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小畠虎盛

おばたとらもり

小畠虎盛とは、武田信虎・信玄の2代に仕えた戦国武将の1人である。1491?~1561。
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プロフィール編集

生没年:1491年〜1561年

幼名・通称:孫十郎、山城守(自称)

号:日意

あだ名:鬼虎


父:小畠日浄

子:小幡昌盛

孫:小幡景憲(勘兵衛)


子や孫に倣って名字を「小幡」表記されることもあるがこれは誤りである(後述)。

概要編集

遠江国出身とされる。1500年、父・日浄が甲斐国の武田信虎に仕官したため父に従い甲斐に移る。

しかし日浄が1504年に今井信是の反乱鎮圧戦で討死した為、14歳にして小畠家の家督を継ぐことになる。


虎盛が家督を継いだ頃の甲斐では、国内統一を目指す信虎とその動きに反発する国人の激しい戦いが行われており、信虎は武芸や軍略に秀でている者は他国者であっても足軽大将に任命し、虎盛も信虎に見出されて足軽大将となる。


1521年に今川氏親が福島某という武将を総大将に甲斐へ侵攻すると原虎胤が総大将を討ち取り、それ次ぐ虎盛も総大将の叔父を討ち取る手柄を上げた。この時の褒美で信虎の偏諱を受け虎盛と名乗っている。


1541年に信虎が晴信(のちの信玄)によって駿河に追放されると、虎盛は晴信に使えるようになる。


1560年、山本勘助が築城した海津城高坂昌信と共に守るように命を受け、在城する。しかし、1561年に川中島の戦いの始まる2ヶ月程前に病死した。この時71歳、全身には40もの傷があったという。

そして『よく身の程を知れ』という名言は、彼が息子の昌盛にした遺言であった。

また昌盛の代に名字が同音異字の「小幡」になっているが、これは昌盛が虎盛死後の上野攻略後、上野国の名族の「小幡」姓を名乗ることを信玄に許され、小幡憲重(元長野業正家臣)の承諾を得て改姓したためである。


関連タグ編集

武田信虎 武田信玄

原虎胤横田高松山本勘助、多田三八郎:「武田五名臣(甲陽五名臣)」繫がり。ちなみに虎盛を含めて五名臣全員が他国出身者である。

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