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今川義元

いまがわよしもと

今川義元とは、東海・中部地方の戦国武将。駿河の名門・今川氏の当主としてその最盛期を創出、戦国大名への脱皮を果たすも、桶狭間の戦いにて非業の最期を遂げた。(1519年-1560年)
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史実での今川義元

幼年期~花倉の乱

駿河・遠江守護で今川氏の9代当主・今川氏親の五男として、永正16年(1519年)に生を受ける。誕生した時点で既に長兄・氏輝が嫡男と定められており、4歳にして仏門(後述の義元のゆかりの寺『臨済寺』を参照)に出され太原雪斎の下で学問を修する日々を送る。その間に得度し一時期は「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」と名乗っていた事もあった。

天文5年(1536年)、家督を継いでいた氏輝、そして同母兄の彦五郎が相次いで急死すると、重臣達からの要請に応じて還俗し「義元」と改名、後継者に名乗りを上げる。これに対し、今川家中の有力家臣であった福島氏は異母兄・玄広恵探を擁立し義元と対立、遂には武力衝突にまで発展した(花倉の乱)。この内紛を家臣の支えや北条氏の支援もあって鎮めると、晴れて今川氏当主に就任した義元は忠義の家臣らを重用し、支配体制の確立に努めた。


版図拡大と盟約締結

家督相続から間もなく、それまで敵対関係だった甲斐の武田氏から、当主・信虎の娘(定恵院)を正室として迎え入れ同盟を結ぶ。以降、信虎が息子の晴信に追放された際にはその身柄を預かったり(義元は晴信に信虎の隠居料を請求し、以後 信虎の隠居費用は武田家から支払われていた)、高遠における武田氏の軍事行動においても援軍を派遣するなど、二代にわたってこの同盟関係は維持され続けた。

しかしこの動きはそれまでの盟友であった北条氏との敵対を招き、駿河東部を占領される結果となってしまう(第一次河東一乱)。この状況を打破すべく、義元は北条氏と敵対関係にあった山内上杉氏と結んでこれに対抗。北西からの挟撃によって北条氏を追い詰めると、武田晴信の仲介の下結んだ和睦の条件として河東の地を取り戻し、実質的な勝利を収めている(第二次河東一乱)。

一方、西方では尾張の織田信秀と三河を巡って対立し、一時は小豆坂の戦いで大敗を喫するなど劣勢に立たされたが、松平広忠の帰順などもあって三河勢への支配を着実に進めていった。この時広忠より人質に出された嫡男・竹千代はその幼年期を今川氏の本拠・駿府にて過ごし、義元は姪(築山殿)を養女としてに嫁がせると共に、偏諱を与えて「元信(後に元康)」と名乗らせている。天文17年(1548年)には信秀との再戦(第二次小豆坂の戦い)で雪辱を果たし、さらに安祥城の攻略によって織田氏の勢力を三河から一掃している。


天文23年(1554年)、先に結んだ和睦の後も緊張状態にあった北条氏から、嫡男・氏真の正室として氏康の娘(早川殿)を迎え入れる。既に武田氏には信玄の嫡男・義信に義元の娘・嶺松院が、北条氏には氏康の嫡男・氏政に信玄の娘・黄梅院がそれぞれ嫁いでおり、これによって三者間での盟約(甲相駿三国同盟)が成立した。

その背景には、これまでのように東西に敵を抱える状況を憂慮した、義元の戦略的な考えがあったとされ、盟約成立によって後顧の憂いをなくした義元は三河経営の強化に努めると共に、尾張進出を狙って当主・信秀が没したばかりの織田氏に対し、さらに攻勢を強めていく事となる。こうした動きは永禄元年(1558年)、嫡男の氏真に家督を譲り隠居の身になって以降、さらに本格的なものとなっていく。


桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)5月、義元は自ら2万5000の大軍を率いて尾張への侵攻を開始する。従来、この軍事行動は「義元が上洛を目指していて、その途上で邪魔な織田氏を蹴散らそうとした」というイメージで語られることが多いが、上洛を前提としているにしてはその途上の近江六角氏、越前朝倉氏などへの根回しが行われた形跡は見られず、そのような状況下でさらに織田氏を退けての上洛は困難との見方が強い。

