概要
戦国時代(室町時代)、甲斐(山梨)の武田信玄と越後(新潟)の上杉謙信との間で、信濃(長野)北部の支配権と勢力均衡を巡って争った、戦国有数の合戦である。
一口に「川中島の戦い」と言っても一度の合戦を指す訳ではなく、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて計5回、同じ地域で両軍の衝突があり、そのうち実際に戦闘があったのは2回である。
また、古文書研究の進展によって、明らかに5回の戦いとは別の「川中島の戦い」に関する古文書が発見され、5回以外にも信濃北部を巡って信玄と謙信が直接出陣して睨み合った戦いが少なくても数回あったとされている。例えば、永禄10年(1567年)に信濃北部にある野尻城の攻防を巡って緊迫したため、信玄・謙信共に信濃北部に出陣して対峙したと考えられている。
戦いの舞台となった川中島は、善光寺と現在の長野市がある盆地・善光寺平の犀川と千曲川の合流地点を中心にした地域である。各種の農作物や漁業に富んだ肥沃な土地で、また交通の要衝として経済・戦略の両面において非常に重要な地であった。
天文年間、当主に就任し甲斐をまとめ上げた武田晴信(信玄)は、信濃への勢力拡大を図り当地の有力大名・豪族と対立。北信濃の雄・村上義清らの頑強な抵抗により、戦はおよそ10年に及んだものの、傘下の真田幸綱(幸隆)による村上方の武将の切り崩しや調略により、最終的にこれを討ち破って義清らを越後へと追いやった。
一方、敗れた義清や信濃守護・小笠原氏らは越後の長尾景虎に助けを求めた。この信濃の諸勢力の支援要請に応えるため景虎は遠征を決定、対する晴信も協力的な豪族を味方につけ遠征におよび、両軍は川中島を挟んで幾度となく干戈を交える事となる。
第一次
天文22年(1553年)に発生し、布施の戦いもしくは更科八幡の戦いとも呼ばれる。この戦いに先んじて村上氏が、景虎の支援の下一旦は旧領回復に成功しているが、その後の武田軍の反攻により再度信濃を追われており、これもまた景虎自ら出陣するという事態に繋がっている。
9月に兵を発した長尾勢は、緒戦で武田の先鋒を打ち破ると一気に南進、荒砥城を始めとする川中島南方の諸城を落とす。これに対し晴信は夜襲を仕掛け退路を断とうと試み、その後は決戦を避けたため両軍とも帰国。
景虎にとっては北信濃の国人衆が一斉に武田側に付く事を回避でき、対する晴信は旧村上領の埴科郡を掌握するに至るなど、この戦いでは両者とも一定の成果を上げた形となった。またこの戦いの後、景虎は上洛し後奈良天皇より「私敵治罰の綸旨」を獲得、「賊軍」たる武田氏討伐の大義名分を得ている。
第二次
天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも呼ばれる。晴信は駿河(静岡)の今川義元と相模(神奈川)の北条氏康との間で甲相駿三国同盟を締結し、後顧の憂いを払った上で、翌年に善光寺地域を治めていた豪族を追い出した。また長尾家臣・北条高広に反乱を起こさせる事で景虎の足元を揺るがそうともしている。
これら一連の武田側の行動に対し、景虎は善光寺奪回のため遠征し、両軍は犀川を挟んで布陣、200日に亘る睨み合いが繰り広げられた。やがて義元の仲介により和睦が結ばれ、両軍が撤兵する形で幕引きとなった。
この和睦で北信濃の国衆の旧領復帰が認められた事で、長尾氏は犀川以北の地域を確保するに至っている。
第三次
弘治3年(1557年)に勃発、上野原の戦いとも呼ばれる。晴信は先の戦いの後、木曽氏を降して南信濃の支配を盤石なものとする一方、主に調略を通して地元諸将を支配下に収めつつあり、同年2月に入ると晴信も自ら出陣、善光寺平に布陣する。対する景虎も三度遠征におよび、武田方の城を次々に陥落せしめる。
その後長尾軍は武田領内の深くにまで侵攻、対する武田軍は決戦を避けつつ川中島へと進軍。これを受けて両軍は8月下旬に上野原にて戦ったが、結局両者とも大した戦果を得られぬまま撤退。
この戦いの後、室町幕府13代将軍・足利義輝の仲介により晴信と景虎の間で再び和睦が結ばれ、これと引き換えに晴信は信濃守護職に補任された。信濃守護となった上、北信濃における勢力を拡大した晴信が、この戦いにおいて有利な結果を得た格好となる。
第四次
八幡原の戦いとも呼ばれる永禄4年(1561年)の戦いは、一連の戦いの中で最大規模の合戦となった。
