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天正壬午の乱

てんしょうじんごのらん

天正壬午の乱とは、日本の戦役・争乱の一つ。天正10年(1582年)の織田氏の衰退をきっかけに、旧武田領で勃発した一連の騒動を指す。本記事では、乱の前後に勃発した出来事についても併せて取り扱うものとする。
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背景編集

甲州征伐編集

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天正10年(1582年)2月の木曾義昌の離反に端を発し、甲斐の武田勝頼信玄の嫡男)は長年敵対関係にあった織田信長と、その同盟者である徳川家康北条氏政による多方面からの侵攻を受けるに至った。

長年の織田・徳川との戦に伴う賦役で領国の疲弊を招き、さらに前年の第二次高天神城の戦いでの後詰めの失敗による信望喪失など様々な負の要因も重なり、武田方は緒戦から離反者が相次ぎ満足な抵抗もままならぬまま、わずか一月あまり後の3月上旬に天目山にて勝頼やその家族、郎党らは自刃もしくは討死。ここに名門・甲斐武田氏は滅亡の時を迎えた。

武田勝頼

山梨県の一部の市町誌においては、この時武田から離反した穴山信君(梅雪)小山田信茂の動向を指して、天正壬午の乱の名を用いたものが存在する。

ともあれ、武田氏滅亡によりその旧領である甲斐信濃上野は織田家臣や、織田に味方した武田旧臣に、そして駿河は家康に与えられることとなり、織田政権による統治下に置かれた・・・のだが、その支配体制が整う間もなく武田旧領は思いがけぬ混乱に見舞われることとなる。


本能寺の変と織田政権の衰退編集

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その発端となったのが、信長が畿内に戻った後の6月に起こった本能寺の変である。信長、そして後継者であった織田信忠がこの一件で揃って命を落としたことは、武田旧領を任されていた諸将らに動揺を走らすものであった。

本能寺

信濃においては、森長可毛利長秀(秀頼)らが相次いで本国へと帰還。長可は本能寺の変の直前、越後上杉景勝の領地へと侵攻していたため、長可の撤退によって景勝は滅亡の危機から脱することができた。

上野では滝川一益が、当地の回復を目論んで織田との同盟を破棄した北条氏による侵攻を受け、神流川の戦いにおいて惨敗を喫し、こちらも辛うじて畿内には戻れたものの織田家中における影響力を喪失するに至った。

そして甲斐では、その大半を任されていた河尻秀隆が武田旧臣による一揆の襲撃に遭い、また本領を安堵されていた穴山梅雪(信君)伊賀越えの途上で落ち武者狩りにより、それぞれ命を落とすという事態に見舞われた。


これらの動きを経て、一時的にではあるが政治的・軍事的に空白地帯と化した甲斐・信濃・上野の三国を巡り、周辺勢力や当地の国人らを巻き込んだ三つ巴の争乱が俄かに勃発することとなるのである。


関連勢力の説明編集

大名武田滅亡時の武田家との関係武田家との親族関係庇護している武田一門
徳川家康敵対家康の側室下山殿は武田信玄の義理の姪孫娘。見性院(武田信玄の次女)と穴山勝千代(見性院の嫡男)
北条氏直(実質的な権力者は氏直の父・氏政敵対氏直の母・黄梅院は武田信玄の長女。信松尼(武田信玄の六女)
上杉景勝同盟景勝の正室菊姫は武田信玄の五女。武田信清(武田信玄の七男)

上記の表を見れば分かるとおり、上杉景勝と北条氏政は武田信玄の義理の息子に当たる。そして、上杉は武田と同盟を締結していた間柄でもあった。次に、紛争の舞台となった甲斐・信濃・上野においてこれらの勢力に与した主だった国衆を以下に挙げる。


(※印の付記された者は後に徳川方へと離反)


これらの国衆については、木曾義昌や真田昌幸らのように本領の安堵やさらなる勢力の伸張を狙う者、小笠原貞慶などのようにかつての旧領の回復を目指した者とに大別され、彼らの動向は前出の周辺勢力の行動にも少なからず影響を与えるものでもあった。


概要編集

徳川の初動編集

本能寺の変が発生した当時、徳川家康は穴山梅雪と共にに滞在中であったが、変事の報せに接するや直ちに伊賀を経て畿内を脱出、本領である三河岡崎城へと帰還を果たした。

家康は、変を起こした明智光秀の討伐に動く傍ら、伊賀越えにおいて落命した梅雪の嫡男・勝千代と穴山領の「保護」や、甲斐の国人らへの知行安堵状の発給、それに河尻秀隆への「協力」要請など、甲斐における勢力の確保にいち早く取り組んだ。