一方、この当時は織田信長がようやく尾張国内を統一しつつあり、尾張と三河の国境地帯では鳴海城・大高城など今川方の諸城が織田方からの攻勢に曝されていた事から、現在では純粋に尾張国内の今川方への支援などが目的であったとする見方が主流となっている。


ともあれ、先鋒を務めた松平元康らの働きにより、前哨戦では勝利を収めた今川軍であったが、義元率いる本隊が沓掛城から大高城への移動の途中、桶狭間で休息を取っていた所に信長率いる軍勢による奇襲を受ける。義元も家臣らと共に奮戦するも、信長の家臣である毛利新介(良勝)によって討ち取られ戦死。時に永禄3年5月19日(1560年6月12日)、享年42。

遺体は生き残った兵たちが駿府まで連れ帰ろうとしたものの、腐敗の速さゆえに叶わず三河中部の宝飯郡にやむなく埋葬された。一方で織田方に奪われた首級は、鳴海城番を務めていた岡部元信が開城と引き換えに取り戻し、駿河へ戻った。


義元の死後、松平元康の自立を皮切りに三河での今川氏の勢力は徐々に失われ、さらにその影響で遠江にまで混乱が波及する(遠州錯乱)など、今川氏は最盛期から一転急速に没落へと転じていく事となる。そして永禄12年(1569年)に武田と徳川による攻勢を受けるに至り、戦国大名としての今川氏も滅亡の時を迎えたのであった。

当主・氏真は駿河を追われた後、妻の実家である北条氏や、かつて傘下の勢力であった徳川氏の庇護下を転々とし、京の相国寺で仇敵・信長の前で蹴鞠を披露したり、豊臣秀吉に御伽衆として仕えたりとしぶとく生き延びた末、江戸時代においては氏真の子孫が高家として存続することとなった。


悲惨な評価と真の姿

悲惨な評価

その生涯よりも最期が圧倒的に有名。

やたらとアホキャラ、色物、三枚目、暗愚扱いされることが多く、扱いとしては信長の踏み台そのニ(一は織田信勝)。

後世の創作作品においては、訳もなく太っていたりバカ殿風のメイクをさせられていたりする。


生前は破竹の勢いで京都まで勢力を拡大しようとしたが、その途中に誰かさんに足元を掬われて桶狭間に散った挙げ句パシリに独立され、息子の代で戦国大名としては滅亡し各地を流浪…大まかに彼の末路を語ってしまえばこのような有様なので、後世においては、馬にさえ乗れなかった(伊勢のピザデブ肥前の熊あたりとの混同。桶狭間では最初に馬に乗って逃げたといわれている)と好き放題に創作されて踏んだり蹴ったりである。


真の姿

しかし実際には、前述の通り名族今川氏の最盛期を現出して「海道一の弓取り」と恐れられた大名であり、武田信玄があれだけの戦力を持ちながら足を引っ張られたりもした、まごうかたなき名武将である(一説では、信長は桶狭間の戦いでは今川軍のどれかに甚大な打撃を与える事で、今川軍の全面撤退に繋げるという可能性に賭けて出撃し、今川軍本隊を丸根・鷲津砦を陥落させ疲労した比較的組みし易い部隊と勘違いして攻撃したともいわれ、そもそも、討った信長自身ですら桶狭間の勝利に関して、「あれはマグレ」という旨を後年口にしているほどである)。


義元自身も軍略はもちろんのこと、最古の分国法と言われる『今川仮名目録』の改訂(『仮名目録21条』)、商業の保護や流通の構築、それに家臣団の体制作りなど内政面にも卓越した手腕を持っていた。その手腕は同時代の武将である朝倉宗滴をして、「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」と、武田晴信や織田信長らといった面々と同列に高く評価しているほどである。

ちなみに分国法の改定に伴う「守護使不入地」の廃止は、幕府を支える名家の一つであった今川氏と室町幕府との間の関係を断つものでもあり、この事は今川氏が幕府権威を背景とした守護大名から、自らの実力に依拠する戦国大名への脱皮を果たした一つの表れともいえる。その点も含め、正しい意味での日本での最初の戦国大名であると見る向きもある(他は守護や守護代からの成り上がりが大体)。

このほか、河東一乱においては周辺勢力との連携により河東の地を奪還せしめ、さらに三国同盟の締結によって尾張侵攻への後顧の憂いをなくすなど(師の太原雪斎の助けも大きいとはいえ)高い外交センスの持ち主でもあった。