その前年、後北条氏に追われた関東管領・上杉憲政を擁して景虎は関東へ出兵、小田原城を攻めるも苦戦を強いられる。その間に信玄(永禄2年に出家)は信濃攻略を着々と進め、川中島に海津城を築き景虎の背後を脅かす。
これを受け、越後に引き上げていた上杉政虎(永禄4年に改名)は1万3千の兵を率いて出陣、善光寺から南下した上杉勢は千曲川を渡って妻女山に布陣する。これより遅れて信玄も2万の兵をもって甲府より進発、当初塩崎城に入った後、千曲川を渡って海津城に入城するに至る。
例によって両軍の間で睨み合いが続く中、武田側では山本勘助と馬場信房の献策により、軍を二手に分けて別働隊の攻撃で上杉勢を川中島まで追い込み、待ち伏せていた本隊との挟撃で殲滅に及ぶ「啄木鳥(きつつき)戦法」を実行した。
しかし、政虎はこの戦法を見抜き、早朝の濃霧に乗じて武田勢本陣の眼前にまで接近、9月10日早朝遂に両軍は八幡原にて激突に及んだ。戦国期では珍しい主力部隊同士の全面戦闘であり、合戦は当初上杉勢の優位に進むも、武田勢の布陣を崩し切れないうちに別働隊が八幡原に到着。不利を悟った上杉勢は善光寺まで退き、戦いは終結した。
この戦いの最中、政虎は自ら馬に乗って信玄のいる本陣に単騎突入、斬りかかられた信玄は掲げた軍配でこれをかわしたと伝わっている。後世、「流星光底長蛇を逸す」と詠まれた名場面の一つであるが、無論これは創作性が強く、史料上で裏付けがなされている訳ではない。
この戦いで両軍は大損害を出し、武田側は武田信繁・山本勘助ら有力武将を失い、上杉側も多くの将兵を失ってやはり勝敗の決着はつかなかった。一説ではこの時、武田氏に招かれていた僧侶・天海がこの合戦を山頂から観戦していたと言われる。
第五次
永禄7年(1564年)に起こったこの戦いは塩崎の対陣とも呼ばれ、信玄と輝虎(永禄4年に改名)は塩崎城付近にて対峙したが、2か月に亘る睨み合いの末両軍はまたしても撤兵した。
その後の信玄と謙信の動向
合戦は5度に及んだものの、実質的には第四次合戦の終結と共に両者の衝突は収束に向かっており、これ以降武田・上杉双方とも対外方針の転換により、直接的な対決に至る事は殆どなくなった。
信玄は第五次合戦の後、当主・義元を失い動揺著しい駿河へと侵攻、これを受け後北条氏は武田氏との同盟を破棄し、甲相駿三国同盟はここに瓦解を迎えた。さらに信玄は遠江・三河方面への進出を画策し、徳川家康と戦端を開くがその途上の元亀4年(1573年)、道半ばでその生涯に幕を下ろした。
一方の謙信は第四次合戦の直後から再び関東遠征を再開、これ以降毎年のように後北条氏や傘下の勢力と抗争を続けているが、永禄9年(1566年)の臼井城攻めの失敗を境に、関東での戦況は劣勢に転じていく事となる。晩年は主に越中・加賀など北陸方面での戦いが主体となり手取川の戦いにて織田軍を撃破した。しかし、天正6年(1578年)に没した。
武田家と上杉家の同盟(甲越同盟)
信玄と謙信の死後に彼らの後継者となった武田勝頼(信玄の嫡男であり四男)と上杉景勝(謙信の養子であり甥)は、織田信長や北条氏政の脅威に対抗するために同盟・甲越同盟を結んだ。
この同盟の一環として、信玄の娘・菊姫が景勝に嫁いだ。要するに、武田信玄と上杉謙信の子供たちが結婚したのである。
この縁により武田信清(信玄の七男)は、武田滅亡後に異母姉・菊姫の嫁ぎ先である上杉氏に仕え、彼の子孫も上杉氏に仕え続けた。
その後の川中島
川中島一帯は長らく武田氏の勢力下に収まっていたが、武田氏が滅亡すると織田家臣・森長可の一時的な支配を経て、本能寺の変によって織田軍が撤退すると、上杉・北条・そして徳川の三者間で繰り広げられた天正壬午の乱の舞台ともなった。
最終的に徳川氏がこの地を獲得し、江戸幕府の成立からしばらくして武田氏の旧臣・真田氏が松代城(海津城)に移り、松代藩としてこの地を治める事となる。この当時、度重なる戦乱や天災などで荒廃していた川中島一帯であったが、残されていた戦跡は松代藩によって保護を受け、戦国期を代表する一族と、強力な才覚を持った戦国武将の戦いは後世に至るまで語り継がれていったのである。
こゝに龍虎のたゝかひを
いどみし二人の英雄も
おもへば今は夢のあと
むせぶは水の聲ばかり
―― 鉄道唱歌(北陸篇)二八番より
関連タグ
源平合戦:信玄は源氏、謙信は平氏の子孫であるため体を成している。
川中島ダービー:サッカーのダービーマッチ。ヴァンフォーレ甲府とアルビレックス新潟の試合。
阿部寛:上杉謙信を演じた経験もあり、武田信玄を演じた経験もある。