この後、協力要請を受けた河尻は家康に甲斐簒奪の意思ありとの疑念を抱くも、前述の通り敢えない最期を遂げ、この報せを受けた家康は羽柴秀吉と連絡を取り、清洲会議において甲斐・信濃・上野の確保を認めるとの約定を引き出している。


甲斐における武田旧臣の取り込みについては、甲州征伐後に当地を領していた河尻が武田旧臣への弾圧を強めていたのに対し、家康は甲州征伐直後より武田旧臣を匿い丁重に登用したため、河尻の圧政に反対した武田旧臣が家康による支配を望んで協力したという一面があった。

一方、信濃においても同様に旧武田傘下の国人への取り込みが進められていたが、こちらでは諏訪頼忠への調略が不首尾に終わるなど、甲斐とは異なり思わぬ難航を余儀なくされている。


北条の進撃編集

一方で、本能寺の変の一方に接した北条氏直は、こちらも前述の通り織田との同盟を破棄して、神流川の戦いで滝川一益を破ってその勢力を上野より駆逐したのみならず、その余勢を駆って碓氷峠経由で信濃へと進出。前出の諏訪頼忠や、木曾義昌、真田昌幸といった当地の国人らを配下に加えつつ信濃中東部を占拠。さらに外祖父・武田信玄の旧領・甲斐の領有をも目指した。


が、こうした氏直の行動は、これに抗戦の構えを見せた佐久の依田信蕃や、甲州征伐の折に果たせなかった旧領回復を企図していた小笠原貞慶といった信濃国人を後援しつつ、甲斐へと勢力を伸長していた家康との衝突を意味するものでもあった。


上杉の反攻編集

この当時の上杉氏は、西からは織田氏による北陸侵攻、領内では新発田重家による反乱、そして南からは前出の森長可らの攻撃と、三方面からの圧迫により一時滅亡寸前にまで追い込まれていた。


しかし信長の横死により、このうち西と南からの脅威が去ったことで、息を吹き返した上杉景勝はまず北信濃の国人衆による織田方への反乱に呼応し、義父・武田信玄の旧領だった当地を占領することに成功。さらに当地の国人のうち上杉に属した春日信達を海津城代に置くと共に、当時上杉の庇護下にあった小笠原洞雪斎(小笠原長時の弟にして貞慶の叔父)を擁立し、当時旧小笠原領を支配していた木曾義昌の追放も画策している。

洞雪斎は信濃への進出後、深志城を木曾方から奪還し筑摩・安曇の領主らの協力を取り付けているが、肝心の小笠原旧臣らの多くは甥の貞慶の側についたため、その貞慶からの攻撃を受けた洞雪斎は程なくして深志城を追われるに至った。


若御子対陣編集

北信濃へと侵攻していた上杉軍は、川中島において北条軍とにらみ合いとなったが、7月に入ると真田昌幸の調略により、春日信達が北条方へと内通していたことが発覚し誅殺されるという事態が発生。領内での反乱鎮圧を優先させたい上杉軍と、速やかに甲斐への進出を図りたい北条軍は、北条が手にした北信濃の4郡を上杉に割譲する形で講和を成立させ、上杉軍は越後へと撤退、北条軍は甲斐へと転進している。


こうして直接対決が不可避となった徳川・北条の両軍は、7月下旬より甲斐北部の若神子(現・山梨県北杜市)を舞台に、暫しの間対陣に及ぶこととなる。

8月に入ると、北条氏忠らの兵が御坂峠を越えて甲斐に侵入、上黒駒(現・山梨県笛吹市)において鳥居元忠ら徳川方の軍勢と交戦状態に入る(黒駒合戦)が、合戦は徳川方の勝利に終わり、また依田信蕃らによるゲリラ活動で補給路が脅かされたこともあって、氏直の思惑とは裏腹に戦線は膠着状態に陥った。

さらに9月に入ると、依田信蕃を通じて木曽義昌や保科正直、真田昌幸らが相次いで徳川方に与するという事態が発生。北条にとっては最早甲斐の領有どころではない状況に追い込まれた。事ここに至り、事態の打開を図るべく徳川・北条の双方は、織田信雄信孝から出された和睦勧告に乗る形で、信雄を仲介役として講和を成立させるに至った。