あまり書かれる事は少ないが剛毅さと武芸も人並み以上であったようで、桶狭間の合戦時にも近寄る敵兵相手に奮戦し、服部小平太に槍で刺されたながらも屈する事なくその脚を太刀で薙ぎ、さらに組みついて首を取りにきた毛利新介の親指を食いちぎったともいわれる。


一方、輿に乗っていたのは事実で、これはさすがに他の武将と大きく違っている点である。

それが高じて貴族かぶれ扱いされる事もあるが、それは「(よほど高貴な人間でなければ乗れない)輿を使う事を許される家格の高さを誇示するため」という外交的理由を多分に含んだ行動であった。

よく歌を詠んでいたというのも、教養の高さを誇示する目的があった。というより当時は、それなりに教養を積んだ人間であれば多少の歌を詠むぐらいはできて当然という世の中であり、また中央の朝廷・貴族などとの外交交渉にも役立つ物であった。彼の場合は「貴族かぶれのバカ大名」というイメージが先行してしまっただけだろう。

そしてこの文化人としての教養は氏真にもしっかりと受け継がれ、大名として滅亡した後もこれらの教養を活かして朝廷にパイプを作ることに成功。一代で高家として復権するに至っている。

よく平安貴族風の公家装束で描かれるが、これも実際に着ていたもので、そもそもこの衣装は公の場における正装である。といっても平素からそのような格好をしていたわけではないし、義元も戦場では戦装束だったはずである(信長公記によると、義元は桶狭間ではしっかり鎧兜の姿だったようだ)。


これらのマイナスイメージは、滅亡した大名家の当主というものばかりではなく、おそらくは自身を討った大名である信長のその後の活躍を描いた講談もの、そして後年に成立した軍学書『甲陽軍鑑』(正確には祖先顕彰本)に基づいた、各種講談での扱いに基づくところが大きく、正規の史書や歴史資料に基づいた記録、それに同時代を生きた信長などの武将たちの証言においては、正しく名将として語られている。

要するに通俗文化のイメージによる風評被害の部分が大きいのである。

義元のように後世で好き勝手に描かれて同様の被害を被った武将は結構いるもので、北条氏政小早川秀秋なども似たような扱いを受けている。


また、これまで桶狭間の戦いは「天下統一のために上洛を目指した義元と、それを阻止しようとした信長との戦い」とされてきたが、近年の研究から上洛も天下統一も義元の(少なくとも当座の)目的ではなく、前述の通り尾張国内の今川方への支援、さらに言えば元々は今川氏の分家の旧領であった那古野を信長から奪取するべく侵攻した、という見解が定説となっている。


尚、2019年は生誕五百周年の年であり、静岡市では今川義元公生誕五百年祭が執り行われ、「今川復権まつり」など今川義元公に関する知名度と理解を深めるイベントが開催された。


近年の創作物ではこうしたいわば「有能な権力者である今川義元」像が再び見直される傾向があり、後述する大河ドラマなどではそれまでの通俗的な表現は抑えられ、有力な戦国大名としての姿が描かれつつある。


静岡駅の銅像

静岡駅北口に2020年5月19日に設置。台座を入れて約2m。

前年に生誕五百年を迎えた他、真の姿の有力な権力者である今川義元を見直す取り組みから戦国武将今川義元公の生誕500年祭推進委員会(事務局・静岡商工会議所)は「海道一の弓取り」と称される義元公の功績を理解し、発信していく顕彰事業の一環であると話している。

その姿も今までのような公家装束ではなく、後述の大河ドラマ「麒麟がくる」に出てくるような勇ましい顔つきの甲冑姿の義元像で、腰に刀を差して座って構えている。

ちなみに銅像制作設置費用はクラウドファンディングで集め、目標は300万円であったがなんと生誕五百年記念としても語呂がいい約500万円も集まったということである。なんとありがたい事だろう。


