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武田信虎

たけだのぶとら

甲信地方の戦国武将。甲斐武田氏の当主として、内乱の続いていた甲斐国内の統一に尽力するも、やがて長男・晴信との対立から国外へと追放された。(1494年/1498年-1574年)
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生涯

家督相続と家中の内乱

15世紀末、甲斐国の守護大名である武田氏第17代当主・武田信縄の嫡男として生まれる。幼名及び通称は五郎。元服後の初名は信直。生年については長らく明応3年1月6日(1494年2月11日)と伝えられて来たが、これは後述の没年からの逆算であり、21世紀に入ってからは明応7年(1498年)の同日ではないか、という指摘も呈されている。

永正4年(1507年)、父・信縄が37歳で死去したことにより14歳で武田氏第18代当主となるが、この当時の武田氏は15世紀前半から続く一族内の不安定ぶりや、穴山氏や小山田氏、跡部氏などといった有力国衆の台頭もあり、国内統治もままならぬ状態にあった。
とりわけこの当時、信縄が伊豆を追われた堀越公方・足利茶々丸を保護した事に端を発する、祖父・信昌や叔父・油川信恵との対立は深刻なものがあり、信恵は茶々丸を追放した伊勢宗瑞(北条早雲)今川氏親と結び、父の後ろ盾の元に家督を狙うようになる。一方の信縄も宗瑞と対立関係にあった山内上杉顕定と結託し、茶々丸を擁して信昌側に対抗。後に山内上杉氏と伊勢氏の和睦もあり、武田と今川・伊勢間での和睦こそ成立したものの、肝心の家中での対立という図式は信虎に代替わりした後も変わらず、家督を継いだ直後に早くも信恵の謀反に直面する事となる。
この信恵の謀反には、もう一人の叔父である岩手縄美や、栗原昌種、小山田弥太郎ら有力国人も加担したが、信虎は翌永正5年(1508年)の勝山城の戦いで、信恵を初め有力者の大半を夜襲によって討滅し、武田氏の統一に成功する。さらに続く坊峰合戦では小山田弥太郎を討ち取り、後を継いだ小山田信有(越中守、出羽守信有の父)に対しては妹を嫁がせ和睦を結び、これを服従させている。

こうして最初の試練こそ乗り越えたものの、一息つく間もなく今度は外敵との戦いに追われる事となる。小山田氏を従属させた頃には甲斐の北西部にて、信濃の諏訪氏と戦端を開いており、さらに永正12年(1515年)には甲斐南部・河内地方を領する穴山氏の帰属を巡って、駿河の今川氏とも対立。この戦いでは穴山氏だけでなく、大井氏などの国衆も今川氏に加担し一進一退の攻防が続いたが、永正14年(1517年)に入ると今川軍と一時的な和睦が成立し、その3年後には大井信達を破ってその娘を室に迎えている。

甲府の整備と周辺勢力との対立

祖父・信昌の頃より、武田氏の本拠たる甲斐の守護所は石和(現・山梨県笛吹市)に置かれていたが、信虎は永正15年(1518年)にこれを相川の扇状地へと移し、翌年には居館である躑躅ケ崎館、さらにその詰城である要害山城を相次いで築くなど、現在も続く甲府の基礎がここで形作られる事となった。しかしここでも、甲府への移住に反対する家臣や国衆の反発に直面しており、信虎は栗原氏を始めとするこれら国衆たちの制圧にも頭を悩まされる事となる。
さらに永正18年(1521年)には、今川傘下の福島正成(北条綱成の父)による甲斐国内への侵攻も発生しているが、信虎は一旦要害山城に退いた後、飯田河原合戦と上条河原合戦の2つの戦いで今川勢を破った。またこの年には、長男の武田晴信も誕生し、さらに幕府への申請により従五位下に叙せられ、左京大夫にも補任された。

父・信縄の頃からの外交路線を継承し、山内上杉氏と扇谷上杉氏を支援する立場にあった信虎は、大永4年(1524年)にはこれを支援すべく関東に出兵し、両上杉氏と対立する伊勢氏改め後北条氏とも本格的な抗争状態に突入する。一旦は和睦も成ったものの、後北条氏の上野侵攻を巡ってこれが破綻すると、大永6年(1526年)の梨の木平の戦いで北条氏綱の軍勢を破っているが、その後は結局一進一退の攻防にもつれ込む事となった。一方で享禄3年(1530年)には前関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えるなど、両上杉氏との関係をさらに強めている。
翌大永7年(1527年)には佐久郡への出兵を行い、さらに今川氏の代替わりを機にこれと和睦する事にも成功するが、翌年の諏訪攻めでは諏訪頼満頼隆親子に敗北を喫し、さらに4年後の享禄4年(1531年)には上杉氏より側室を迎える事への反発から、飯富虎昌(山県昌景の兄)らが甲府を退去し、諏訪頼満とも組んで反乱を起こすものの、信虎は同年4月にこれを鎮定した。
結局諏訪氏との抗争は、天文4年(1535年)9月に信虎と頼満との間で和睦が結ばれた事により、一旦収束を迎える事となる。

