | 信長四男(秀吉の養子) | 丹波一国 |
柴田勝家 | 織田家筆頭家老 | 越前一国と長浜城、並びに秀吉旧領の北近江三郡加増 |
丹羽長秀 | 織田家二番家老 | 若狭一国と近江二郡(滋賀郡、高島郡)加増 |
池田恒興 | 家臣団・信長の乳兄弟 | 摂津国二郡加増(尼崎郡、大阪郡) |
細川藤孝 | 旧明智縁戚 | 丹後一国加増 |
筒井順慶 | 旧明智縁戚 | 大和一国加増 |
高山右近 | 家臣団摂津衆 | 本領安堵 |
中川清秀 | 家臣団摂津衆 | 本領安堵 |
堀秀政 | 信長近習筆頭 | 近江国佐和山代官 |
羽柴秀吉 | 家臣団 | 旧領に加えて山城国一国加増。近江所領を勝家に割譲 |
三法師(織田秀信) | 信忠長男 | 近江国坂田郡(代官に堀秀政) |
清洲会議不確定事項
参加人数
- 4人である 柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興
- 5人である 柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・堀秀政
- 7人である 柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・織田信雄・織田信孝
- それ以上 上記7人はあくまで「主要人物」であり、実際にはもっと多くの武将が参加していた説
織田秀信の当主就任の是非
織田秀信の当主就任の経緯と理由
- 羽柴秀吉が家臣を持たない幼子である織田秀信を擁して自分が権力を固めたかったため、丹羽・池田に事前の根回しをしたから
- 信長・信忠存命時に既に秀信の家督継承の方針が固まっていたから
- 織田信雄・織田信孝が既に他家を継いでいたから
- 嫡男である織田信忠の息子が順当に織田家を継ぐべきと思ったから
(側室腹で生まれた織田秀信の存在を皆知らなかったとも。現代でも織田秀信の生母はおろか、織田信忠の室が誰であったのか判明していない)
清洲会議の開催地
- 清洲城で開催された
- 岐阜城で開催された
織田秀信の後見人
池田恒興よりも上位に遇されていた滝川一益の不参加の経緯と理由
- 生死すら不明であり、会議参加を期待できなかった
- 柴田派に就くことが予想されたため、羽柴秀吉が理由を付けて排除した
- 敗走を恥じて事前に自ら辞した
これら不確定事項は史料によってもまちまちであり、現時点では未確定情報とされている。
一番世間に浸透しているのはどの項目も一番上の情報である。ただし学者の中では当時の文書を重視し、清洲会議の参加人数などを七人だとする主張もあり、全貌が決定するのはまだまだ先である。
参考
- 中将信忠卿(織田信忠) →本能寺の変にて自刃
- 北畠中将信雄(織田信雄)
- 織田上野守信兼(織田信包)
- 三七信孝(織田信孝)
- 七兵衛信澄(津田信澄) →信長に誅殺された弟・信勝の息子。本能寺の変にて四国遠征軍が瓦解した折、明智光秀の縁戚であった事から、遠征軍に加わっていた信澄も大した証拠もなく殺害された
- 源五(織田長益)
- 又十郎(織田長利)
- 勘七郎(織田信弌)
- 中根(織田信照)
- 竹千代(織田信氏)
・織田信長の子供達
織田信雄→次男、北畠家の養子
織田信孝→三男、神戸家、三好家の養子
織田秀勝→四男(五男以降説も)、羽柴秀吉の養子、大徳寺の信長葬儀喪主
・以降は清洲会議時に元服前だった子供
織田信秀→六男、祖父と同じ名前
織田信髙→七男(八男説あり)。現在、スケートリンクの上を滑っている人は信髙の末裔を称する
織田信貞→九男
織田長次→十一男
その後の織田家
おおよその解釈として、その後の織田家は約四派に分裂し、織田家の内乱に大きく関わる。
羽柴派(中心人物:羽柴秀吉、その他人物:丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀勝など)
織田家重臣羽柴秀吉を中心とした勢力。
清洲会議で協調した丹羽長秀、池田恒興らを中心とし、さらに織田信長の四男で秀吉の養子でもあった、羽柴秀勝こと織田秀勝らもこの勢力に属する。
他にも森長可ら美濃衆や、柴田勝家の与力であった前田利家らも後に追従し、家中最大勢力となった。
秀吉は硬軟合わせた方法で勢力を伸ばし、朝廷から豊臣氏を与えられたことを皮切りに織田家を凌ぐ勢力となり、その後織田家の勢力を取り込むまでに至る。