【一部抜粋】

ここ駿府の繁栄の礎は今川時代にあり、竹千代に英才教育を与え、徳川家康という天下人を生み出した今川義元公は政治的、軍事的手腕をもった類いまれなる名将であった。

  • 題字 臨済寺住職 阿部宗徹
  • 構文 文字博士 小和田哲男
  • 創作 彫刻家 堤直美

なお、義元公像は竹千代像の斜め後ろにあって台座が一体になっており、史実通り「竹千代を人質にとっている今川義元」にも見える。


義元のゆかりの寺『臨済寺』

静岡県葵区臨済寺観光ガイド版wikipedia版〕は今川氏の菩提寺(代々その寺の宗旨に帰依して、先祖の位牌を納めてある寺)であり、今も全国各地から修行僧が集まっている臨済宗妙心寺派の禅寺(禅宗寺院)である。

賤機山山頂には南北朝時代から戦国時代にかけて今川家の詰城である賤機山城が臨済寺真裏(山門から見た山頂付近に)存在した。現在は山道から頂上にかけて城跡に記念碑や城塞跡があり、頂上には救世観音菩薩(今川家とは無関係)がある。

義元の父氏親が開祖であり、出家した義元のために氏親の母の北川殿(今川義忠室、伊勢宗瑞姉)の別邸跡に、雪斎を招き建立した寺院・善得院が前身で、義元が幼い頃修行した場所。

1536年に兄の氏輝が急逝したため、還俗し家督を継いだ義元が氏輝を弔うために、大休宗休を開山として『臨済寺殿用山玄公大居士』の戒名より「臨済寺」と改め開いた寺である。

雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、今川領国内に臨済宗を広げたため、寺勢は大いに興隆した。しかし信玄により焼失し、正親町天皇によりその信玄が再建。今度は家康により焼失し、正親町天皇の内令(命令)により、その家康が再建したものが現在の臨済寺である(厳密に言うと諸説はあるが、信玄進攻後に焼失した臨済寺を武田氏滅亡後に天皇の命令で家康が再建・復興したというのが有力である)。

かつては臨済寺のある賤機山の麓には多くの歴代今川家縁の寺院があったとされるが、その多くが廃寺となり当寺に吸収され、氏輝・義元らと雪斎の墓所があるだけでなく、歴代今川当主の位牌が安置されている。

そして1983年に国の重要指定文化財に指定された『本堂』には左側に義元、右側に長兄の氏輝の木像が安置されており、また雪斎木像も安置されている(ただし開祖の氏親木像は『増善寺』にある)。

通常は寺の境内までしか公開されてないが、例年の義元の命日5月19日と10月15日「摩利支天祈祷会」の2日のみ一般公開している。しかし義元と氏輝の木像のある本堂までなら、他の年間行事でも入る事が可能である(例:2月3日節分禳災祈祷会など)。


創作物での今川義元

信長の野望シリーズ

信長には及ばぬものの、全体的に高い能力を持つ大名として登場。とりわけ政治方面の能力が高く評価されていることが多い。平安貴族風のグラフィックが恒例だが、茶化すわけではなくあくまで風格を感じさせるデザインとなっている(後に、天道のパワーアップキットではついにイケメン義元が登場した)。

多くの作品で歴史イベントとして「桶狭間の戦い」が存在する(しかるべき手段をとる事で回避や、失敗させることも可能)。

初期国力が高く(配下も後の徳川家康こと松平元康などがいるので、織田軍に比べても不自由はしない)、また中央(京都方面)への進軍が容易なことから、序盤の桶狭間イベントで失敗しないように気をつければ、全国統一は容易な部類の大名である。


大河ドラマ徳川家康」(1983年)

演:成田三樹夫

このドラマでは悪役として一世を風靡した成田三樹夫が演じている。

これまでの織田信長(演:役所広司)に討たれるだけのやられ役とは異なり、老獪な戦国武将として登場、幼年期の松平竹千代を軍師・太原雪斎(演:小林桂樹)に預けて一人前の戦国武将に育て上げるまで描かれた。


大河ドラマ「武田信玄」(1988年)

演:中村勘九郎(後の中村勘三郎

北条氏康(演:杉良太郎)、上杉謙信(演:柴田恭兵)など甲斐・武田を囲む強敵の一人として登場、後に武田信玄(演:中井貴一)、北条氏康と同盟を結び、上杉謙信に対抗する。

油断のならない武将であったが、尾張を統一したばかりの新興大名・織田信長(演:石橋凌)を侮り、さらに元家臣であった山本勘助(演:西田敏行)らの工作もあり、桶狭間の戦いにおいて討ち取られる。その最期は雷鳴轟く中、虫の息で「都へ…都へ…」と呟きながら泥道を這いずるという凄惨な物だった()。