今川氏との和睦~佐久侵攻

天文5年(1536年)、今川氏輝の死後に今川氏の家督を巡って花倉の乱が発生すると、信虎は当事者の一方である栴岳承芳(今川義元)を支援。その結果乱は承芳側の勝利に終わり、翌年には長女・定恵院を義元に嫁がせ(なおその縁で信虎が所有していた刀「宗三左文字」が義元の手に渡っている)、一方で今川氏の仲介により嫡男・晴信の室に公家の三条家の娘を迎える事により、今川氏との間で甲駿同盟が締結される事となった。
とはいえこの時もやはり武田家中からの反発が発生しており、結果として反義元派を支援していた前嶋一門の粛清や、これに反発した奉行衆の国外退去といった事態も招いている。さらに甲駿同盟は、それまで今川氏と後北条氏との間で結ばれていた駿相同盟の破綻をも招き、富士川以東の地域を巡って軍事衝突(河東の乱)が勃発する引鉄ともなった。この河東の乱において武田氏は今川氏を支援し、対する後北条氏は武田領である甲斐都留郡へと侵攻しているが、天文8年(1539年)に武田・北条間で和睦が成立した事で乱も一段落を迎える。

その一方、天文5年の信濃佐久郡への侵攻の折には、この年元服したばかりの嫡男・晴信が初陣を飾り、天文9年(1540年)には先の飯富虎昌の反乱以来、長らく対立関係にあった今井信元を浦城で降伏させた事で、ようやく甲斐国内の完全な統一を果たした。同時期には諏訪頼満の孫に当たる諏訪頼重に三女・禰々を嫁がせ、諏訪氏との同盟関係の強化にも努めている。
諏訪氏だけでなく、この頃には北信濃を治める村上義清とも結び、天文10年(1541年)には武田・諏訪・村上による佐久郡への遠征で小県の海野棟綱を破り、これを上野へと追っている。こうして甲斐国内だけでなく、国外にも勢力を伸長しつつあった信虎であったが、程なくしてその身の上に思いがけぬ事態が降りかかる事となる。

甲斐追放~晩年

事件は信虎が佐久遠征より凱旋した直後の、天文10年6月に発生した。この時信虎は娘婿の今川義元と会うため駿河に赴いたのだが、その直後甲駿国境は厳重に封鎖され、信虎は守護職を剥奪の上駿河にて隠居を強制されてしまったのである。事実上の国外追放とも言えるこの計画を実行したのは嫡男の晴信、そして板垣信方甘利虎泰ら譜代家臣の一派であった。
この一件の背景には、晴信が長ずるにつれて信虎が彼を疎んじ、遂には晴信を廃嫡して次男の信繁に後を継がせようと画策した事、また治世の当初こそは仁政を行っていたものの、次第に度重なる外征の軍資金を確保する為、農民や国人衆に重い負担を課して暴政を行うようになった事などがあると伝えられている。
一方、こうした信虎の「悪行」の数々については『甲陽軍鑑』を始め後世に成立した書物に拠るところが大きく、同時代の一次史料や当地の伝承などには殆ど見受けられないという指摘もある。後述の追放を正当化するためのものとして、ある程度は差し引いて考える必要もあるだろうが、いずれにせよこの追放劇に際して信虎に付いた家臣が殆どいなかった事なども含め、少なくとも信虎と重臣達との間で何らかの対立が生じていた可能性は高い。

かくして行き場を失った信虎は、武田氏より隠居料を与えられつつ、駿河にて隠居生活を送る事となった。後に武田・今川・後北条との間で甲相駿三国同盟が締結されると、これと前後して信虎も出家し無人斎道有と名乗っており、この頃までには甲斐への復権を諦めて隠居を受け入れていたものと考えられている。
とはいえ、甲斐追放から2年後の天文12年(1543年)の上洛を皮切りに、以降も度々畿内への遊歴や幕府への在京奉公を行っており、隠居の身とはいえ中央において在京の大名たちや公家との文化的交流も確認されている。永禄年間に入ってからは駿河にて設けた十一男・信友に「家督」を譲り、信虎自身は京都に拠点を移して継続的に在京奉公を行うようになる。
その後も桶狭間の戦いと前後して京都と駿河を行き来していた他、永禄7年(1564年)から3年間程、志摩の甲賀氏の元に身を寄せ九鬼嘉隆追放にも何らかの働きがあったと見られており、さらに室町幕府第15代将軍・足利義昭の治世下でも幕府に仕候を続けるなど、還暦を過ぎてなお政治的な活動を盛んに続けていたようである。
晴信改め信玄の西上作戦が始まった元亀年間には、義昭の命によって近江甲賀郡へ派遣され、当地の大名・六角氏と共に織田領である近江への攻撃を企図していた事が、義昭の家臣であった細川氏の文書に記録されている。

