概要
天文15年(1546年)~元和2年5月13日(1616年6月26日)。
上杉謙信・上杉景勝の二代に渡り上杉家に仕えた重臣。通称は弥七、官途名は常陸介。
越中出身。最初は大関姓を名乗っていた。
1561年、第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)で武功を挙げ、謙信に高く賞賛されたという。
謙信没後の後継をめぐる御館の乱では景勝を支持した。
新発田重家の乱の時、水原満家が戦死したために水原家を継ぎ水原姓を名乗った。
上杉家随一の鉄砲巧者であり慶長出羽合戦や大坂の陣でその力量を存分に発揮した。
戦場では、自軍の優勢時は無言に徹し、劣勢の際には大声量で味方を鼓舞し士気を高め、謙信からは剛の者と讃えられた。また、戦へ赴く際も仲間と世話話をして大笑いをしながら戦場へ向かうなど、臆する様子はなかったという。大阪冬の陣では、その活躍から徳川秀忠から感状を賜るが、後に「これまでいつ死ぬかもわからない戦で感状をもらうことがなかったのに、こんな花見同然の合戦で感状をもらえるとはおかしなことだ」と大笑いして語ったという。ちなみにこの時の感状には名字が「杉原」と誤記されていたが、これを機に杉原(読みは同じ「すいばら」)と改姓した。
外見については「鴨居を遮るほど大柄で、馬のような面構えで、顔は黒大豆を撒いたようにホクロだらけ」というかなりインパクトの強い魁偉な容貌であったとか。同家に仕える直江兼続の「愛」の前立ての変わり兜が有名だが、親憲も「風の神、雷の神、火の神」と書かれたうちわをあしらった兜をつけていた。また、武人である一方で乱舞や連歌、茶の湯にも精通した風流人でもあり、人の噂の話題に上がることが多かったという。
戦時・平時問わず上杉のムードメーカーでもあったらしく、酒宴の際にはその顔に白粉と紅を塗って頭巾をかぶった出で立ちで舞を披露し、あの無口無表情で有名な景勝があやうく吹き出しかけたという。
剛の者であるが冷静な目もあり、関ヶ原の戦いの際には東軍の勝利を予想していたという。このため、主戦派筆頭だった直江兼続とは仲が悪くなり兼続の振舞いに対して皮肉を浴びせることもあったという。