大河ドラマ「功名が辻」(2006年)

演:江守徹

第1回「桶狭間」のみ登場。同作は山内一豊の視点で描かれているので、「一豊は父の敵である信長を討つ機会を狙っていたが、桶狭間の戦いで鬼神となって戦う信長の姿に武者の魂を見て心酔する」という展開になっている。


大河ドラマ風林火山」(2007年)

演:谷原章介

今川義元(2010)

師の太原雪斎(演:伊武雅刀)、母の寿桂尼(演:藤村志保)と共に、権謀術数を駆使し武田家を苦しめる戦国大名として、若年期(初登場時の名乗りは梅岳承芳)より登場。主人公の山本勘助(演:内野聖陽)とは終始折り合いが悪く、その事が後々の尾張への出兵において、思わぬ形で自身に災いする事となる。

前出の2名と共に権謀術数を企む場面は「今川暗黒会議」などとも呼ばれ、世の義元ファンを狂喜させたとか。


大河ドラマおんな城主直虎」(2016年)

演:春風亭昇太

直虎おえかき20170108

主人公・井伊直虎の一族・井伊家を支配下に治める東国最強の大名と称される人物で、井伊直親(演:三浦春馬)の父・井伊直満(演:宇梶剛士)らを謀反の罪で死に追いやっている。

部下や子供たちの前では無口で剣呑な雰囲気を漂わせているが、軍師の雪斎(演:佐野史郎)や母の寿桂尼(演:浅丘ルリ子)の前では割と饒舌。「主人公の井伊家が決して逆らえない、偉大で絶大な権力者・統治者としての義元像」を前面に出したイメージであり、今まで悪評だった麿化粧も、ここでは言葉を発しない所や目力と相まって底知れない威圧感や不気味さが前面に出ていた感がある。

演者の昇太氏は静岡出身であり、放映前特番ではMCを務め「義元はねぇ!バカ大名とか思われてますけど本当はそうじゃないんですよ !! 」と役に対する想いを熱弁していた。


また、昇太氏は同じ日曜日に放送されている『笑点』の司会を務めており、司会者に就任してからも者たちに好き勝手弄られては制御できずにムキになってそのまま振り回されるという、同番組での時との雰囲気のギャップがファンの間では語り草となっている(やっぱりともいうべきか、共演者たちには「セリフのない今川義元」といじりのネタにされたが)。

実際『歴史秘話ヒストリア』のある回で出演した際にこの話題に触れ、「役作りのために大好きな出演者との談話を慎むように努めたはいいが、他の役者さんたちとあまり仲よくなれなかった」と述懐して笑いを誘っている。

その努力もあってか、謁見の折の義元の存在感は前述の通り「圧力の塊」と言い得る異様な雰囲気だった。場末の家臣である井伊家からすれば、義元の存在との謁見は命懸けだったのかも知れない…。


そして、「桶狭間の戦い」で史実同様の末路を辿るのだが、その際のサブタイトルは『桶狭間に死す』だったのである。最期の描写はいわゆるナレ死であり、「井伊谷での伝令による報告のセリフと泥道に打ち捨てられた扇子の映像」だけという抽象的な描かれ方で、「これほどの偉大で絶大な権力者・統治者が、たった一つの戦であっけなく滅びてしまう」儚さや無常さを前面に出した演出だった。


大河ドラマ麒麟がくる」(2020年)

演:片岡愛之助

「海道一の弓取り」と称され、強大な軍事力を持つ有力戦国大名。その家柄と軍師・太原雪斎(演:伊吹吾郎)の参謀力を抱え、東海最強の戦国武将の座にある。

平安貴族風の出で立ちではなく鎧と戦装束(甲冑姿)に身を固めたいかにも戦国武将という出で立ちで登場し、前述の「新たに見直された近代の今川義元像」を押し出した姿となった。

桶狭間での戦死の際は、竜騎士の如く槍を構えて跳び込んできた毛利新介が瞳に映った次の瞬間に討ち取られるという印象的な演出がなされた。またその前の「芸人を呼び酒盛りして休憩」も、史実に沿いつつ「武将たる今川義元の権威を示す行動、軍規に厳しい今川軍」という新たな解釈表現がなされていた。


大河ドラマどうする家康」(2023年)