時に天正10年10月末、この講和により甲斐・信濃は徳川が、上野は北条がそれぞれ切り取り次第とされ、さらに氏直の元に家康の娘である督姫が嫁ぐこととなり、両者の同盟が復活した。


その後の展開編集

こうして徳川・北条間の抗争はひとまずの落着を見たが、これにより今度は信濃において新たな争乱の火種が発生することとなる。

徳川の後ろ盾を得て佐久だけでなく小諸も領し、周辺勢力を従えつつあった依田信蕃は、これを良しとせず北条方に与していた大井氏や、その傘下の勢力とその後も対立を続けていたが、天正11年(1583年)2月に大井氏の本拠であった岩尾城攻めにおいて、信蕃は敵兵からの銃撃により落命。その大井氏も最終的には徳川方に岩尾城を明け渡して上野へと退去、佐久も徳川の手に渡る格好となった。


一方で前述の通り、徳川・北条間の講和の条件として「北条が上野を領有する」ことが定められていたのだが、これが当地に所領を持つ真田昌幸からの、徳川に対する反発と不信を招く結果となった。昌幸にしてみれば、(上野の一部を含む)真田領を守るために徳川に臣従したにもかかわらず、その一部を北条に渡すというのは本末転倒な話でしかなかったのである。

家康くんと氏政くん

結果、昌幸は再び上杉景勝に接近を図り、さらに家康が小牧・長久手の戦いに忙殺されている間隙を縫って本領である小県、それに沼田や吾妻といった上野の領土の掌握を強めていく。前述した通り、景勝の正室・菊姫は武田信玄の娘であり、景勝は武田とも同盟を締結していたため、旧武田家臣の昌幸からすれば景勝への臣従は乗り気であったと考えられる。

これらの動きにより、徳川と真田の関係は手切れとなり、天正13年(1585年)秋には真田の新たな本拠となった上田城に、鳥居元忠らの軍勢が攻め寄せるという事態にまで発展する(第一次上田合戦)。しかし上田城攻略は真田側の抵抗に遭って失敗に終わり、さらに上杉からの増援や、石川数正の出奔などにより徳川軍の撤退という形でこの戦いは幕引きを迎えた。


もっとも、上田合戦が真田の勝利に終わったとはいえ、北条はなおも上野の真田領への進出を諦めてはおらず、北関東への進出と並行して度々当地への攻撃を実行するなど、上野を巡る遺恨はその後もなお尾を引く格好となった。最終的に、全国統一を進めつつあった豊臣秀吉からの働きかけで、北条に対し沼田領の割譲を引き換えに臣従が申し入れられ、天正17年(1589年)には豊臣政権の裁定により沼田領の2/3を北条に引き渡すことが決定した。

にもかかわらず、肝心の豊臣政権への北条の臣従の動きは進まず、さらには名胡桃城事件の発生という、先の裁定を反故にするかのような事態までも発生したことを受け、秀吉はこれを「惣無事令」に違反するものと判断、全国統一の総仕上げともいうべき小田原征伐に踏み切るに至るのである。


関連タグ編集

戦国時代 信濃

真田丸(大河ドラマ):同作の序盤において、この争乱が真田氏の視点より描かれている


関連人物編集

徳川軍編集

徳川家康 下山殿

穴山勝千代 見性院

酒井忠次 本多忠勝 榊原康政 井伊直政

石川数正(乱後に羽柴に臣従) 本多正信 鳥居元忠 大久保忠世 平岩親吉 三宅康貞 小笠原貞慶(乱に伴って深志城(松本城)を回復後、石川数正と共に羽柴に臣従するも、後に再び徳川に帰参)

依田信蕃 真田昌幸(乱後に上杉に臣従) 保科正直

奥平信昌 岡部正綱 木曾義昌(乱後に羽柴に臣従し、再び徳川に帰参)

小笠原信嶺 下条頼安(乱の前後を通して下伊那での勢力を拡大するも、小笠原信嶺との対立の末に横死)


北条軍編集

北条氏政 北条氏直

北条氏照 北条氏邦 北条氏規 北条氏忠

北条幻庵 北条氏勝

大道寺政繁

内藤昌月(保科正直の実弟、北条滅亡後に徳川に臣従)


上杉軍編集

上杉景勝 菊姫

武田信清

直江兼続 斎藤朝信 本庄繁長 水原親憲

上条政繁(のちに出奔) 小笠原洞雪斎 山浦景国(のちに追放処分を受ける)

芋川親正 屋代秀正 春日元忠

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