やがて信玄が途半ばで没し、義昭もまた信長に京を追われるに至り、天正2年(1574年)には三男・信廉の居城である信濃の高遠城に身を寄せ、孫の勝頼や家臣団とも対面したという。そしてそれから間もなく当地にて、信虎は娘婿にあたる伊那の禰津政直(松鴎軒常安)の庇護の元で天寿を全うした。時に天正2年3月5日(1574年3月27日)、享年81と伝わっている。

人物

前述の駿河追放やそれにまつわる「悪行」の数々などから、現在でもそのイメージはお世辞にも芳しいものとは言えないが、その一方で長らく群雄割拠の状態にあった甲斐国内の統一や、本拠としての甲府の本格的な整備、さらに積極的な外征や婚姻関係による外交政策など、戦国大名としての武田氏の基礎を築いたのが信虎である事もまた忘れてはならない。また嫡男・晴信との関係はよくなかった一方、信繁や信廉など他の息子達との関係は良好であったとも見られている。

家臣との関係においては自らに反対する家臣を容赦なく手打ちしたという話があるが信ぴょう性に欠けるものが多い。例えば内藤昌秀の実父工藤虎豊は信虎に手打ちにされたと伝わるが虎豊という人物は一次資料に出て来ず、昌秀が関東を放浪していたのは晴信が家督を継いでからだったりする。信虎は気前の良い人物だったとされ、功績を立てた家臣に自らの「虎」を与えるという行為をよく行い、
秋山虎繁甘利虎泰小山田虎満小畠虎盛飯富虎昌春日虎綱三枝虎吉長坂虎房原虎胤等虎の字を持つ家臣が非常に多い。

この他、政治的な意味合いも多分に含んでいるものの、大泉寺における夏安居などといった宗教的な取り組みも度々行っており、中でも大永2年(1522年)の身延山久遠寺への参詣の折に、富士山へも登りその山頂を一周した事例は、後世富士講の一環としての「御鉢廻り」の習俗へと繋がったとも言われている。

平成年間に入って以降は、2018年(平成30年)に甲府駅北口に信虎の銅像が建立された他、大泉寺での信虎報恩供養や記念番組、漫画などを通して、前述した戦国大名としての武田氏や、甲府の町の基礎を作った人物としての観点から、再評価に向けた積極的な動きも見られつつある。


各メディアにおける武田信虎

信長の野望シリーズ

覇王伝PK版から初登場。1534年から大名を務めるが、1541年になるとイベント「武田三代の悲劇」が発生して追放される。

嵐世紀にて再登場。天道PKでは「武田三代の悲劇」に選択肢が追加された。

創造PKでは彼が武田家の大名の場合、政策の1つである甲州法度次第が出来ないので家臣の忠誠率に気配る必要がある。

戦国無双

武器:槍(3) 刀剣(4) 声:藤本たかひろ

地獄に堕とす…貴様を、貴様の民を、すべてを…!」(特殊台詞)
軟弱な!この乱世、軟弱者に武田家を預けてしまえば滅んでしまうわ!」(3Empries:乱世の理より)
その軟弱、武田家には不要じゃ」(同上)
見よ、これが甘い甘い王道の末路じゃ…だから、貴様には武田家を任せておけなかったのだ…だから…だから…」(3Empries:親子の再会)
どれ、わしが味方してやろう。敵を完膚無きまで叩き潰そうぞ」(3Emp:登用時台詞)

概要

3Empriesから初登場。甲斐武田家当主だが、信玄を軟弱と罵り痛めつけ、横暴に振る舞う。やがて戸石崩れ終了後に信玄に追放された。なお大名なのは戦史演武の序盤のみであり、プレイヤーとしては使用不可能。(プレイヤーとして使用可能なのは隠居後の時代(争覇演武)に限られる)

しかし川中島合戦終了後も今川家を操り、信玄を倒そうとするが信玄が今川家を攻めた事に失敗に終わる。だが、諦めるはずもなく今度は織田家を使って滅ぼそうとした。

長篠の戦い終了後、信玄との内通を疑われて信長に追放されるが最終的に信玄と共に織田軍を攻めている。エンディングでは天下統一を果たした信玄の前に現れて抱きあうと同時に短刀で信玄を刺し、芝居と思ってやはり軟弱者と罵倒するも信玄が天下統一した事が本当であった事を知り、信玄が絶命した際には号泣した。(実際は生きていたが)

その後は信玄の口から和解した事が語られた。

3Empriesでは帽子を被っていない固有の老将グラを持っているが、4では普通のモブになっている(4Empriesでは上記の特殊台詞は健在)

戦国†恋姫X

戦国恋姫X 武田信虎


CV朝比奈ゆき
物語が始まるより昔、武田”光璃”晴信によって甲斐から駿河へと追放された、元・武田氏棟梁。
今川義元によって保護されていたが、田楽狭間の戦いによって義元が討ち死にした混乱に乗じ、駿府屋形を占拠。
跡取りである今川””氏真を追放し、駿河の実権を握った。
果てなき欲望のためか、鬼と化し、占領した駿府屋形にて天下への夢を見続けている。

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