演:野村萬斎

同作では人質に取られていた家康を親のように見守り、実子の氏真と平等に扱っていた。息子を上回る家康の才能を見抜いていて、家康も「太守様」と呼び慕うという、良好な間柄で描かれる。

また、桶狭間の戦いでは自陣で演者の本職ともいえる舞を披露し、それ以外でも貫禄ある姿を見せていたが、今までとは違いたった1話で退場となったほか、その最期もいわゆるナレ死だった(同作は桶狭間の戦いの時期からスタートすることによる)。このように存命中の出番は初回のみだったが、その後も家康を始めとする登場人物たちの回想など変則的な形で作中に登場し、その人となりや教えについて触れられる事もある。

演者の当たり役を彷彿とさせてしまうためか、劇中では平安貴族風の出で立ちは出てこなかった。


【大河ドラマ】みんなの桶狭間


戦国無双シリーズ

今川義元(戦国無双5)

第一作『戦国無双(無印)』で固有グラフィックの特殊NPCとして登場し、『猛将伝』にてプレイアブルキャラクターに昇格(プレイアブル化にともない外見も少し変更された、具体的にはお歯黒の代わりに髭を付けたりした事である)。

テンプレ通りの麿キャラにして蹴鞠マスター。

武器は刀と蹴鞠。


詳細⇒今川義元(戦国無双)


漫画「センゴク外伝─桶狭間戦記─」

ちぇんごく読んだ

信長の好敵手、あるいはもう一人の主人公として登場。本作では一貫して一代の傑物として描かれている。なお、こちらの義元は戦国大戦にも「戦国数寄」(コラボレーション)の枠で登場。

詳細スペックは後述。


戦国BASARA

義元

上記の麿義元と双璧を成す完全無欠のネタキャラ。詳細はこちらを参照。


関連タグ

戦国BASARA登場キャラクター一覧 最上義光※同シリーズの似たようなキャラ


戦国大戦

ぷりんでおじゃる

今川家の君主として登場。

こちらでは元々の「SR仕様」と「センゴク」および島本和彦のデザインした「SS(戦国数寄)仕様」のスペックを併記する。


SR仕様解説

二つ名は「海道一の弓取り」。

非常に有能だが、『圧倒的! 圧倒的よぉ!』(計略使用時)や、『我こそ東海の覇王ぞぉ!』(虎口攻め成功時)などの台詞から、テンションが高く、どこか飛んでいる人物。口を中心に禍々しいフェイスペイントが施され、男なのにガーターベルトを着用している。何かと目を引くデザインで、ある意味では非常に珍しい描かれ方をしている。彼に限らず今川所属の武将は、全員フェイスペイントをしていて個性が強い。


スペックはコスト2 武力7/統率7の弓足軽で、特技は「攻城」(Ver1.2以前は「制圧」)と「魅力」。

武力・統率・特技ともバランスが良く優秀なスペック。キー計略持ちでありながら武力要員での採用もありうる。 流石当主と言うべきか。


固有計略は今川家所属者のみを対象にしたハイリスク・ハイリターンな全体強化『上洛の幻』。今川家に属する武将の武力を大幅に引き上げるが、効果の終了時に兵力が大幅にダウンするかなり重いデメリットもある。兵力ダウンは「現在の値の80%」ではなく「100%を基準とした80%」のため、終了後の全軍撤退は必至。まさに圧倒的な力で敵軍を圧殺できるが、その後のフォローをきちんとしないと大惨事になるため、使う際はよく考えて使おう。


『我が軍の力は圧倒的…すなわち天下最強である!』


SS仕様解説(「センゴク」版)

二つ名は「唐鏡の申し子」。

実物カードイラストも作者本人が手掛けており、台詞回りも原作になぞらえたものが大多数を占める。


スペックはコスト2 武力7/統率8の槍足軽で、特技は「魅力」。

SR仕様と比べると、コストと武力はそのままに統率が+1されて「攻城」がなくなり、兵種も弓足軽から槍足軽になった。


持ち計略の「果てなき遊び場」は、「上洛の幻」同様に今川の武将を限定にした大名采配系計略。前者との違いは、武力の上昇幅が減った分兵力を回復する効果が付与されている。もちろん、効果の最後には固定の兵力ダウンがついているため注意。


「乱世っていう遊び場には

  誰にも足を踏み入れさせない」


SS仕様解説(島本和彦版)