しかし、秀吉個人の基盤はあくまで脆弱であり、多くの家臣団は織田信長の遺産によって
成り立っていたため、秀吉自身が織田家に対して強く出ることはできなかった。
秀吉自身も織田家の血を引く淀殿ら織田家一族の姫を側室に迎えており、その淀殿から生まれた豊臣秀頼が跡目を継いだ。
だが、結局秀吉個人の基盤の弱さを挽回するには至らず、秀吉の死後豊臣家は分裂。
徳川家康の台頭によって勢力は弱体化し、ついに大坂の陣で豊臣家は滅亡する。
信孝派(中心人物:柴田勝家、織田信孝 その他人物:滝川一益など)
織田家重臣の柴田勝家、信長の三男であった織田信孝を中心とした勢力。
当初は羽柴秀吉らと融和路線を敷いていたが、秀吉が信長の葬儀を大々的に執り行い、さらに三法師を信孝が手離さない事を理由として清須会議の決定事項を破棄した、天正10年10月頃から対立が表面化。
信雄派との争いもあり、翌年にはそれらを巻き込んだ賤ヶ岳の戦いが発生する。
清洲会議で美濃を得た織田信孝であったが、森長可や稲葉一鉄といった美濃衆を御することはできず、基盤は極めて脆弱であった。また伊勢で領地を得ていた頃の家臣団も疎遠となり、秀吉に対して組織的な抵抗ができなかった。
柴田勝家に関しても、賤ヶ岳の戦いでは与力衆の前田利家、金森長近らが離反するなど、総じて足並みの揃わなさが目立った。戦後、勝家と信孝はともに自刃するに至り、滝川一益のみが降伏して秀吉派閥に取り込まれた。
信雄派(中心人物:織田信雄、その他人物:徳川家康、佐々成政など)
信長の次男であった織田信雄と、織田家同盟者の徳川家康を中心とする勢力。
いわゆる天正壬午の乱の際に家康と北条氏直の和睦を斡旋したのが織田信雄であり、両者は早くから昵懇な関係を築いていた。
清洲会議に関しては、全くの蚊帳の外であった信雄だが、異母弟であった織田信孝との対立から、利害が一致した羽柴派と協調関係を築き、清洲同盟の決定事項が破棄された折に織田家の家督を継ぎ、遂には信孝を自刃に追い込むことに成功する。
その後、秀吉とはしばらく昵懇な関係が続いたが、やがて秀吉によって安土城を退去させられたり、秀吉とも親しかった三家老を手打ちにした事などもあり、天正12年(1584年)に信雄・秀吉間で軍事衝突が勃発(小牧・長久手の戦い)。信雄の器量のなせるわざか、はたまた
秀吉の挙動に疑問を抱いたかは不明だが、前述の通り組織的抵抗ができなかった信孝に比べ、信雄には旧織田家臣達や信雄直臣が多く付き従い、さらに同盟者であった徳川家康の采配もあって、戦争は長期化した。のちに和睦が結ばれ、信雄は羽柴派に取り込まれる。
豊臣政権下においても、織田信雄と徳川家康の昵懇な関係は続き、信雄は家康の降伏斡旋をつとめ、逆に家康は信雄の復領斡旋を務めた。
関ヶ原の戦い以後は豊臣家に仕えていたとされる信雄だが、大坂の陣後に家康が信雄に5万石を与えるに至り、織田信長の直系子孫は現代にまで至る。
秀信派(中心人物:織田秀信 その他人物:堀秀政など)
織田家当主に推された三法師こと織田秀信を中心とした勢力。
当時まだ3歳であったため当然政務を満足に執り行う事はできず、主に傅役だった堀秀政が差配を行った。
また本能寺の変という突発的な出来事によって当主就任となったため、基盤は一切なく清洲会議で得た3万石と、織田信長が生前定めていた家臣しかいなかった。
そのため、各派閥の争いに追従することしかできず、結果的に豊臣秀吉の台頭を許し、最終的に秀吉の傘下へと甘んじることになった。しかし個人基盤が脆弱で、織田家との繋がりが必要だった秀吉に丁重に扱われたため、織田秀信がその扱いを不満に思うことはなかったようである。実際、秀吉存命時には小田原征伐後の移封を巡って改易に処された叔父・信雄に代わって宗家当主の座に据えられ、徳川家康や前田利家に並ぶ重臣として扱われており、美濃岐阜12万石を領していた。
このように安泰かに見えた秀信の前途も、秀吉の死に伴い一気に暗転する事となる。秀吉亡き後の豊臣家内乱において、秀信は西軍に加担し岐阜城に拠るも、関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍の攻勢の前に敢え無く敗れた。
その後助命こそされたものの改易処分・高野山流罪となり、やがて高野山からも下山して程なく早逝。秀信の改易によって、この勢力は完全に瓦解することとなった。