二つ名は「走れ名門」。

なぜか口に咥えた串に今川焼を刺してある。


スペックはコスト2 武力6/統率7の槍足軽で、特技は「魅力」。

上の義元と比べると見劣りするが、計略はこちらも強力。


その計略である「大勢力の爆進陣」は、「陣内の今川家の武将数+1」の値だけ自身と味方の武力を上昇させる陣形計略。状況によっては、破格の上昇値を叩きだす事も可能。ただし、数が物を言う陣形計略なので必然的に個々の能力が低くなるため撤退させられやすく、各個処理されると苦しい立場になる。

上二人のものと比べて兵力が減らず、別の勝ち筋も仕込みやすいため、上手く使えればリスク抜きに高い爆発力を引き出せるのが利点。


「天下など、この義元が

   ペロリと喰ろうてやろう!」


殿といっしょ

海道一の関取…もとい弓取りと名高い、東国有数の大大名。冒頭の言い間違い(by氏真)からもわかる通りでっぷりした巨体で、公家風の外見をしている(氏真が幼い頃は武将風のいでたちをしている)。全く政治を顧みないバカ息子にほとほと呆れているが、その外見や人望の薄さをしょっちゅう氏真からイジられており、「あんまりモテないから他国から養子(=氏真やおつね)を貰った」都さえ思われていた。

元康(徳川家康)の部下・鍋七郎からは「主君をいじめる悪漢」と思われ、顔を合わせるたびに襲撃されている。


信長の忍びシリーズ

CV:関智一森可成と兼ね役)

東国三大大名の一人で、家康の正室・築山殿の叔父。内政・外交・軍事の全てに長けた名将で、朝倉宗滴からも実力者と認められていたのだが、「自分より実力の劣るものを歯牙にかけない」という図々しさがあることを雪斎からも見抜かれていた。

この時代珍しく「本気で天下統一を目論んでいた」野心家でもあり、雪斎亡き後上洛のために邪魔な尾張に侵攻を掛けるも、主人公・千鳥の伝令を受けた織田軍に察知され、突然の雨に一時休止を命じた所を強襲される。諸悪の根源たる千鳥に対して矢を放つも捌かれてしまい、獅子奮迅の戦いの末に馬周り衆の猛攻の前に膝を突き、滅多刺しにされ戦死。

死後もたびたび亡霊として地の文にツッコミを入れる。


パズあに

おじゃる


御城プロジェクト:RE

御城プロジェクト:RE 敵兜「今川義元」

と呼ばれる敵として登場。特徴的な麻呂顔を残しつつ、他の兜と比べてもかなり華奢な体つきをしている。自身が持つ巨大な弓の他、ファンネルのように飛行する弓ユニットを携えている。よく創作でなされる「高慢かつ高貴」という性格をこれでもかと誇張したような性格をしており、高慢は一週回って他のあらゆるものを見下し、高貴は一週回って「撤退の時すら神輿に乗る」というロイヤルっぷりを見せる。強さはかなりのもので、高火力の弓攻撃をポイポイととばしてくる。移動速度も速く、ブロックができる盾や一瞬で削れる遠距離火力担当がいないと削れないままスルーされ、殿を射殺される。覚醒すると付属品だったはずの弓ユニットが独立して行動するようになり、盾持ちのブロックを通り抜けるため、早く破壊しないと本体を殺してもファンネルで相打ち…なんて事に。


ラヴヘブン

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはNでの登場だが、高いレア度でのリメイクも多くされている。

長い黒髪と、右の目元のほくろが特徴的。武士でありながら公家の文化も嗜むセレブ。メインストーリーでは敵として登場するが、主人公らの活躍により解放。


今川さん

静岡市発のゆるキャラ。非公式キャラであるにもかかわらず、「今川義元生誕五百年祭」では公認広報キャラクターに抜擢される。義元公の功績と知名度を上げるために静岡市はもちろんいろんなイベントにPR奮闘中。


Fateシリーズ

センシティブな作品

ネタキャラ化しやすい今川義元モチーフのキャラクターの中では、真っ当に活躍している。

詳細は今川義元(Fate)を参照。


関連タグ

戦国武将 戦国時代 宗三左文字

織田信長 武田信玄 徳川家康 前田利家

静岡県

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今川ヨシモト:「戦国乙女」の登場人物。

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